ビートたけしのオールナイトニッポン
『ビートたけしのオールナイトニッポン』は、ニッポン放送の人気深夜放送『オールナイトニッポン』のうち、木曜日にビートたけしがパーソナリティを担当した番組。1981年1月1日から1990年12月27日、深夜1:00〜3:00に、基本的に生放送されていた。 概要ビートたけしの絶頂期に放送されていたラジオ番組で、ビートたけしがツービートを離れ単独で担当した初のメイン番組にして、漫才ブームからフライデー襲撃事件を経て映画監督となるまで、一貫して担当していた唯一の番組でもある。 オープニングトークと曲の後は前半がフリートーク、後半に各コーナーというのが通常のパターン。「毒ガス標語」に代表される時事ネタや社会事象への風刺、や自身のプライベート、仕事の話をメインに据えた巧みなトークに加え、時に各種のツアーやロケ、更にはスタジオにおいて運動やテレビゲームなど視覚を主体とした企画を実行する斬新さにより、当時の若者の人気を獲得したのみならず、演芸・芸能に携わる業界人にも多大な影響を与えた番組で、「伝説のオールナイトニッポン」と称される事もある。 開始までの経緯たけしが「漫才ブーム以後」のステップを模索していた所に、当時オールナイトニッポンのプロデューサーを務めていた近衛正通から引き合いが来て実現したもの。 近衛によれば、そもそもは、『ダディ竹千代のオールナイトニッポン』に、1980年8月頃にツービートが「世の中、これはどうなっているんだ」というコーナーに、ゲストとして登場させたことから始まる[1]。ツービートの2人はプロデューサーの近衛の予想通りに喋ってくれたが、放送後、ツービートの所属事務所の太田プロダクションに電話をしたら、その副社長が電話に出てしまい、ギャラ(出演料)の事でもみ合ってしまったため、事務所に直接向かった[2]。そこで、プロデューサーの近衛と副社長の話し合いが持たれ、近衛が副社長に対して、「ラジオの予算が低い」という趣旨の話をしたら、その副社長は「そちらの五並びでいいわよ」と了承した[3]。しかし、副社長は、さらに、近衛に対して、「オールナイトの枠は空いてないの?」と問うと、近衛が「ないですね」と返答した[3]。副社長によれば、「実はTBSからツービートのラジオをやらないかってオファーがあるのよ。だけどさ、同じ局の『パックインミュージック』に星セント・ルイスが出てるし、文化放送じゃ、ザ・ぼんちが『セイ!ヤング』をやってるの。出来たらツービートはニッポン放送でやらせたくてさ」と言ってきた[4]。しかし、近衛は当時の漫才ブームというのは、ピンと来ていなかったという[5]。そこへ、副社長が「ウチの娘が中島みゆきのファンでね、おたくのオールナイトを聴いているのよ。私の考えを言うと、娘が『ツービートは絶対ニッポン放送よ!』というわけ」といった[5]。近衛によれば、この言葉は「殺され文句」だったといい、「ひとまず持ち帰ります」と言って事務所を後にした[5]。 1980年の秋に『ダディ竹千代のオールナイトニッポン』の番組続行ができなくなったと判断し、木曜深夜の第1部が空くことになった[5]。そこで、副社長に対して、近衛が「来年一月からなら、どうにか出来そうです」と伝えたところ、これまた、ギャラ(出演料)の事でもみ合ったが、ツービートの2人の内、「一人で喋るのはどうですか」と提案し、「それは面白いかもしれないわね」と述べた[6]。しかし、ニッポン放送の場合、予算の管理は編成管理部が行っていたため、その部長がギャラ(出演料)に関しては厳しかったため、話し合いが持たれ、妥協点が見つかった為、副社長も納得したという[7]。後に、近衛は、「たけしさんのオールナイト誕生の、最大の功労者は二人分の予算を出さなかった」編成管理部の部長だったと振り返っている[8]。 そして、放送作家の高田文夫が、たけしに対して「深夜ラジオやらない?」というお誘いがあったが、これに対してたけしは「『タケちゃんがしゃべりだして、オレ(高田文夫)が一緒にしゃべれば絶対にイケる』みたいなことを、あの人(高田文夫)はなんか確信を持ってたみたいで。『なんだよ、そんなの、どうせ(ギャラ)安いんだろ』って、『漫才(ブーム)も終わりだから、ちょっと暇だししゃべるか』とかなんとか言ってね」ということを明かした[9]。また、なぜラジオに取り組もうとしたかについては、「オレはわりかし新しいネタを作ってるつもりでいたんだけど。ほかの漫才師たちは売れたことで楽しみだしちゃって。お金もいっぱいあるし。だから、ああ、これはもう終わりだな、と思って…」とこのままでは漫才ブームが終わるのではないかと危惧を持ったという[9]。 当初は穴埋め的に始まった番組だったが、いざ始まってみれば、聴取率記録を打ち立てるなど若者を中心に人気が爆発し、丸10年のロングランになった。この時間帯の裏番組『パックインミュージック』(オールナイト側で言う「木曜1部」=「金曜未明」)は『金曜ナチ・チャコパック』が放送されていた[10]。この『ナチ・チャコパック』が長期に渡り人気を博する一方、オールナイトニッポンは南こうせつ(南こうせつのオールナイトニッポン、1975年4月〜1976年12月と1978年4月〜1979年3月に担当)や桑田佳祐(桑田佳祐のオールナイトニッポン、1979年4月〜1980年6月に担当[11])を起用したが、それでも、聴取率の面で『ナチ・チャコパック』を上回る事ができなかった[10]。しかし、この『ビートたけしのオールナイトニッポン』が始まったことによって、『ナチ・チャコパック』に対し、聴取率の面で追い越して、前述したように聴取率記録を打ち立てたため、1981年の年末にTBSラジオが『ナチ・チャコパック』のみならず、パックインミュージック全体の終了を決断させた[10][12]。 特徴
フリートークの内容主に自身の体験談で、番組や映画制作時の裏話から家族や不倫相手までリアルかつ赤裸々な内容だった。その他にも時事ネタやスポーツ、下ネタ、芸人や関係者の武勇伝など幅広い。多くは面白おかしい内容だったが、時には巨人の江川卓引退時や自身のファンの在り方など、笑い無しで真剣に語る事もあり、特に江川の引退直後の放送では、早すぎる引退をしきりに惜しんでいた。政治や社会現象を語る時の切り口は鋭く、そのファンは若者に留まらず著名人や知識・文化人にも広まった。 なお、フリートークといっても全てがアドリブという訳ではなく、ネタ帳に話す内容が箇条書きされていた[15]。これは後にラサール石井らが語っている。 番組で取り上げられた人物この番組で人気を得たり有名になった人物も多数いる。たけしの師匠である深見千三郎や玉乗りの江川マストンの様に、浅草の舞台を主な活動の場にしていた一般的には知名度の低い芸人や、前田隣のように以前は人気があったが廃れてしまった芸人、普通は表に出ない裏方など、当時の若者や一般リスナーには馴染みの薄かった人物が多く紹介された。 歌手・俳優・タレント
お笑い芸人
スポーツ選手
事務所関係者
業界関係者
家族その他
各種企画主なコーナー
送られてくるネタがワンパターンだったり、内容が過激すぎたりで、企画倒れに終わった短命なコーナーが多く、1ヶ月続けばいい方であった、わずか1回で終わったコーナーも数知れずある。 番組招待企画ネタの出来映えの良いハガキ職人を番組に招待する企画。当初は印象重視だったが1985年から採用毎にポイントで記録し、年に1回から2回ほど番組に招待していた。年末・年始の場合は「忘年会」や「新年会」、夏場の場合は「ビアガーデン」と称した。ニッポン放送社屋屋上に特設ビアガーデン会場を設置したり、当時たけしが経営していた居酒屋・北の屋から中継した事もあった。ハガキ職人以外にも遊びに来た業界関係者、仕込んだイベントコンパニオンやレースクイーン等も参加。飲み物や料理は主にスポンサーとのタイアップや参加者の持ち込みだが、北の屋の板さんが現場で作る事もあった。 なお初のビアガーデンは本来、番組本「三国一の幸せ者」のベストセラーを記念して企画されたもので、リスナー招待企画ではなかった。花を添える水着ギャルを募集するなど準備万端だったが、当日が雨天で無念の中止となった。 ツアー企画スタジオ以外から中継する企画。場所柄に相応しくない仮装でスキー場や海水浴場へ行く「悪魔のスキーツアー」(1988年1月)や「地獄のサマービーチツアー」(1988年8月)、当時たけしが経営していた北野印度カレーのカレーショップの宣伝を兼ねた「軽井沢おかまツアー」(1987年8月)などがあった。事前に一般参加者を募り生放送で行われた。他にも新島(1985年7月)や中禅寺湖畔(1989年6月)からの中継もあった。 ロケ企画たけしがスタジオにおり、軍団・セピアが外から中継する企画。真冬のニッポン放送屋上に「たけちゃん神社」を作り軍団がパンツ一丁でお参りに行く(1982年1月)、生放送中にリスナーに島田洋七のラーメン屋へ食べに行くよう呼びかけ店の様子をレポートに行く(1987年9月)等があった。 ラジオドラマ企画初期の頃に行われた企画。村田英雄を招いての任侠ドラマ「男の盃」二部作や、不幸の尺八コーナーから派生した「遅かった尺八」、「荒野の1ドル尺八」などがあった。たけし・高田・軍団などが出演し、効果音に凝るなど本格的な作りの物を事前収録して放送された。 連動企画
単発企画
プロレス企画1987年に旗揚げされた「たけしプロレス軍団(TPG)」をプロデュースする企画。元は東京スポーツ誌上で語られた企画だったが、番組内で練習生を募集したり、マサ斉藤を招いて公開オーディションを行い、その模様を放送するなどした。練習生の中には後のスペル・デルフィン等がいた。詳細はたけしプロレス軍団の項を参照。 たけし欠席時企画
主なハガキ職人当番組は数多くのハガキ職人を輩出し、その中からベン村さ来や小泉せつ子といったプロの構成作家も生まれた。「ハガキ職人」という言葉自体、この番組から生まれたと言われる。番組招待企画で互いに面識がある者もあり、ハガキ職人同士の横の繋がりもあった。
番組ファンおよび影響を受けた有名人作家の小林信彦、映画プロデューサーの角川春樹など、当番組のファンだと表明した著名人は数多い。小田和正、坂本龍一、三宅裕司、ウッチャンナンチャンなど後に共演する著名人にもファンが多かった。 生放送中の乱入も度々あり、志村けんがドリフ内部の人間関係を吐露したり、和田アキ子が泥酔状態で参加し放送禁止用語を連発するといったハプニングがあった。また、札幌雪祭りの中継のため、札幌STVラジオから放送したときは地元の松山千春がゲストで出演し『北の国から』の作家倉本聰に対し爆弾発言を行った。 また、当時小学生から高校生だったリスナーが後に番組の作り手となって担当した深夜放送には当番組の影響は大きく、代表的なものとして『伊集院光 深夜の馬鹿力』、『電気グルーヴのオールナイトニッポン』などがある。
番組終了とその後たけしは1989年の暮れ頃から番組降板を申し入れていた。 たけしにとっては漫才ブームの頃から唯一担当し続けていた番組であり、またインタビュー等でも「この番組のファンが一番オレの事を分かってくれている」と語り、フライデー事件後の復帰も当番組を選ぶなど愛着もあった。スタッフ側としては当番組は当初より衰えたとは言え依然人気があり、「あと3ヶ月だけ、あと半年だけ」とたけしサイドを説き伏せて番組を続行していた。しかし映画監督など次のステップを踏み出そうとしていた事もあり、「10年で区切りをつけたい」という本人の意志で終了する事となった。 1990年12月27日の最終回当日、ニッポン放送は関係者一同が赤絨毯でたけしを迎え、名場面集などを放送。スタジオには関係者数十人が、社屋周辺には終了を惜しむ数百人のリスナーが詰めかけた。通常エンディングは一同声を合わせて「せーの、バイビ〜!」と言っていたが最終回のみ、たけし1人で「ありがとう、さようなら」と言って番組とリスナーに別れを告げた。 2000年代に入ってたけしは、フライデー事件で『オールナイトニッポン』は基本的に終わっていたと振り返っている[28]。番組開始と同時にいち早くコラムで取り上げて面白さを伝えた作家の小林信彦も、1990年の番組終了時に内容的には5年前に終わっていたとしている[29][30]。 また、2017年4月6日に放送されたフジテレビ系の番組「ビートたけしの私が嫉妬したスゴい人」の総合司会として出演した際にも[31]、この人気のあった番組の終了について、「8年目(1987年ごろ)ぐらいでもうダメだ」と思い[32]、「適切な言葉が…しゃべりたいんだけど(出ないようになった)」として[31]、「『損得』っていうか『忖度(そんたく)』か、(『とく』と『たく』を)間違える。それで高田(文夫)先生におれあんまりしゃべれなくなってるよ、アドリブが効かなくなった、って(言った)」ことを告白した上で[32]、「だからあの番組の後半(の5年間)は自分でも恥ずかしいぐらい手を抜いてるんだよ」とも告白し[32]、この時点で降板することを決意したと告白した[31]。 なお本番組終了後、1991年2月13日から始まったフジテレビの深夜番組『北野ファンクラブ』は高田文夫と同窓会的に本番組の名残として始められた番組だった[33]。 主な事件簿(略年表)
その他エピソード
CMフィラー
以上、1981年10月〜1982年9月。姫神せんせいしょんのアルバム「奥の細道」より
以下は放送末期(最終回まで)
※ローカルCM時間帯に流れるCMフィラー。 エンディング曲
※ほぼフルコーラス流れて番組は終了。時報が鳴る。 放送時間
レギュラー放送終了後の復活
関連書籍
「幸せシリーズ」と呼ばれタイトルに「幸」の文字が必ず入っていた。ほぼ年1冊のペースで出版。
関連項目
参考文献・出典・脚注
外部リンク
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