戦場のメリークリスマス
『戦場のメリークリスマス』(せんじょうのメリークリスマス、英: Merry Christmas, Mr. Lawrence、欧州公開時の外国語題: Furyo)は、大島渚が監督した映画作品である。 日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作映画で、テレビ朝日製作の映画第1作でもある。1983年5月28日、日本公開。 概要原作は南アフリカ共和国の作家、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの短編集『影の獄にて』[20]収録の「影さす牢格子」(1954年)と「種子と蒔く者」(1963年)に基づいている。 作者自身のインドネシアのジャワ島での、日本軍俘虜収容所体験を描いたものである。 第36回カンヌ国際映画祭に出品され、グランプリ最有力と言われたが受賞は逃した[注 1]。 イギリス・アメリカ合衆国、ならびに北欧では『Merry Christmas, Mr. Lawrence』、フランス・イタリアでは『 2012年に英国でデジタル修復された後、翌2013年に第70回ベネチア国際映画祭のクラシック部門で上映され[9][注 2]、2015年3月にはフランスで2K版として劇場公開された[5]。 2021年4月、新たな4K修復版として『愛のコリーダ』とともに国内でリバイバル上映された[12][6][注 3]。2023年1月から再公開され[14][26]、3月の坂本龍一逝去にともない、追悼ロードショーが5月に実施された[16][27]。 あらすじ1942年、日本軍政下にあるジャワ島レバクセンバタの日本軍俘虜収容所で、朝鮮人軍属のカネモト(ジョニー大倉)がオランダ人捕虜のデ・ヨンを犯す事件を起こす。日本語を解する俘虜(捕虜)の英国陸軍中佐ジョン・ロレンス(トム・コンティ)は、ともに事件処理にあたった粗暴な軍曹ハラ(ビートたけし)と奇妙な友情で結ばれていく。 一方、ハラの上官で所長の陸軍大尉ヨノイ(坂本龍一)は、日本軍の背後に空挺降下し、輸送隊を襲撃した末に俘虜となった英国陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)を預かることになり、その反抗的な態度に悩まされながらも、彼に魅せられてゆく。 同時にカネモトとデ・ヨンの事件処理と俘虜たちの情報を巡り、プライドに拘る英国空軍大佐の俘虜長ヒックスリー(ジャック・トンプソン)と衝突する。 セリアズとロレンスは、無線機を無断で所持していた容疑で、ヨノイ大尉に独房入りを命じられる。セリアズもロレンスも北アフリカ戦線で一緒に戦ったことのある仲で顔は知っており、独房は隣り合っていた。ロレンスは自分の恋人のことを話し、セリアズは昔、弟に酷い扱いをしてしまったことを回想する。 その日はクリスマスで、セリアズとロレンスはハラに呼びだされた。ハラは酔っぱらっており、「ファーゼル・クリスマス」と叫び、セリアズとロレンスを釈放する。ハラは自分をサンタクロースだと言い、これはプレゼントだと言う。 要求に応じようとしないヒックスリーに対し業を煮やしたヨノイ大尉は、捕虜の全員集合を命じる。全員揃っていないと分かると病気の捕虜も並ばせるよう命じたが、これはジュネーヴ条約に違反していた。重症の捕虜が1人倒れて死亡する。それでもなお、日本軍への情報提供を拒み続けるヒックスリーを、ヨノイ大尉は刀で斬ろうとした。そこへ、セリアズが歩み寄り、ヨノイ大尉に抱擁し頬にキスをした。予想外の展開にヨノイ大尉は驚き倒れこむ。 その後、ヨノイ大尉は更迭され、新しい大尉はセリアズを首から下を地中に埋めて生き埋めの刑に処した。セリアズは弟のことを思い出しながら衰弱死し、その夜中にヨノイ大尉は項垂れた頭のみが地上に露となったセリアズの元へ密かに歩み寄り、彼の髪を一束切り、目の前で敬礼し、切った髪を持って立ち去った。 太平洋戦争は終わり、時は1946年。日本は敗戦し、ヨノイ大尉は戦犯として既に処刑されていた。同年のクリスマス、死刑判決を受け、執行前日を迎えたハラの元へロレンスがやってくる。4年前のクリスマスのことを思い出し、2人は笑い話に花を咲かせる。ロレンスが立ち去ろうとしたとき、ハラはかつて彼らが現在とは逆の立場であった頃のように怒声のような呼び捨てにして彼を呼び止め、ある別れの言葉を放つ。 東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が異なる中、各人に運命から届けられた「クリスマスの贈りもの」が待っていた。 キャスト
スタッフ
作品解説第二次世界大戦をテーマにした戦争映画でありながら、戦闘シーンは一切登場しない。また、主要な出演者はすべて男性という異色の映画でもある。撮影はクック諸島のラロトンガ島とニュージーランドで行われた[28]。 ハラ軍曹らに見られる当時の日本軍による捕虜に対する扱いや、イギリスなどにおける障害者への蔑視行為やパブリックスクール(寄宿制名門校)におけるしごきなど、歴史の闇の部分も容赦なく描いている。 製作費約600万ドル(当時約15億円)とも[29]650万ドルとも[30][31]16億円ともいわれる[32]。 企画を始めた1978年には松竹が全額出資すると言っていたが[32]資金集めは難航[29]、国内だけの調達は不可能で[33][34]、松竹は大島に「途中から外国で半分持ってくれる所を探して来い」と言った[32]。映画プロデューサーを買って出る日本人もおらず[34]、製作までに時間を要した。資金調達先とシネマスクエアとうきゅうのオープニング上映作品を探していたヘラルド・エースの原正人が、ニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』の買い付けで知り合った、同作のプロデューサー・ジェレミー・トーマスに打診した結果、トーマスがプロデューサーになった[35][36]。すると資金の目途がついたら松竹が「製作には参加せず配給だけ」と言い出す[32]。大島がそこで諦めたら全て終わりだったが、全財産をはたき個人的借金をして、大島渚プロとテレビ朝日が住友銀行から、トーマスが外国側の製作費を全額ニュージーランドの銀行から引き出した[30][35]。撮影地をニュージーランドの領土で行うことが、同国側からの条件の一つだった[31][29]。3か国の合作映画だが、ニュージーランドはこの通り金を出しただけで、基本的には日英合作である[32]。 結果的に大島最大のヒット作となり、後に松竹は「製作もすればよかった」と語った[32]。 配役キャスティングにあたり、大島は「『連合艦隊』と『大日本帝国』に出た役者だけは使いたくなかった」と話したという[30]。東宝と東映が製作したその2本は軍隊経験者が作った最後の戦争映画とされ[37]、軍隊未経験者の大島からすれば「『大日本帝国』の軍人も出来るし『戦場のメリークリスマス』の軍人もやるなんて許せない」という考えがあったとされる[37]。但し『大日本帝国』の封切と本作の海外ロケは同時期のため、『大日本帝国』の内容を把握しての発言ではない[37]。当初、ハラ軍曹役には緒形拳[38]と勝新太郎がキャスティングされていたが、緒形はスケジュールの都合、勝は脚本の変更を要求したため折り合いがつかず、ビートたけしに変更となった[39]。ヨノイ大尉役も三浦友和、沖雅也、滝田栄[38]、沢田研二、友川カズキらが予定されていたが、各々スケジュールなどが合わず、坂本がキャスティングされた[40]。トム・コンティが演じていたロレンス中佐の役には、当初ジェレミー・アイアンズが候補に上っていたものの、アイアンズは「台本を読んだら、同性愛色が強すぎるような気がして」断っている。しかし後に「完成した映画を観て死ぬほど後悔した」と語っている[41]。また、セリアズ役にはロバート・レッドフォードや[29]、映画監督フランシス・フォード・コッポラの甥で、当時高校生だったニコラス・ケイジ等にオファーをしていたが、両者とも断ったため、大島がブロードウェイの舞台『エレファント・マン』に出演中のデヴィッド・ボウイを見て起用を決めた[42][33][31]。ボウイはオファーを了承した後、2年間体を空けて待っていたという[30]。 撮影1982年8月9~10日、主力スタッフラロトンガ島入島[注 4]。8月15日、機材を積んだ船が現地へ到着。8月18~19日に荷役作業。8月23日、ラロトンガ島でクランクイン[28]。9月20日、当地での撮影を終了し、翌21日に離島し、ニュージーランドへ移動[28]。10月8日、大島監督ら主力スタッフ帰国[28]。 台本をまったく覚えずに現場入りした坂本は、当然ながら上手くセリフが言えず、大島から怒られるようなシチュエーションを自ら作ってしまったが、彼はなぜか相手役に「お前がちゃんとしないから坂本君がセリフ話せないんだろう!」と怒ったという。この大島の一種の配慮により、たけしと坂本は無事クランクアップを迎えることができた。 演技についてたけしは、「NGは監督からほとんど出されなかったけど、代わりにアフレコはさんざんやらされた」と語っている。これは、監督からオファーを受けた際「自分は漫才師であり、俳優でありませんから、きちんとした演技はできません」と前もって伝えていたことから、監督なりの配慮がされた結果と言える。加えてたけしがNGを出すと、代わりに脇にいた助監督が叱られたというエピソードが残っている。 当時、たけしと坂本は、2人で試写のフィルムを見て、たけしが「オレの演技もひどいけど、坂本の演技もひどいよなぁ」と語りあい、ついには2人でこっそりフィルムを盗んで焼こうという冗談を言い合ったという。大島はできない俳優を厳しく叱責することで有名だったため、たけしと坂本は「もし怒られたら一緒にやめよう」と約束をしていた。 ヨノイが傷病兵に向かって「貴様らは病気じゃない!」と叫ぶシーンは坂本のアドリブであり、「彼は面白い」と気に入った大島は、その坂本のセリフを面白可笑しく口真似しながら編集作業が行われた[43]。 作品の終盤、反抗的な俘虜長を処刑しようと日本刀を抜いたヨノイ大尉にセリアズが近づき、頬にキスをするシーンで、画面が微妙に揺れ動いているが、これは意図して行った演出ではなく、撮影機材の故障により偶然生じたものであった。しかし、その後に撮り直したものと比較して、画面が微妙に動く前者の方が心理描写を的確に表現できているとして、これを採用した。後に大島は「奇跡だよ」と周囲に語ったという[注 5]。最終的にスローモーションでコマを引き伸ばす処理が施され完成した[45][注 6]。 たけしが施設のドアを開けるシーンでは、散々リハーサルをするもタイミングが上手く行かず、ついに大島が怒り出し、「このタイミング! このタイミングがこの映画で一番大事なんだ!」と怒鳴るものの、本番直前にドアは壊れてしまった。仕方なくドアなしで撮ったが、直後にドアが壊れた件についてたけしが大島に聞くと「え? 何? ドア? あんなのどうでもいいんだ!」と答えたため、呆然となったという。 反響・評価試写会で自分の演技を見たたけしは、「自分の演技がひどすぎる」と滅入ってしまったが、共演の内田裕也やジョニー大倉は「たけしに全部持っていかれた」とたけしの存在感に悔しがったという。一方で、大島は周辺に「たけしがいいでしょう」と漏らし、同席した作家・小林信彦に、滅入っているたけしを褒めるよう要請している。後にたけしは「すぐれた映画監督というのは、その俳優が一番見せたくない顔を切り取って見せる人を言うんじゃないかな?」と、自分の演技を引き合いに大島の力量を絶賛した。 後日、たけしは「坂本もオイラもこの映画に客観的に参加していた、映画がこけちゃえばいいとさえ思っていた。ほかの役者のように大島監督からエネルギーを吸い取られるようなことはなかった」と語った。また、たけしは本作への出演を機に自身も映画監督を始めようと思ったとも語っている。 公開時には女子高生など若い女性客が、ボウイや坂本、たけしを目当てに映画を鑑賞する“戦メリ少女”と呼ばれる現象が生まれ[47]、大島の元にも戦メリ少女達からのファンレターが寄せられた[48][49]。 テレビ放送では1984年12月23日に23.6%[51]、1985年12月22日に15.1%[51]の視聴率(ビデオリサーチ調べ)を記録した。 2021年4月、4K修復版の公開に際し[6]、マーティン・スコセッシやベルナルド・ベルトルッチ、クリストファー・ノーランのコメントが予告編で紹介された[注 7]。また、ノーランは世界の名作を高品質な映像ソフトで販売するアメリカのレーベル、クライテリオンのタイトル700本の中から、本作をベストテンの6位に選出。「デビッド・ボウイのカリスマ性を捉えることに成功した稀有な作品」と評し[53]、米インディ・ワイヤーでノーランが薦める35本の映画の一つにも挙げられた[54]。ノーランが監督する『プレステージ』(2006年)にボウイが出演し、ロレンスを演じたトム・コンティも『ダークナイト ライジング』(2012年)と『オッペンハイマー』(2023年)に出演した。 考察日本人がメガホンを取った戦争映画ながら、表面的なメッセージ性は薄い。しかし、日本軍の捕虜への待遇と[55]、その根底にある日本独特の「武士道」、「神道・仏教観」や「皇道派、二・二六事件」、明治以降の日本人が抱いた強い欧米への劣等感と憧憬[55]、そして、欧米人・日本人にある「エリート意識・階級意識」、「信仰心」、「誇り」、「死と隣り合わせのノスタルジア」(弟の歌う 「Ride Ride Ride」の曲にのって描かれる、故国の田園の居宅の「バラ園」)などがより尊く描かれ、また、それを超えた友情の存在とそれへの相克がクライマックスにまで盛り上げられていく。 また、後期の大島作品に底流する「異常状況のなかで形作られる高雅な性愛」というテーマも、登場人物らの同性愛的な感情として(婉曲的ながら)描写されている。 特別番組テレビ朝日では大島渚、ビートたけし、デヴィッド・ボウイなど勢揃いした特別番組が制作された。オープニングでは「レッツ・ダンス」に合わせて若い男女が踊る中デヴィッド・ボウイが登場し、笑顔でビートたけしに握手を求めた。 事件撮影開始直前の1982年8月19日、現地の島で、激しい雨が降り続く中、照明スタッフのK(男性。当時46歳)が失踪した[28][56][57][58]。翌日朝、行方が分からなくなったことをカメラマンの杉村博章が気付いたが、Kの上司・成島東一郎は、大島監督に「Kは風邪をひいて、ホテルの部屋で寝ている」と虚偽の報告をした[28]。杉村一人がKの捜索を行ったが、隠し通すのも限界と悟り、8月24日夜、成島が大島に報告すると大島は「われわれは仕事をしに来たのだから、予定通りロケに専念する。Kのことは島の警察に一任しよう」と指示し、翌8月25日、現地の警察に失踪届を出した[28][56]。Kの家族(妻)への連絡は8月27日夜[28]。しかしいつもはのどかな島で、本格的に捜索が始まったのは9月8日。Kの妻と警察官を含むボランティアら総勢50人で捜索日数3日間。撮影は中断されず、捜索に本作スタッフは誰も参加しなかった[28]。手がかりも見つからないまま、10月8日、大島ら主力スタッフが帰国。Kの失踪は日本のマスメディアでも大きく報道されていたため[56][58]、成田で待ち構えていた報道陣にKの失踪を問われた大島監督は「わかんないね。ひょっとしたらさ、島でいい女を見つけてタロイモでも耕しているという説もあるしさ、そうじゃなくて、死んでいるという説もある。ま、島から出たケースはないね。とにかく、タロイモか死んでるか、どっちかでしょうね」等と話した[28][56]。成島は奇妙に声を震わせて、「島の捜索は、引き続きKの捜索に当たっていますが…」とウソをつき[28][56]、「監督に迷惑をかけましてね。Kは私が推薦したのですが、彼の誠実な面が悪く出ました。私は非常に残念で仕方ありませんが、Kにも申し訳ないことをした。Kは異常錯乱を起こしたんです」と言ったため、大島が言葉を遮り「成島さんはいろいろ推測するけど本当のことは分かりません。私はこの人の言うことは信じません」と狼狽し、早口で一気に捲し立て、成島の話を中断させた[28][56]。この模様は翌日の新聞で紹介され『酒井広のうわさのスタジオ』(日本テレビ)でも詳しく紹介された。この大島発言が批判されたため、『ルックルックこんにちは』(日本テレビ)がKの妻・大島・成島の三者の対決を企画し、当日成島は欠席したため、1983年2月14日の同番組でKの妻・大島の二者の対決という形となって放映されたが、テレビ馴れの差がはっきり出て、Kの妻の沈黙が目立つことになった[28]。大島は空港での発言については「あれは冗談だった」と謝罪した[28]。一連の大島と成島の対応に怒り心頭となったKの妻が1983年11月21日、総責任者である大島監督を相手に雇用契約上の労働関係における安全保護義務違反と名誉毀損を訴え[28][57]、総額1133万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した[28]。1984年1月19日、Kの妻、清水恵一弁護士、大島の三者会談が1984年1月19日に行われたが、大島は用件を聞くだけで意思表示をせず、後日回答すると約束した。大島は報知新聞紙上で「誰かがそそのかしているんじゃないの。大島なら金が執れるぞ、みたいに」等と話し、成島と杉村も大島を擁護する発言を行った。2月1日付けデイリースポーツの芸能欄のトップページに「失踪照明マンK、現地で結婚!?」と大見出しが載り、「家庭脱出の事情が」の小見出しで「Kさんは島の女と結婚して平和に暮らしている」などという記事が掲載された[28]。1984年2月7日に行われた第一回口頭弁論で、大島監督は「私は現地の会社に雇われたのであるから、Kさんに対する契約義務はない」と反論した[28]。裁判のその後の経過は不明だが、Kの行方はその後もわからず、未解決事件となっている[28]。 エピソード
受賞
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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