道徳道徳(どうとく)は、英: morality(羅: moralitas, 原義は「習慣・適切な振舞い」)の訳語に当てられたものである。漢語における「道徳」は、もともとは中国の古典を由来とする観念であり、「道」と「徳」という2つの考えからなる。道とは、人が従うべきルールのことであり、徳とは、そのルールを守ることができる状態をいう[1]。道徳的規範(どうとくてききはん)や道徳性(どうとくせい)ともいう。あるいは類義語の倫理(りんり、英: ethics、エシクスまたはエシックス)はいくつかの意味をもち、道徳を表すことが多い。 概要道徳は、次のような意味をもつ。
道徳的規範は、成文化された規則である法律と一致しない場合もある。 道徳的規範は非常に幅が広く、文化の多様性と同じだけの驚くべき多様性がある。様々な種類の規範は、マナー、エチケット、タブーとも関連する。儀礼や式典として、形式化されていることもある。 それでも、様々な社会の間に共通した特性を発見することができる。例えば、互恵関係、忠誠、権威の尊重、身体的な危害の制限、性的関係や食べ物の規制などである。この類似性が何に起因するのかは、議論の的であった[2]。 道徳的見地から見た言動や身持ちのことを、「品行」「操行」「素行」「日頃の行い」「平素の行い」などの語句を用いる。「方正」とはきちんとしていて正しいことで、「品行方正」とは行いが正しく立派で、模範的であるさまを意味する。 道徳の研究倫理学者の研究古代から、哲学者は道徳や倫理の論理的基盤について分析し、考察を行ってきた。このような哲学の分野を、倫理学という。特に19世紀以降の倫理学者は、特定の文化や宗教教義に基づかない普遍性のある道徳の規準を捜してきた。 社会科学者の研究社会科学者は、伝統的に二つの異なるアプローチを用いた。
道徳心理学者の研究心理学者は、人が現実の世界でどのように道徳的規範を理解し判断するのかを解明しようとしてきた[要出典]。この心理学の分野は、道徳心理学と呼ばれる。 現在の一般的な道徳心理学者の合意は、個人の道徳性は生得性と経験の双方によって形づくられるということである[3]。 道徳心理学者は、倫理学者は特定の判断をどのように正当化できるかを議論しているのだと指摘した。ジョン・ロールズやピーター・シンガーは、人の道徳判断に生得性に基づく偏りがあることを認めた上で、それでも社会規範としての道徳は合理性と論理に依拠しなければならないと提唱した。 普遍性と多様性道徳的規範には、どの文化にも共通の部分と、習慣や人慣習的規範に文化によって大きく異なる部分とがある。通常、共同体の構成員に対する危害:殺人、盗み、騙し、強姦などは、どの文化でも不道徳視されているという発表があり、一方で、例えばインドのバラモンの間では、息子が叔父の死後10日以内に肉を食べるか髪を切ることは不道徳とみなされるが、これは他の国ではそうではない。アメリカでは子供と同じベッドで寝ることは幼児虐待とみなされることがあるが、アジア諸国ではそうではない。道徳判断に用いられる特性(権[4]利、義務、世話、神聖さなど)の強さも社会によって異なる。 多くの文化では、道徳的規範と慣習的規範が意識して区別されることが少ないが、幼い子供でも道徳的規範と慣習的規範の区別が付くようである[5]。例えば盗むことは悪いことだと教えられると、子供は「常に盗むことは悪いことだ」と理解するが、静かにしていなさいと注意されると、注意されたとき、あるいは特定の状況でだけ「静かにしているべきだ」と判断する。また宗教的に育てられた子供でも宗教的規範(他の教徒は従わなくても良い)と道徳的規範(全ての人が従うべきだ)をある程度区別するようである。 心理学者エリオット・テュリエルのような道徳普遍主義者は、多様性を表面上のものと考え、より深層の共通性を捜した。人類学者リチャード・シュウェーダーは、この一見すると多様に見える道徳性を三つの領域に分けた。自立性(自由、権利、危害、正義に関する)、集団性(義務や集団全体に関わる)、神聖さ(純粋さや高潔さ、個人の霊性に関わる)[6]。ジョナサン・ハイトは、それを元に基本的な道徳の根源を5つに分け、ブラジルと北アメリカの上流社会と下流社会の人々の間で、無害だが不愉快な行為を評価する際に、この特性が異なる用いられ方をしていることを発見した[7]。
道徳の変化道徳的規範は、それぞれの地域の生態的状況や歴史の影響を受けている。また、社会的状況や時代精神の影響によって変化する。例えば、同性愛は中世ヨーロッパでは不道徳的で犯罪でさえあった。社会的、人種的、性的な差別は、かつては問題視されていなかったが、現代の西洋化された多くの国では不道徳的であるとみなされる。もっとも、これは哲学者ピーター・シンガーによれば、道徳そのものが変わったのではなく、道徳の輪の広がりとして説明できる。 多くの心理学者やマーサ・ヌスバウムのような道徳哲学者は、道徳心が発露されるには他者への共感が必要であると主張している。共感は、他者を同じ共同体の一員であるとみなすことによって起きる。奴隷制時代の南部アメリカでは、奴隷は機械とみなされ、ナチスの収容所では意図的に凄惨な用語(例えば「殺害する」)の使用が避けられるなど、共感を排除する努力が払われたとポール・ブルームは指摘する。シンガーは、近年の道徳の進歩は、道徳的共同体の一員とみなす「輪」が人種や性別を超えてかつて無いほど広がったためだと考えている。しかし、この道徳の輪は簡単に狭まるようである。 一方で、心理学者ポール・ロジンによれば、これは道徳化と呼ばれる現象である。例えば、喫煙は近年の道徳化の好例である。かつて喫煙は個人の趣味と嗜好の問題であったが、受動喫煙の害が理解されるようになるとともに道徳化し、喫煙は個人の趣味の範囲を超えた行為で、不道徳的で止めるべきだと考える人が増加した。 動物に対する子供と大人の道徳的優先傾向エディンバラ大学のマッティ・ウィルクス講師が中心となって行った、人や動物を助けることに関する優先順位の調査では、5歳から9歳の子どもは大人よりも、命の価値について広い視野で考えていることが示された。ほぼすべての大人が100匹もの犬や豚を助けるより、1人の人間を助けることを選んだのに対し、多くの子どもたちは人間を助けるのと同じくらい犬を助けることを重視し、子どもたちは豚より犬を評価したが、それでも大多数は人間1人より豚10匹を助けることを選んだ。このことから、人間が動物よりもはるかに道徳的に重要であるという一般的な考え方が、発達の遅い時期に現れ、社会的に獲得された可能性が高いことを示唆している[8]。 道徳判断人は何が良い行い(道徳的)で、何が悪い行い(非道徳的)なのかを判断することができる。道徳心理学者と道徳哲学者の議論の中心の一つは、何が道徳判断を導いているのかであった。ジャン・ピアジェやローレンス・コールバーグは、道徳判断は理性の産物であり、子供は経験と学習によって理性的判断を発達させると考えた。一方ジェローム・ケーガンのような認識直観主義の心理学者は、道徳判断が自動的に、瞬時に行われ、理性よりも直観と感情に密着していると仮定した。 直観主義者は、花を見て「赤い」と感じるのと同じように道徳判断を“感じる”のだと主張した。直観的判断のモデルは、大まかに次のように分類することができる。
道徳判断は、社会的認識、特に心の理論を利用しているようである。いくつかの感情、例えば同情、罪の意識、怒りは、道徳判断の中心をなすが、他の感情も道徳判断に関連している。しかし、明確に道徳判断に関連する脳の部位はないようである。道徳判断は、記憶が脳の様々な部位を利用するように、感情や認識などの細かな領域を利用しているようである。 人間の道徳判断は、常に一貫しているわけではない。後述のトロッコ問題では、わずかな状況設定の変化によって、人は功利主義的な判断と非功利主義的な判断の間で揺らぐ。友人から金を盗む行為は非道徳的だと感じるが、先日その友人から金を盗まれていたのだと聞けば非難は弱まるか消え去る。見知らぬ人への危害よりも、自分自身や知人への危害のほうが強い憤りを呼び起こす。殺人を極めて非道徳的だと考えながら、同時に死刑制度を強く支持する人も少なくない。復讐は道徳的な大義名分を要求する。逆に言えば、大義名分は報復の正当性を人々に納得させる。戦争や部族抗争の研究によれば、加害者は必ずと言ってよいほど、相手が不当だという憤りを標的に対してもっている[9]。 フィリップ・ジンバルドーは、監獄実験で、与えられた仮想的な役割に従って、看守役の一般人が囚人役の一般人を虐待することを示した。スタンレー・ミルグラムは、服従実験で、一般人の道徳心が権威に屈することを示した。ミルグラムによれば、単に権威によって指示されるだけでなく、相手の顔が見えない、過失が相手側にあるというような付加的条件の下では、より道徳心が働きにくいようである。また、死を意識させるような文章を読ませられるだけで、その後の道徳判断に影響が出る。見知らぬ人への敵意をかき立てられ、道徳違反者へはより厳しい罰を求めるようになる[10]。これは恐怖管理理論と呼ばれている。 道徳と罰「道徳を守ることは正しいことである」と広く考えられており、「なぜ殺人はいけないのか」「なぜ人を不幸に陥れてはいけないのか」というように道徳に対して疑問を示すこと自体が非道徳的であると嫌悪されることもある。我々は、直接自分に関係がない場合であっても他人の行動を気に掛け、道徳と規範に従っているかに注視する。道徳に反する行為は、通常、本人に罪悪感を、それを目撃した第三者には嫌悪感や怒り、報復など強い感情的反応を引き起こす。また慣習的規範よりも、通文化的な道徳的規範のほうが憤りは激しい。さらに、違反者に対して寛容な態度を取る者へも同様の憤りを引き起こす。 人は非道徳的な行為の犠牲者になったり、それを目撃した場合に、一般的にその行為者を処罰したいという強い願望をもつ。マナーやエチケット、慣習的規範への違反は軽率で粗野だとみなされるだけであるが、道徳的規範への違反は、処罰の欲求を呼び起こす。政治学者フィリップ・テトロックによれば、規範への違反を目撃し、違反者が罰を逃れていると考えるとき、人は違反者への加害を抑制する道徳心の閾値を切り下げるようである。そして厳しい処罰を要求し、違反とは関連のないことにまで判断が影響する。例えば、違反者の曖昧な態度をより敵対的とみなすようになり、不可抗力の要因の役割を割り引いてみるようになる[11]。 マーク・ハウザーとファレイ・カシュマンはトロッコ問題などを利用し、どのような原理が道徳判断(特に危害に関する)に影響を与えるのかを調査した[12][13]。彼らによれば、
心理学者ジョン・ダーレーによれば、大学生の被験者は刑罰の抑止力を考慮するよりもその犯罪にふさわしいと思われる刑罰を望んだ。刑罰の抑止力を考慮するよう注意された後でも、やはり「因果応報」である処罰を望んだ。「罰が課されない限り、社会と被害者は正義が執行されなかったという感覚をもち続ける」。彼は『なぜ罰するのか?:罰の動機としての抑止力と因果応報』と題された論文で、処罰の欲求は犯罪抑止力に関する要因(例えば犯罪の露見可能性や社会的影響)とは関連が薄く、人々はより単純に罪の重大さをランク付けし、もっとも深刻な犯罪にはその社会でもっとも重い罰(例えば追放、終身刑、死刑、拷問を伴う死刑)を与えなければならないと考えるのだと結論した[14]。 道徳と宗教多くの宗教は、道徳的規範の指示を教典に含んでおり、文化ごとの差に影響を与えている。例えば、キリスト教やユダヤ教などでは、安息日には祈り以外のことをしてはならない。イスラム教では、厳密にはキリスト教でも、偶像崇拝をしてはならない。もっとも、どのような教義でも受け入れられているわけではない。レビ記には奴隷制度を容認する記述があるが、そのような規範は受け入れられていない。 キリスト教福音派の中には、延命治療の中止のようなあらゆる種類の安楽死と、緊急避妊薬を含むあらゆる種類の人工妊娠中絶を不道徳的で殺人として扱うように主張する人もいる。ローマ・カトリック教会はコンドームの使用を性道徳を破壊すると非難する。 しばしば宗教は道徳の根源であり、宗教の拒絶は社会の崩壊につながると主張される。アラ・ノレンザヤンによれば、平均すると宗教的な人のほうがボランティアやチャリティーに協力する割合が高いようである(これは宗教と道徳性の因果関係については何も述べていない。非宗教的な慈善組織のメンバーもそれと同じくらい利他的に振る舞う[15])。動物の権利、国際援助、中絶や安楽死といった近年の道徳的洞察に、宗教は寄与していないと主張する[16]。彼らは、世俗的ヒューマニズムのような宗教的権威に頼らない道徳を模索した。一部の心理学者、人類学者の視点によれば、道徳心は宗教よりも先に存在しており、道徳を扱うことができるような人間の心の認知構造が宗教を編みだし、伝えることを可能にしている[17]。現代の日本の道徳と宗教の関係を、イギリスの文化人類学者は、宗教が道徳の根源になっていない事を認めている[18]。思想・良心・信教の自由を定めた、現在の日本国憲法の制定が、歴史上の境と解釈されるが、それ以前の日本の社会を、小泉八雲は、宗教と道徳と法律と慣習の間に区別がない、圧制の社会と表現している[19][20]。 道徳と政治道徳は、政治的に利用されることもある。為政者に都合の良い教えを道徳とし、社会的な規範とすることによって人民を容易に拘束できるので、封建社会や(禁欲主義・精神主義志向の強い)社会主義国家、権威主義・全体主義国家などでは領民を精神面で押さえつけることに利用された。 現代では、自分の属する社会への奉仕は愛国者と称賛され、集団に従わない場合は不道徳な非国民と非難されることもある。また、近代以前の社会(特に東洋)においては、法律と道徳・慣習的規範の未分化状態が長く続いていた。また、中近東諸国では、ムタワと呼ばれる、法的拘束力をもって道徳面での国民の教育・取り締まりを担う組織も存在する。 日本では、江戸時代に、荻生徂徠が道徳と法の明確な分離を主張し、以後、国学に継承されていった。 道徳性の議論道徳哲学現存するもっとも初期の道徳の存在を示す証拠は、ハンムラビ法典のような法律と禁止のリストである。またホメロスやイソップ物語のように、登場人物自身が道徳的振る舞いをすることによって人々に道徳を教える逸話的な物語も多い。孔子やブッダ、トマス・アクィナスの教えも、逸話や警句として人々に伝えられた。このような中世以前の道徳教育は、美徳や宗教と関連し、原理や合理性よりも直観や感情に訴え、実行と習慣を強調していた。 西洋では18世紀以降、啓蒙主義者たちが特定の集団の価値観や宗教に依存しない道徳基準を探し始めた。大きな流れの一つが、カントの義務論に代表され、広義にはロックやホッブスの社会契約説も含まれる形式主義的倫理である。もう一つは、ベンサムに代表される功利主義を含む帰結主義的倫理である。形式主義は、その内容よりも、形式論理への言及によって道徳的判断を行う。帰結主義は、予測される行動の結果によって道徳判断を行い、最高の結果をもたらすものが優れた道徳判断だとみなされる。この二つに共通するのは、道徳的判断は合理性に基づかなければならず、感情と直観によって行われてはならないと考える点である。 道徳心理学この視点の共通性は、現代の倫理学者ロールズやマッキンタイアによって洗練され、新しいコンセンサスを築いた。道徳とは、利害が対立する人どうしのジレンマを解決することであり、哲学者エドムンド・ピンコフスは、これを「板挟み倫理学」と呼んだ。心理学では、倫理的行動主義(道徳は経験によって形成される)と発達主義(経験は道徳心の発達を助ける)に大きく分けられる。バラス・スキナーは、道徳も連合と強化の産物だとみなした。発達主義に属するローレンス・コールバーグは、子供たちがどのようにジレンマ(例えば瀕死の妻を助けるために薬を盗んでもよいか?)を解決するのかを調査した。コールバーグは、道徳の基盤を公正さであるとみなしたが、キャロル・ギリガンは、コールバーグがそれ以上に(少なくとも女性にとっては)親切さの倫理が重要であると主張した。他者への思いやりや世話は、正義に関する判断の副産物ではない。最終的にコールバーグを含めた道徳心理学者は、公正さと親切さのどちらも重要であると受け入れ、道徳とは個々人を守ることであると同意した。個々人を守らず助けもしない規範は、単なる社会的慣習であると見なされた[21]。 道徳に関する問題でもっとも論争的だったのは、規範と道徳の区別である。正義、権利、危害や幸福に関するルール(例えば、盗むな、殺すな)はどの社会でも変わることがない。一方で、子供たちが教えられる慣習的規範(例えば大人を呼び捨てにするな)は、社会や伝統によって大きく異なる。しかし大部分の文化ではこの二つは密接につながっており、しばしば混同される。ドナルド・ブラウンによれば、規範の存在もヒューマン・ユニバーサルである。そして、どの文化でも、他人が規範に従っているかどうかを気に掛け、違反者へは懲罰的な態度を引き起こす。 コールバーグの元学生の心理学者エリオット・テュリエルは、道徳とは人が他人と関わる上での規範だと述べ、個人中心的な道徳観を提唱した。テュリエルによれば、子供はすでに5歳頃には慣習的規範と道徳判断の区別ができ、道徳判断は、人に対する危害、権利の侵害、主張の衝突などの社会的要因を除けば、社会システムから影響を受けない。そして、規範の理解と道徳の理解は、平行して発達する。コールバーグとその後に続いた実験的な研究は、精神分析と行動主義に替わって道徳心理学の中心となった。 社会生物学と霊長類学→「道徳の進化」も参照
1975年に昆虫学者エドワード・ウィルソンは、道徳が倫理学者と社会科学者だけのものではなくて、自然科学者、特に生物学者もその議論に加わるべきだと主張した。それ以来、多くの社会生物学者と霊長類学者が道徳の起源と進化について論じてきた。1990年代には、生物学者から二つの大きな著作が発表された。一つは、霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールの“Good Natured(気立ての良さ)”[22]であり、ドゥ・ヴァールは、霊長類に(道徳があるとは主張しなかったが)共感と愛情、社会秩序、互恵関係、コミュニティ、紛争と和解の概念が存在し、ヒトの道徳の基盤と共通であると述べた。公平さの感覚は、イヌ[23]など他の社会性動物でも発見されている。 神経科学1990年代のもう一つの大きな著作は、神経科学者アントニオ・ダマシオの“Descartes' Error(デカルトの誤り)”[24]であり、神経学者が道徳の議論に参加する先駆けとなった。ダマシオと同僚は、前頭葉の前部と中部を損傷した患者が、19世紀のフィネアス・ゲイジと同じように、感情を用いた意思決定が困難になると指摘した。そのような患者は現実的な判断能力を大きく損なっているにもかかわらず、理論的な社会知識を保持している。神経倫理学者ジョシュア・グリーンは、トロッコ問題を解明するために従来の倫理学の論理の代わりに、fMRIを利用した。グリーンによれば、人を突き落とす際には否定的な反応が起きるが、その際にfMRIでは腹内側前頭皮質が強く反応する。同時に、功利主義的な判断には前頭前野背外側部が関わっていそうである。理性と道徳的直観が衝突するとき、前頭前野背外側部と前帯状皮質の反応が見つかる。そして、前頭側頭型認知症の人は迷わずに功利主義的な判断を行う[25]。 道徳の認知科学認知科学者は、道徳の生物学的基盤を明らかにしようと試みている。ポール・チャーチランド[26]は、ニューラルネットワークモデルによって道徳心の発達を明らかにしようとした。ジョシュア・グリーン、マーク・ハウザー、ジョナサン・ハイト、ポール・ブルームを含む他の研究者は、道徳心に遺伝的基盤があり、道徳判断と感情は密接に結びついていると考えている。彼らは、理性と同じくらい感情、脳、他の動物と人類の進化について注目している[27]。認知科学によれば、第二言語は道徳的意思決定において重要な役割を果たす。母国語で考える場合、道徳的な意思決定をする際に結果を最大化するために危害を受け入れる傾向があり、第二言語で考える場合、道徳的な意思決定においてリスクを回避する傾向がある[28]。 道徳的ジレンマグリーンらは、道徳的ジレンマに関するトロッコ問題を人々に質問した。
どちらも1人が死んで5人が助かるか、5人が死んで1人が助かるという点で等しい。もし道徳判断が理性的に行われるのであれば、回答は一貫しているはずである。しかし、多くの人は先の質問には許されると答えるが、後の質問には許されないと答える(つまり一貫していない)。そして、その理由を明確に答えられない。この傾向は、有神論者でも無神論者でも変わらず[16]、西洋文明とほとんど接触のないカリブのクナ族(トロッコはカヌーに置き換えられた)でも同様であった。 ハイトによれば、多くの場合に道徳的判断は直観的に行われ、判断の後に合理的な理由付けが行われる。アメリカ、ポルトガル、ブラジルの人々に次のようなストーリーを話し、その行為は許されるかどうかを質問した。
被験者の多くが、誰かを傷つけたり権利を侵害する行為でなければ規制されるべきではないと考えていたにもかかわらず、4割から8割の被験者がこれらの行為は許されないと判断した。そしてその理由を上手く説明できなかった[7]。 人間の道徳判断は二重過程理論に基づいており、直観的な道徳推論システムは、次の五つにモジュール化されている。危害/親切、公正さ/互恵関係、グループ性/忠誠、権威/尊敬、純粋さ/高潔さ [29]。これらは、進化の過程で異なる目的を果たすために形成された。少なくとも規範の学習が始まる前に発達し、文化普遍的な道徳と文化ごとに多様な規範を作り出す。彼によれば、進化の産物であるために判断は直観的であり、微妙な道徳ジレンマを上手く解くことができない[30]。 ハウザーによれば、道徳には普遍文法のような生得的で基本的な文法、「道徳普遍文法」が存在し、それが社会的状況や経験の変数によって異なる規範を作り出す。テュリエルは、わずかな変数の違いとして人工妊娠中絶の議論を例にとる。プロライフとプロチョイスは、中絶を非道徳的とみなすかみなさないかで鋭く対立する。しかし、双方とも命に対する価値観が異なるのではなく、どの時点から命とみなすかが異なる。そして「いつ胎児はヒトになるのか」の直観的信念に基づいて、賛成/反対の判断が行われると指摘する。 脚注
関連項目
関連人物古代思想家 宗教
啓蒙思想家 道徳哲学 道徳心理学 道徳社会学 生物学 外部リンク
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