武藤容治
武藤 容治(むとう ようじ、1955年〈昭和30年〉10月18日 - )は、日本の政治家、実業家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、経済産業大臣(第31・32代)、原子力経済被害担当大臣、GX実行推進担当大臣、産業競争力担当大臣、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)。自由民主党国会対策副委員長、自由民主党経済産業部会長、自民党岐阜県支部連合会長[2]。 経済産業副大臣兼内閣府副大臣(第3次安倍第3次改造内閣・第4次安倍内閣)、外務副大臣(第3次安倍第1次改造内閣)、総務大臣政務官(第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣)、衆議院農林水産委員長を歴任した。 概要岐阜県岐阜市出身(現住所は各務原市那加桜町1丁目[3])。慶應義塾高校卒業、1978年3月、慶應義塾大学商学部卒業。同年4月、富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)に就職。1988年9月、同社退社。同月、武藤嘉商事に転職。1990年、岐阜青年会議所に入会。同年2月、父親の武藤嘉文が通商産業大臣に就任。父親の私設秘書となる[4]。1992年12月、エフエム名古屋(現ZIP-FM)取締役に就任。日本青年会議所で国づくりデザイン推進会議幹事などを務める。 1996年12月、武藤嘉商事代表取締役社長に就任。2003年1月、岐阜県肥料商業協同組合代表理事に就任。2004年12月、菊川株式会社代表取締役社長に就任。 2005年8月13日、父親は岐阜市内のホテルで引退を表明し、二男の容治を後継者に指名した。同年9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙に岐阜3区から立候補し、民主党の前職の園田康博を破り初当選。 2008年4月には、無派閥から麻生派(為公会)入りした。 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で落選。 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で国政復帰を果たす[1]。 2014年9月、第2次安倍改造内閣で総務大臣政務官に就任。同年12月の第47回衆議院議員総選挙で3選。 2015年10月、第3次安倍第1次改造内閣で外務副大臣に就任。 2017年8月、第3次安倍第3次改造内閣で経済産業副大臣兼内閣府副大臣に就任[5]。同年10月31日に行われた第48回衆議院議員総選挙で4選。 2021年10月31日、第49回衆議院議員総選挙で5選。 2024年9月12日、自民党総裁選挙が告示され、9人が立候補した。武藤は同じ麻生派の河野太郎の推薦人に名を連ねた[7]。投票日前日の9月26日夜、麻生派幹部6人は都内のホテルに集まり、決選投票に高市早苗が残った場合は高市を支持する方針を決定した[8]。会長の麻生太郎はさらに踏み込み、河野などの陣営に入っていた派閥メンバーに対し、側近議員を通じて「1回目の投票から高市に入れろ」と指示を飛ばした[9]。同日22時半頃、産経新聞は、麻生が1回目の投票から高市を支援するよう自派閥の議員に指示を出したことをスクープした[10]。9月27日総裁選執行。高市は1回目の議員投票で、報道各社の事前調査での30~40票を大きく上回る72票を獲得した[8]。党員数と合わせた得票数は1位だったが、決選投票で石破茂に敗れた。武藤は1回目は河野に投票し[11]、決選投票については、中日新聞の取材に対し、投票先を公表しなかった[11]。 同年10月1日、同日発足した第1次石破内閣において、経済産業大臣、原子力経済被害担当、GX実行推進担当、産業競争力担当、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)として初入閣した[12]。同月27日、第50回衆議院議員総選挙で6選[13]。同年11月11日に発足した第2次石破内閣において経済産業大臣に留任[14]。 政策・活動
不祥事
人物選挙歴
所属団体・議員連盟
脚注
参考文献
外部リンク
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