信仰信仰(しんこう、英: faith)とは、
信仰のことを仏教においては「信心(しんじん)」と呼ぶことが一般的である。「信仰」と書いて古くは「しんごう」と読んでいたこともある[6]。 概説このように、この語は多くの場合宗教的概念、例えば神、教義などを信じることに対して用いる[4]。 広辞苑によれば、信仰は一般に、畏怖よりも何らかの親和の気持ちが根源にあるとしている[注釈 1]。 「宗教」という語が、組織や制度までも含めて指す包括的な語であるのに対し、「信仰」や「信心」は人(あるいは人々)の意識に焦点をあてた語である。 また、何らかの対象を絶対のものと信じて、疑わないこと[7]を指すこともある。この用法は、日本語では比喩的且つ否定的なニュアンスを持つ修辞として用いられる事が多いが[8]、公的な中国語での「信仰」の概念は、宗教もマルクス主義信仰などの宗教以外の信仰も同等に対象とされ、同じ文脈で語られ得る[8]。 各宗教における信仰初期ユダヤ教、旧約聖書における信仰初期ユダヤ教、旧約聖書においては、信仰の概念は神に対する人間の態度であって、神に対する従順と信頼がテーマとされた (創世記 15:6、イザヤ書 7:9)。初期ユダヤ教において、信仰の典型あるいは最も古典的な例として扱われているのはアブラハムのそれである(創世記 15:6)。 信仰は「神の民の命の基礎」(イザヤ書 7:9)、とされ、神に対する従順と信頼が真のアブラハムの子孫としての証しであった(シラ 44:19-23)。信仰によって、民は救いと霊魂の不滅が約束されている(知 15:3)、とされた。 キリスト教における信仰キリスト教における信仰。 新約聖書共観福音書においては、「信仰」や「信仰する」という語はギリシャ語でそれぞれ「pistis」「pisteuein」という語で表現されており、これら信仰を表す語は旧約聖書においてよりも頻繁に用いられている。 信仰は奇跡を起こす(マタイ 17:20、21:21、ルカ 17:6)、とされ、信仰は、神の子、あるいはメシアとして、イエスが神との特別な関係にあると信じること(マルコ 1:24、3:11、15:32、マタイ 8:29、14:33、ルカ 4:41)とされる。 イエスの十字架上の死と復活の後、「救世主イエス」「神の子イエス」に対する信仰は、イエスの弟子たちにより展開・確定し、原始教団の信仰の核となっていった[9]、とされる。 それ以来、キリスト教徒にとっては、唯一の神への信仰は同時にイエス・キリストへの信仰となった[9]。キリストを信じることにより罪のゆるしが得られるのであり(使徒行伝 10:43、26:18)[9]、キリストを信じることは救いのための唯一の必要条件である(使徒行伝 4:12、16:31)[9]、とされるようになった。 3〜5世紀3〜5世紀になると、三位一体論とキリスト論の教理が定められ、信仰内容は客観化された。アタナシオス信条として具体化されると、この客観的に表現された事柄を信じることが正統とされ、この信条を受け入れないことは異端とされるようになった[10]。 アウグスティヌスアウグスティヌスは新プラトン主義に基づいて、神は存在そのものであり、真理と神の認識はひとつであるとした[10]。理性は過ぎ去るものに執着する人間性に基づいたものであるから英知界(mundus intelligibilis)にたどり着けない、信仰に基づく認識のみが真理に到達しうる、とした[10]。また、信仰は神の霊感(inspiratio Dei)であると説いた。また「善を行う神を信頼することによって、よく行動することにとどまる(Credendo adhaerere ad bene operandum bona operanti Dei)」と述べた。これは人間性を回復させるものが愛(アガペー)であることを意味しており、信仰は愛(アガペー)と密接に結びついている[10]とされる。 宗教改革以後宗教改革の旗手となったマルティン・ルターは、パウロ書簡を引用して信仰のみによる救済を説いた。信仰義認は、その後のプロテスタントの根幹となるテーゼの一つとなった[11]。 信仰対象の例超絶的存在、究極の存在超絶的な存在から与えられたとされる言葉約束や、教えなど[注釈 3]。 超絶的存在と深い関係があると見なされている人など上記の人にまつわる物
その他の人
比喩的用法「信仰」という表現は、転じて、何らかの対象を絶対のものと信じて疑わない状態のことを指すようにもなっている[12]。例えば以下のようなものごとについて用いられる。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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