山形県
山形県(やまがたけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は山形市。 県名の「山形」は、『和名類聚抄』に今の山形市の南側を「 県域の西側は日本海に面する。 地理・地域広袤(こうぼう)国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、山形県の面積は9323.15平方キロメートルである[2]。
国土地理院地理情報 によると、山形県の東西南北それぞれの端は以下の位置である。最東端は最上郡最上町堺田。最西端は酒田市御積島。最南端は米沢市関。最北端は酒田市飛島の八幡崎。加えて、県境未確定地域に仮の境界線を入れて求めた重心も併記する。また統計局の 平成22年国勢調査 によると、人口重心は西川町吉川付近にある。 地形県の東側一帯で宮城県との境に奥羽山脈、県の西部に朝日連峰がそびえているように、県域の大半 (85%) を山地が占め、総面積に対する森林の割合は 75% 、農業用地の割合は15%である。県の中央には最上川が流れる。県民の多くがこの川の流域に住んでいるため、「母なる川」とも呼ばれている。北西側の日本海上には県唯一の離島、飛島がある。
自然公園気候隣県の新潟県や秋田県と同様に県内全域が日本海側気候であり、県全域が豪雪地帯に指定されており、そのうち面積にしておよそ75%が特別豪雪地帯である。日本海に面する庄内地方が、夏冬ともに県内では最も気温が高く、年間平均気温も北関東や東京都の西部内陸部とあまり変わらないほどで、緯度の割に温暖であるかが分かる。夏は熱帯夜になるほど蒸し暑い一方、冬は温暖だが、日照時間が少ない。気温が高いために雪は降っても解けやすく、山形市の場合、積雪量はそれほど多くは無いが、酒田市や鶴岡市などでは突発的に豪雪となる年もある。一方、内陸側は内陸性気候で寒暖の差が激しく、置賜地方などでは−15°C近くまで下がることも珍しくない。夏は非常に暑いが比較的乾燥しており、朝晩は涼しくなり、熱帯夜も庄内地方と比べると少ない。 春季から夏季にかけてはフェーン現象が発生しやすく、突発的に猛暑日に見舞われることも決して少なくない。1933年(昭和8年)7月25日に山形市で観測された気温40.8°Cは、2007年(平成19年)8月16日に埼玉県熊谷市、岐阜県多治見市で観測された気温40.9°Cに抜かれるまで、74年間にわたって日本最高気温の記録を保持していた。
自治体県下には、以下の13市8郡19町3村がある。町は「まち」(河北町では「ちょう」)、村は「むら」と呼んでいる。 平成の大合併においては庄内地方を除いて市町村合併が行われなかった。また同期間内に、新しい名称の市が誕生しなかった数少ない都道府県(他に神奈川県、大阪府、鳥取県、宮崎県)である。
地域圏県内は村山地方、最上地方、置賜地方、庄内地方の4つの地方に分けられ、それぞれ気候・文化などの面で違いがある。またそれぞれに県の出先機関として総合支庁が置かれている。
5年毎の国勢調査による県人口は、戦前は一貫して増加し、戦後の第一次ベビーブームによって1950年(昭和25年)に最大になった。その後は産業構造の変化で、郡部から都市部へ労働力が移動し、県内各市の都市化と県外諸都市への移住とによって県全体では人口が減少した。第二次ベビーブームに入っても人口減が続き、1975年(昭和50年)に県人口は戦後最低となった。1985年(昭和60年)に1,261,662人まで増加して第二のピークとなった後、人口は減少に転じている。なお、都市別・地域別には県全体の人口増減とは必ずしも同期しておらず、山形市がある村山地方(山形盆地)はほぼ1つの都市圏として機能し、県内における人口比率を上げている。 都市圏都市雇用圏(10 % 通勤圏)の変遷
2005年に東根都市圏と南陽都市圏は、それぞれ山形都市圏と米沢都市圏に併合された。 歴史古代今から約3万年前ごろ(後期旧石器時代)に大型哺乳動物(ナウマンゾウ、オオツノシカ、ヘラジカなど)を狩猟する人々が山形に現れた。その時代の遺跡として最上川(真木遺跡朝日町、明神山遺跡寒河江市)や荒川(荒川遺跡小国町)・赤川などの主要河川やその支流の河岸段丘上に100カ所以上見つかっている。それらの遺跡からは、槍先に使う斜軸尖頭器や木の枝や骨に溝を付けそこに埋め込み利器とした石刃などの狩猟用道具が多く発見されている。 縄文時代の遺跡も数多く確認されているが、三崎山遺跡(飽海郡遊佐町)では大陸との交易によって入手したとみられる約3000年前の青銅刀子が出土している[4]。日本国内での出土例としては最も古い部類に入る。日本海の海運によって弥生文化の伝搬も早期にもたらされたが、弥生後期には続縄文文化が県内を南下し、寒冷化による村落の水没とも相まって最上川流域では稲作が衰退した[5]。 山形県で古墳文化が到来した時期は、思いのほか早く(海上の日本海側の交易ルートは新潟の糸魚川産の翡翠などの例もあるように古代から拓けていたため)、米沢盆地内の米沢市摘山古墳や南陽市蒲生田山2号墳- 4号墳は、4世紀前半には造営されていた。そして、県内最大、東北5番目の大きさを誇る前方後円墳の稲荷森古墳(全長96m、南陽市)が出現したのは西暦375年~400年の古墳時代の4世紀ごろであった[6]。 当初、庄内地方は越後国の、置賜・村山・最上地方は陸奥国の一部であったが、越後国からの要請があり、和銅元年(708年)出羽(でわ)郡が置かれた。出羽は初め「いでは」と読み「出端」の意味で、越後の国からみて北端に出ていたことから命名されたと言われている。さらに翌年、出羽柵が設置された。出羽郡の範囲は、ほぼ最上川より以南の庄内地方を指していたらしいが、位置についての説は色々あって確定していない。和銅5年9月23日(712年10月27日)[7]、出羽国建国が奏上され、元明天皇から裁可されて、同年(10月)に陸奥の国から最上・置賜の2郡を分けて出羽郡に合併し、出羽国が設けられ、庄内に国府が置かれた(城輪柵)[8]。仁和2年(886年)最上郡が2郡に分割され、北が村山郡、南が最上郡となる。このころには羽州街道も整備されている。 時期・規模については諸説あるが、最上川中流域(寒河江市・天童市・河北町・東根市・村山市)に藻が湖という湖があったといい、行基・円仁らによって川道開削が行われ、縮小消滅したという伝承が残る[9]。また「最上」の語源になったともいう。 中世平安時代山形県地域には数多くの荘園が見られ、その多くは摂関家荘園であった。後期になると奥州藤原氏が荘園を管理したが、その滅亡と共に地頭請の武士たちが入部した(武藤氏(庄内大泉荘)、大江氏(長井荘・寒河江荘)、里見氏(成生荘)など)。南北朝時代には陸奥国の奥州探題・斯波氏が分派して山形に勢力を扶植し、地名を採って最上氏と称した。また、室町時代初期に陸奥国伊達郡を拠点としていた伊達氏が置賜地方に侵攻し、長井氏領を支配下においた。 戦国時代は最上郡(現・村山地方)の最上氏、置賜郡の伊達氏(天文の乱の後、本拠を伊達郡から米沢に移した)、庄内の大宝寺氏が割拠した。最上氏は最上義光、伊達氏は伊達政宗の名将が登場し、一大版図を築いた。豊臣秀吉の奥州仕置と米沢への上杉氏の転封により、関ヶ原の戦いにおいては、会津・上杉軍と山形・最上氏との間で激戦が繰り広げられた。(長谷堂城の戦い) 近世江戸時代初期に最上氏が改易となると、山形藩に鳥居忠政が入り、その縁戚関係として庄内藩に酒井忠勝、新庄藩に戸沢政盛、上山藩に松平重忠が入った。その他、米沢藩、米沢新田藩、(出羽)松山藩(→松嶺)、天童藩、長瀞藩の各藩と20万石に及ぶ天領があった。明治時代の地方区分では、羽前国全域と、羽後国の飽海郡が、現在の山形県に相当する。 河道整備や舟運の発達により最上川が主要な輸送ルートとなり、流域では商業が発展し上方の文化が移入した。 近代
人口
山形県の人口は1950年の135,7万人をピークに減少傾向である。かつては東北地方では福島県に次ぐ東北第2の県であったが、1925年(大正14年)に宮城県に抜かれたのをきっかけに、岩手県、青森県、秋田県に抜かれ、東北地方で最も人口が少ない県になったことがある。その後は、1970年代に入ってから再び増加に転じ1989年(平成元年)には127万人まで増加し、秋田県を抜かし、東北第5位の人口規模となった。しかしその後、1990年に入って山形県の人口は再び減少に転じ、その後は3度目の増加に転じることは無かった。 2020年の国勢調査によると山形県の人口は106万8696人となっていて、ピーク時より約29万人減少した。特に2000年以降は合計23万人以上減少している。国立社会保障・人口問題研究所の2023年の予測によると、山形県の人口は2030年に94.5万人、2040年には82.8万人になると推計されている。
山形県人口動態2024年現在の人口は101万人となっており100年前の1924年(大正13年)とほぼ同じ人口水準となっている。山形市・東根市・天童市は人口減少が緩やかだが、庄内や最上では人口減少が大きくなっている。
政治歴代知事(公選)→詳細は「山形県知事一覧」を参照
財政平成19年度
平成18年度
平成17年度
平成16年度
経済・産業農業山形県は果樹王国として全国的に有名である。主な生産品としてはサクランボがあり、高級ブランド佐藤錦が名産である。
米の収穫量は、かつては農業生産の約七割が米だった。2006年の県別順位で5位の419,000トン(農林水産省統計)で、東北各県や新潟県とともに稲作が盛んな地として知られる。(主力品種:はえぬき、つや姫、雪若丸) 名産工業
金融機関生活・交通警察消防
税務
法務
公共施設
交通「JR仙山線」や「山形・仙台間高速バス」、国道48号(関山街道)や国道286号(笹谷街道)、山形自動車道などの多様な交通網の発達に伴って山形県民の宮城県での消費量が増加し、近年においては宮城県の商業圏が山形県村山地方にまで広がっている。そのため物流や観光の振興、文化交流などが図られた一方、山形県の中心市街地の衰退にも繋がっているという状況となっている。 道路
鉄道多くの区間が単線であり、山形市内の一部区間[注釈 2] を除いて本数は毎時1本以下である。 バス内陸部では山交バスが、庄内では庄内交通が都市内、都市間バスを運行している。ただし、山形におけるバス交通をみる場合に何よりも重要なのが仙台都市圏との高速バスによる交通である。山形 - 仙台間の高速バスは1981年に1日4往復でスタートし、1990年代半ばには年間利用者が60万人に達した。その後、山形自動車道の整備や運行回数の増加などにより利便性が高まり、2004年度には100万人を突破。2006年には128万人の利用者となっている。現在も電車よりはるかに本数は多く、ラッシュ時には5分間隔である。また、仙台へは酒田、鶴岡、米沢、上山、寒河江、新庄の各市をターミナルとした路線も開設されており、合計で1日約4,500人が利用している。山交バスと庄内交通の双方が運行する庄内 - 山形間の高速バスも一日約300名が利用している[16]。 空港航路では東根市に山形空港、酒田市に庄内空港が位置する。山形空港は1991年に利用者74万人を達成したが、山形新幹線の延伸、東京便、札幌便の減便や使用機材の小型化などにより、2006年には20万人を割り込んでいる。一方、庄内空港では1991年に就航した東京便が順調に伸び、ここ数年は40万人前後の利用者数を維持している。2019年からはLCCのジェットスター・ジャパンも成田国際空港から就航開始したものの、COVID-19に伴う航空需要減退により長期運休となり、2021年3月28日から廃止となった[17]。 医療・福祉→詳細は「Category:山形県の医療機関」を参照
山形県では、高齢化率が25.5%(2005年)と全国第四位の数値となっており[20]、高齢化が進行しているものの、平均在院日数は全病床で29.4日(全国平均34.7日)、老人医療費は一人あたり69万5,675円(全国平均82万1,403円)であり全国でもトップクラスの低い値にある[21]。 2006年10月現在の病院数は70、人口10万人あたりの病院数は5.8(全国7.0)。病床数は1万5,328床、人口10万対では1,268.9(全国 1,273.1)。一般診療所は924、人口10万人あたりの一般診療所数は76.5(全国77.2)であるが、病床を有する一般診療所は 123 で減少傾向にあり、病床数は1,275床、人口10万対では105.5(全国 125.1)である。また、2006年12月末現在の県内の医師数は2,452名、人口10万人対医師数は203.0(全国217.5)となり、村山地区では全国平均を上回っているものの、他地区では全国平均を下回っている。 村山医療圏では、山形大学医学部附属病院と山形県立中央病院の2病院が三次医療機関として県全域をカバーする高度医療を提供するとともに、山形市立病院済生館、山形済生病院など基幹となる病院や民間病院が山形市内に集中しており、寒河江・西村山地区では山形県立河北病院が、北村山地区では北村山公立病院が核となっている。 最上医療圏では山形県立新庄病院が基幹病院となっており、置賜医療圏では公立置賜総合病院と米沢市立病院が基幹病院としての役割を担っている。庄内医療圏では、北庄内が病院統合の結果、日本海総合病院が急性期医療を、日本海総合病院酒田医療センターが回復期医療を担う形で中核医療を担い、南庄内では鶴岡市立荘内病院が基幹病院となっている。 教育山形県では1998年度に大学などへの進学率が就職率を初めて上回り、その後も進学率の方が高い状況が続いている。2016年度の県内高校卒業者10,204人を見ると、大学など進学率は44.9%(全国平均54.7%)、専門学校進学率は18.7%(全国平均16.4%)、就職率は29.8%(全国平均17.9%)であった。ただし、大学など進学率を全国平均と比較すると10ポイント(数に直すと1,000人)ほど低く、東京都の約半数にとどまる。他方で、県外の大学などへの進学率が71.9%を占めており、若者の県外流出を強めている[22]。 マスメディア新聞テレビ局山形市に全ての局の放送センターがある。テレビ東京以外のキー局の看板番組はすべて山形県で視聴することが可能である[注釈 3]。 デジタルテレビ・県域FM局・補完FM局の親局送信所はいずれも西蔵王高原に設置されている。
ラジオ局ケーブルテレビ局
コミュニティ放送局
文化・スポーツ方言概要山形県の方言は中央部を縦断する朝日・出羽山地を境に、大きく庄内方言(北奥羽系)と内陸方言(南奥羽系)とに分けられる。内陸方言はさらに最上・村山・置賜の各地方境界にほぼ沿いつつ3区分される[23]。 現在、全国的には主に「山形弁=山形県の方言」として一括りにまとめられて認知されているが、正確には山形県内の方言には上記のように細かくいくつかの種類がある。そのため、地域によってはその地域のみでしか使われていない方言もあり、同じ山形県民同士でも住んでいる地域次第ではほとんど通じないこともある。 発音発音では、庄内(小国町を含む)・最上地方(舟形町・最上町を除く)に東京式アクセント、最上町に特殊アクセントが分布するが、村山(舟形町を含む)・置賜地方は無アクセントである。また、庄内・最上方言では連母音の融合が盛んだが、村山・置賜方言では目立たないなどの特徴もある。 文法文法では動詞の命令形が庄内ではレ語尾、内陸ではロ語尾となるほか、推量・意志表現ともに内陸で「オギンベ」を用いるのに対して、庄内では「オギロ」(意志)・「オギンデロ」(推量)となり対立する。また、庄内・最上方言では形容詞は無活用に近い。 他県の方言との関連性庄内方言は新潟県・秋田県との共通性をもち、上方語の影響も目立つのに対して、内陸方言は宮城県・福島県との関連性が高い。その中でも村山方言は小藩が幾分にも分立した歴史背景もあり、さらに複雑な分布形態を示す語が多い。 方言にまつわる逸話
標準語では①は「まるいち」、(1)は「かっこいち」と読むが、山形では①を「いちまる」②を「にまる」と読み、(1)を「いちかっこ」(2)を「にかっこ」と読むなど、中の数字を先に読むのが一般的である。同じ東北地方でも他県では「まるいち」であり、「いちまる」と読むのは山形県のみである。学校や企業でも「いちまる」と読まれるなどあまりにも強く一般的に定着しているため、山形独自の「方言」であることを知らずに県外へ出た人が①を当たり前のように「いちまる」と読んでしまい他県出身の人から不思議がられるということがしばしば起きている。最近は標準語を使う人、方言を使う人、混ぜる人にはっきりとわかれつつある。
県内の代表的な方言関連番組NHK山形放送局は、山形市出身の柴田徹アナウンサーが2006年に“凱旋”したこともあり、その柴田がプロデューサーとなり2007年から『今夜はなまらナイト』という番組を随時放送している。 番組は始めから終わりまで山形弁で喋り通すことをモットーとしているが、レギュラーの県内出身者が村山地方に偏っていることから、番組で飛び交う言葉はほとんどが村山弁である。そのため、ゲストに米沢市出身の俳優・眞島秀和や庄内代表として上々颱風のヴォーカル・白崎映美らを起用するなどして、県内他地域の方言・習慣についても取り上げるよう努めている。 山形県内における同番組の反響は常に大きく、最近では全国的に地域の方言文化を見直す契機となっている。 食文化→「Category:山形県の食文化」も参照
→詳細は「日本の郷土料理一覧 § 山形県」を参照
山形県の食文化の特徴に挙げられるのが、魚の塩焼きや漬物に醤油を掛けるほどの塩分が濃い味付けである。これは、東北地方の他県と同様に四季の気候、特に冬場の厳しい気候によるところが大きい。他県と違うのは、県内の方言などと同様にその地理的・歴史的背景の影響を大きく受けていることである。例えば、同じ山形県の郷土料理でも味付けや材料が異なる場合がある。代表的な郷土料理の一つに挙げられる「芋煮」は、芋煮会が開催されるほどの郷土料理であり、県内4地方によってそれぞれ味付けや材料(里芋だけは全地域共通)が異なる。全国的に連想される山形の芋煮は、村山地方(醤油味・牛肉・長ねぎ・平こんにゃく)の形である。[24]
山形県は全国でも有数の麺類、特にラーメンの消費地として知られている。これは、県内では終戦直後辺りから来客へのもてなしや外食の際によく食されていたのがラーメンだった名残である。「酒田のラーメン」「米沢ラーメン」「赤湯ラーメン」などが知られている。近年では山形の厳しい夏場の気候から生まれた「冷やしラーメン」が新たな山形の郷土料理として有名になりつつある。また、ラーメンに次いで消費される麺類として蕎麦が挙げられる。これは、県内の激しい寒暖の差を利用して古来から蕎麦粉が盛んに作られてきたからである。昔から「板そば」が有名で、近年になって徐々に知名度を上げつつあるのが、大正時代に河北町で生まれた「冷たい肉そば」である。
漬物は、冬場の重要な栄養源として、内陸部の山間地域に位置する豪雪地帯を中心に古来から盛んに食されてきた。おみ漬けや青菜漬けが元来有名な郷土の漬物であったが、近年は同県に縁のあるダニエル・カールがNHKの料理番組で紹介したのをきっかけに知名度を上げた「だし」の方が有名である。
県内には他にも様々な郷土料理がある。
伝統工芸
→詳細は「日本の伝統工芸品の一覧 § 山形県」を参照
スポーツ→「Category:山形県のスポーツチーム」も参照
観光→詳細は「山形県の観光地」を参照
山形県は平成の大合併以前から、全市町村に温泉が湧出する[注釈 4]など観光資源に恵まれており、昨今の映画のロケ地に県内各所が使われていることもあって、国内外から数多くの観光客を呼んでいる。1981年に年間3千万人を突破し、2006年の観光客数は4千万人を突破した。外国人観光客も著しい増加を続けており、2006年は52,155名となり前年比 67% の伸びを見せている。国・地域別では、台湾がトップの32,860名で韓国、米国が続く。2019年、台湾人観光客数がさらに伸び、60,125人と全体外国人観光客の5割近くを占めている[28]。都市圏域別に見ると、村山地方が1,803万人 (44%)、庄内地方が1,227万人 (30%)、置賜地方768万人 (19%)、最上地方255万人 (5%) である。観光地を類型別に見ると、トップが温泉観光地で 30.2%、続いて名所・旧跡が 23.8% となっている[29]。 祭事・催事
名所・旧跡・観光スポット
国宝
レジャー対外関係
山形県を舞台とした作品→詳細は「山形県を舞台とした作品一覧」を参照
映画以上6作品(藤沢周平原作)の舞台となっている海坂藩は庄内藩(現在の鶴岡市)をモデルにしており、ロケの多くも庄内地方で行われた。
ドラマ
プロモーションビデオ(PV)小説
漫画ゲーム
人物→詳細は「山形県出身の人物一覧」を参照
山形県名誉県民山形県名誉県民の称号は、1993年(平成5年)3月26日に制定された山形県名誉県民条例(平成5年3月26日山形県条例第3号)に基づき、「県の発展に卓越した功績があり、県民が誇りとしてひとしく敬愛する者」へ贈られる(条例第1条)[30]。対象者は「原則として、県内に居住し、又は居住していた者で、地方自治の振興、経済の発展、学術文化の振興その他県民の福祉の増進に広く貢献したもの」であり、山形県知事が山形県議会の同意を得て選定することが定められている(条例第2条・第3条)[30]。名誉県民に選定された者には、山形県名誉県民称号記と記念品(山形県名誉県民章)が贈呈される(条例第4条)[30][31]。
山形県県民栄誉賞受賞者山形県県民栄誉賞は、1997年(平成9年)2月4日に制定された山形県県民栄誉賞規則(平成9年2月4日山形県規則第2号)に基づき、「県民に希望と活力を与える顕著な功績があり、広く県民が敬愛するもの」へ、山形県知事から贈られる(規則第1条・第3条)[33]。対象者は「県内に居住し、若しくは居住していた者又は県内に所在し、若しくは所在していた団体で、芸術、文化、スポーツ等の分野において輝かしい業績があると認められるもの」であることが定められている(規則第2条)[33]。
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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