細野晴臣
細野 晴臣(ほその はるおみ、Haruomi Hosono、1947年〈昭和22年〉7月9日 - )は、日本のミュージシャン。 2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。 生涯生い立ち1947年(昭和22年)、東京都港区生まれ。父方の祖父は鉄道官僚で、タイタニック号処女航海唯一の日本人乗客であった細野正文。母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。 港区立白金小学校から越境で港区立青山中学校入学[1]。バンカラな校風の青山中学時代[2]にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高校(現:立教新座高校)・立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する[3]。 高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める[注 1]。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。 ロックバンドの結成立教大学在学中にベースをはじめ、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャー・デビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成。細野本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたが、結果として日本語ロックの礎を築く。1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と並行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実、矢野顕子などのプロデュースも行う。 自身のソロ・アルバムでは、1stアルバム『HOSONO HOUSE』(1973年)は、当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行う。その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチした。この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる(この作品に加えて、プロデュース作品である西岡恭蔵の『ろっかばいまいべいびい』がある。名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。漫画家の諸星大二郎のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。 『イエロー・マジック・オーケストラ』結成シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていた1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。 YMOの成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「¥EN」の高橋との共同による立ち上げなど、個人としても精力的に活動を行う。 また、ビデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース。ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけを作った。 『イエロー・マジック・オーケストラ』散開後1983年のYMO散開(解散)後は、テイチクに移籍し、「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心にいわゆる「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。 この時期は旧知である松本隆の依頼で松田聖子への楽曲提供を行うなど他者への楽曲提供も盛んに行っている。一方で聖子と激しいライバル関係にあった中森明菜に対しても楽曲提供を行っており、同じく松本と旧知である松任谷由実が明菜に対し楽曲提供を行っていないのとは対照的である。 その後、1989年にEPIC/SONY RECORDSに移籍し、アルバム『オムニ・サイト・シーイング』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンドトラックを手掛ける。その後、アルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、アルバム発表や多くの他アーティストとのユニット(別項参照)結成など自己の音楽活動も枚挙に暇がない。 1990年代以降YMO時代からの多忙に加えて、日本のバブル崩壊以前の消費社会に幻滅し、1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費されない音楽を模索した。 自身のレーベル「daisyworld discs」を1996年に創設、2002年よりYMO時代の盟友、高橋幸宏とスケッチ・ショウ (SKETCH SHOW) を結成しフォーキーなエレクトロニカサウンドに取り組む。また2005年にはHISにてシングルをリリース、翌年この名義にて忌野清志郎のライブに参加するなどしている。 SKETCH SHOWは坂本龍一ともコラボレートしており、ライヴやコンピレーション・アルバムでは3人でヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS) として活動も行う。2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「RYDEEN 79/07」を発表、さらにはHASYMOとしても「RESCUE」を発表するなど、活発な活動を行っている。 その一方で、2005年9月に狭山稲荷山公園で行われたハイドパーク・ミュージック・フェスティバルでは久々にボーカルをとって『HOSONO HOUSE』の曲を披露。以降、東京シャイネスやハリー・ホソノ・クインテットなどのユニットを結成し、カントリー&ウェスタンスタイルのライブ活動を行う。これらの活動は2007年9月に発売されたアルバム「FLYING SAUCER 1947」として結実する。また、同年4月に坂本龍一の立ち上げたレーベル「commmons」からトリビュート・アルバムが発売され、同年7月にはトリビュート・ライブが日比谷野外音楽堂で催された。2008年にトリビュート・アルバムの続編も発表されている。 2007年2月7日に発売されたCD-BOX『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』のDisc3で1976年5月8日に横浜市横浜中華街の中華レストラン「同發新館」に招待客を集めてディナーショー形式で行なわれた、通称「中華街ライブ」の音源が初CD化する[注 2]。このライブで細野はベースではなくマリンバを担当。細野以外のバックメンバーはベース田中章弘、ギター鈴木茂、ドラム林立夫、パーカッションとフルート浜口茂外也、キーボードは後に細野とYMOを組む坂本龍一、ピアノは後にYMOのツアーにサポートキーボーディストとして参加する矢野顕子、そしてホーンセクションの人達(ライブのメンバー紹介MCで細野はホーンセクションの人達は紹介していない)。坂本龍一や矢野顕子が参加したりYMOでカバーされる「Firecraker」が披露された面、またソロライブはほぼ音源化されていない為貴重な音源である。 2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。 2011年、『くるり×細野晴臣 東北ツアー』を開催。2013年から4年間、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部の客員教授を務める。2015年、『キネマ旬報』に連載したコラム「映画を聴きましょう」で、第42回キネマ旬報読者賞を受賞。2020年度朝日賞受賞[4][5]。 人物音楽家としての活動以外にも、俳優としてテレビドラマや映画に出演したり、また低音が響く声が評価され、TV番組やコマーシャルのナレーターとして起用されることも増えている。しかし、本人は自分の声が嫌いなようで、YMOのアルバム『BGM』に収録されている「ラップ現象」など、イコライザーで自身の声の低域をカットしている楽曲もある。また、声の低さ故はっぴいえんどのアルバム「風街ろまん」収録「風をあつめて」の曲作りには苦労したと言う。 一般的にはベーシストやキーボーディストとして知られているがギター、ピアノ、オルガン、ドラムス、ヴィブラフォン、シロフォン、三味線とマルチに演奏できる。実際にクラウン時代の『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』では、上記した楽器を演奏しているほか、ドラマーとしては、実際に大瀧詠一の「恋の汽車ポッポ」で、別名の宇野主水で参加している。 狭山に住んでいた頃、「寝図美」という名前の猫を飼っていた[注 3]。以前の飼い主であるフォークシンガーの遠藤賢司が名付けた。遠藤が自宅アパートで飼っていたが大家に見つかって飼えなくなり、細野が預かることになったという。 1970年代にはいくつかの雑誌にコラムを書いている。当時出したアルバムのことなどである。それらのコラムは、CD-BOX『HARRY HOSONO CROWN YEARS 1974-1977』のブックレットに転載されており、読むことができる。アルバム『トロピカル・ダンディー』の歌詞カードにも「島について」というコラムを寄せている。 母方の祖父、中谷孝男は、日本楽器製造(現ヤマハ)のオルガン部門勤務を経て、社団法人日本ピアノ調律師協会の前身である全国ピアノ技術者協会の創設に力尽。 文筆の才に優れ、数多くのピアノ技術書を翻訳して刊行し、国立音楽大学の音響工学科講師を務める等日本屈指のピアノ調律師として名を馳せた。 喫煙者であり、デビュー50周年記念ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』のタイトルは、自身がヘビースモーカーであることに由来している[6]。2021年現在は、受動喫煙対策により禁煙の場所が増えてきたことから、「もうずいぶん前から迫害を受けてる」と語っている[7]。 YMOメンバーである高橋幸宏とはYMO結成以前から長い交流があり、2人が初めて出会ったのは、軽井沢の「三笠ホテル」(現在は国の重要文化財)で開かれたダンスパーティーで、細野が大学生、高橋が高校生のときであった。 ベーシストで、シャッポ及びCHO CO PA CO CHO CO QUIN QUINのメンバーである細野悠太は孫。 祖父・細野正文とタイタニック号→詳細は「細野正文」を参照
細野の父方の祖父である細野正文は、日本人で唯一豪華客船タイタニック号に乗船し、事故から生還した人物である。映画『タイタニック』の公開に合わせ、1998年にウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(佐藤亮一訳、ちくま文庫)が再刊され、細野は祖父のことを記した文章を寄せた。また、ギャヴィン・ブライアーズの『タイタニック号の沈没』の1994年版CDの日本盤[注 4]ライナーノーツでも、本件に関する質疑に答えている。 細野が1985年に『銀河鉄道の夜』のアニメ映画の音楽を担当した時には、偶然ではなく運命的なものと捉えたとコメントしている[8]。 細野は2012年に、事故犠牲者の共同墓地があるカナダのハリファックスを訪れており、その模様は2012年6月7日のNHK BSプレミアム『旅のチカラ』にて放送され[9]、大西洋海洋博物館に展示されている乗船名簿に祖父の名を見つける[注 5]。事故が起きた100年前と同じ4月21日に行われた追悼式を再現した式典に参加し、犠牲者の共同墓地も訪れた。細野は、同じミュージシャンとしてタイタニック号沈没まで演奏していて犠牲になった8人の音楽家のことが気になっていたという[10]。 関連バンド・ユニット
ディスコグラフィシングル
オリジナル・アルバムサウンドトラック
リミックス・アルバム
ベスト・アルバム
トリビュート・アルバム
ボックス・セット
ユニット
参加作品音楽監修
その他
演奏で参加したことのある主なアーティスト細野は1970年代に多くのアーティストの作品で演奏に参加している。ここでは、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーとして以外で演奏に参加したことのあるアーティストを記する。
主な提供楽曲
著書、関連書籍
主な出演番組
CM
映画
テレビドラマ
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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