中野正志
中野 正志(なかの まさし、1948年2月29日 - )は、日本の政治家。「自由民主党宮城県ふるさと振興支部」支部長[1]。 宮城県議会議員(3期)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、国土交通大臣政務官(第2次小泉改造内閣・第3次小泉内閣)、経済産業副大臣(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、日本のこころ幹事長[注 1]、同代表[注 2]などを歴任。 来歴国政進出まで宮城県塩竈市生まれ。父親は消防士であった[1]。東北学院中学校・高等学校を経て、東北学院大学法学部卒業[1]。中学校、高校時代には土木作業のアルバイトに励んだ。大学1年生時に学内の弁論大会で優勝した[1]。 大学卒業後には、約15年間に渡って三塚博の秘書を務めた[1]。1983年、宮城県議会議員に当選[2]。以後、3期務める。2期目途中の1989年には無所属で参議院議員選挙に立候補したが落選。 自民党時代1996年10月の第41回衆議院議員総選挙で宮城2区から自民党公認で立候補し初当選。当選後は秘書として仕えた三塚が率いる清和政策研究会に入会[要出典]。2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では、民主党新人の鎌田さゆりに敗れ落選。 2003年の第43回衆議院議員総選挙では、小選挙区で敗れたが比例東北ブロックで復活当選し、国政に復帰[3]。翌年12月、鎌田が公職選挙法違反事件で連座制のため議員辞職したことを受け、2005年4月の衆議院補欠選挙に立候補することも検討したが、自民党内から「現職が辞職して同じ選挙に出るのはおかしい」と批判され断念[3]。同年9月の第44回衆議院議員総選挙では比例東北ブロックに回り、名簿順位2位に記載され、3選[4]。当選後、第2次小泉改造内閣で国土交通大臣政務官に就任[2]。2007年、第1次安倍改造内閣の経済産業副大臣に就任[2]。 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙は落選[5]。2010年7月、第22回参議院議員通常選挙に比例区の自民党候補として立候補したが再び落選[6]。その後、たちあがれ日本宮城2区支部長に就任し、2012年6月28日に自民党へ離党届を提出[7]。同年7月13日に離党が了承された。 非自民政党所属時代2012年12月の第46回衆議院議員総選挙には日本維新の会公認で宮城2区から立候補したが落選[8]。 2013年7月の第23回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し当選、国政に復帰。全国合計で32,926票(うち地盤の宮城では26,320票)を獲得、得票数5位で当選した[9]。 2014年8月、日本維新の会の分党に伴い次世代の党に参加。次世代の党が第47回衆議院議員総選挙で惨敗したことを受けて、参議院議員ながら衆議院の国会対策委員長に就任した。2015年11月11日、同党の両院議員総会で幹事長を兼務する人事が内定し、11月16日から幹事長兼国対委員長に就任[10]。12月21日に党名が日本のこころを大切にする党に変更された際には、党名変更を巡って党員の江口克彦が離党するなど混乱があったが、中野は党に留まった[11]。2016年9月、党の選挙対策委員長と議員総会長を兼任。 2017年9月25日、中山恭子代表が辞任したことを受け、代表代行を経て[12]、9月30日、支部長らによる会合にて、後任の代表への就任が承認された[13]。 自民党に復党2018年11月1日付で日本のこころが自民党に吸収合併され、約6年ぶりに同党に復党した[14]。 2019年3月、同年7月に行われる第25回参議院議員通常選挙には出馬を見送った[15][16]。 その後は第49回衆議院議員総選挙での比例代表からの立候補を模索したが、2021年10月の解散時点で「73歳以上は原則比例で公認しない」との党内規に中野が該当することから擁立が見送られた[17]。 2022年夏に予定される第26回参議院議員通常選挙に向けては、宮城県選挙区において6年前の参院選では野党統一候補として当選し、その後自民会派に入った現職の桜井充と、中野の秘書出身の石川光次郎県議が自民党の公認を争ったが、4月に党は桜井を公認すると決定。中野はこの方針に反発し、無所属での活動も視野に自身が立候補を検討する考えを示した[18]が、4月20日までに立候補を断念した[19]。 2023年秋の叙勲に於いて旭日重光章を受章した[20][21]。 政策・主張
発言
不祥事
主な所属団体・議員連盟脚注注釈出典
外部リンク
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