熊本市
熊本市(くまもとし)は、熊本県の県庁所在地かつ人口が最多の市。政令指定都市の一つで西区、北区、中央区、東区、南区の5つの行政区が設置されている。 概要
熊本県におけるプライメイトシティであり、県の総面積の5.3%にあたる約390km2の市域に、県内人口の約43.5%にあたる約74万人の市民が住んでおり、政令指定都市において県に占める人口の割合は京都市、仙台市、広島市に次いで4番目に高い。九州では、福岡市、北九州市に次いで3番目に人口が多い。2012年4月1日に九州で3番目の政令指定都市に移行した。2020年現在、政令指定都市に移行した都市としては最も新しい市となっている[注 1]。なお、熊本市は日本最南端の政令指定都市でもある。 肥後国府や肥後国分寺が置かれた地である。中心市街地は細川氏の熊本藩54万石の城下町を基礎に発展してきた。戦前は熊本鎮台や日本陸軍第6師団、国の出先機関等が置かれ、九州を代表する軍都・行政都市として栄えた。2011年3月12日、九州新幹線(博多駅 - 鹿児島中央駅)が全線開通し、熊本駅に新幹線駅が併設された。21世紀に入ってからは、熊本駅周辺や中心市街地で大規模な再開発事業が相次いで進行している。 中心部は、熊本城の天守閣から見て南東から東の旧城下町にあたる[3]。繁華街の下通商店街は国内でも有数の規模を誇る全蓋式アーケード商店街である。2019年にはバスターミナル機能を備えた複合商業施設「SAKURA MACHI Kumamoto(サクラマチ クマモト)が開業した。ただし、熊本城などからの眺望を確保するための環境基準により下通・上通などの中心市街地を含む熊本城周辺地域(中央区)約550haには厳しい高さ制限がある[4]。 そのため中心部には高層ビルが存在しないが、当該地域の外にある熊本駅周辺の新都心地区(西区)には、くまもと森都心などの高層タワーマンションが立地する[3]。2021年には熊本駅の大規模な駅ビル型商業施設(ファッションビル)である「アミュプラザくまもと」が開業した。また、中心部を囲むように立地する熊本駅・上熊本駅・新水前寺駅のJR九州3駅が交通結節とされており、中心部との間が路面電車の熊本市電やバスによって連絡している[3]。 熊本市は中心部の外れに位置しているJRの熊本駅に対して、都市間移動においては中心市街地に直接乗り入れる高速バスの利便性が高い。市内中心部に位置している熊本桜町バスターミナル(SAKURA MACHI Kumamoto)は、九州や本州各都市を結ぶ多数の高速バスや路線バスが発着するバスターミナルであり、高速バス・路線バスを含めた利用者数、発着数は日本最多を誇る[5]。 九州における行政の中心地従来より九州域内における行政上の中心都市として整備されてきた名残で、2021年現在も熊本市には九州全域、もしくは九州南部地区を統括する国の出先機関がいくつか存在する。 さらに民間でも中九州あるいは南九州エリアの中枢機能を置いている営業拠点がある。
財務局、国税局、農政局などの各種出先機関のほか、戦前、郵政・放送・通信を所管した逓信省の出先機関・熊本逓信局が九州一円を管轄していたため、この系統の機関が長らく熊本市に置かれている。 国の合同庁舎は以前は熊本城内にあったが、九州新幹線全線開業に合わせ熊本駅南側に合同庁舎が建設され、2014年までに全て移転した。 支店経済郵政省の出先機関・九州郵政局の後身である日本郵政公社九州支社に関しては、郵政公社民営化後も九州の銀行、窓口、郵便、簡保など郵政4事業の全ての業務は熊本で統括することになり、ゆうちょ銀行の九州統括店は熊本城東郵便局に、かんぽ生命の統括店、郵便事業会社と郵便局会社の九州支社は従来通り、熊本市中央区城東町の郵政公社九州支社ビルに残置された。また、全国の郵政職員の人事や経理を集中管理する300人体制の管理センターも熊本市に設置され、明治以来の「郵政城下町」としての機能は民営化後も継続することになった。 かつての電電公社の九州統括拠点も熊本に置かれていた。民営化後も引き続きNTT九州支社が置かれたが、改正NTT法に基づくNTTグループの再編・NTT西日本の発足により九州支社そのものが廃止された。その後、中九州(熊本県・大分県)の地域統括会社・NTT西日本-中九州グループのエリア拠点として再出発したが、2008年7月1日にNTT西日本-九州に吸収合併されている。また日本電信電話公社熊本サッカー部がNTT九州サッカー部や、NTT西日本熊本フットボールクラブに改称した時期を経て後身のロアッソ熊本へ改編されるまで熊本で活動を続けた。 NHK熊本放送局は1928年に九州初のラジオ局として開局し、1992年6月5日の組織改正でNHK福岡放送局に移管するまでは熊本放送局が九州ブロックの拠点局の役割を持っていた[6]。 その他、九州全域や中・南九州エリアの中枢拠点を熊本市に配置している民間企業や各種法人もある。
など 森の都当市の雅称「森の都」は、1930年制定の熊本市歌の歌詞に取り入れられている[7]。また、高度経済成長期からの急激な都市化で緑地が減少したため、1972年10月2日、熊本市議会にて『「森の都」都市宣言に関する決議』が採択され、同市を「森の都」と称することが公式決定された[8]。都市計画にも自然と共存した街づくりが盛り込まれており、「美しく活力ある森の都くまもと」をテーマに都市景観の形成を進めている[9]。 一方で熊本市は、中心部を流れる白川・坪井川・井芹川の3本の川や水前寺成趣園、あるいは豊富な地下水、水前寺江津湖湧水群(平成の名水百選)などを称えて「水の都」とも呼ばれている[10][11]。 その他、市民が「水と森の都」、市が「水と緑の都[12]」と呼んでいる例が見られる。 地理位置福岡市から南へ約110km、鹿児島市から北へ約180km、熊本県の中央部よりやや北側に位置している。 地形旧城下町を中心に市街地が発展してきた。熊本城の東側に下通・上通・サンロード新市街と呼ばれるアーケード街が1km以上にわたって連なり、その周辺に中心市街地は形成されている。中心繁華街である通町筋・辛島町界隈には市役所、日本郵政九州支社、日本最大規模のバスターミナルである熊本桜町バスターミナル(1日6,012本)、鶴屋百貨店などがある。なお、熊本駅(副都心)は中心街から南西に2km程離れて立地しており、その間は市電や路線バスでの移動となる。 面積は390.32km²で政令指定都市の中では比較的狭く、山林は少ない。そのため熊本市内は居住に適した可住地の割合が約84%と非常に高く、人口密度は100万人都市である札幌市、京都市、仙台市、広島市を上回る。 阿蘇外輪山へと続く市の北東部や東部は、一部に立田山や託麻三山、白川沿いの河岸段丘など起伏のある地形もあるが、全体としては肥後台地(合志台地・託麻原(託麻台地))と呼ばれる阿蘇の火山灰土からなるなだらかで農地や住宅地に適した丘陵地となっているため、国道57号沿線の健軍地区 - 東町(東町・東本町団地)・桜木・帯山・長嶺・託麻地区 -武蔵ヶ丘地区を軸に住宅地や東町、長嶺、大江をはじめとする住宅団地が広がっており、さらに市域を超えて菊陽町(光の森)や合志市、益城町まで住宅地が拡大しつつある。熊本市の人口は中央部とともに東部・北東部に集中している(ベッドタウン)。これは、1953年の6.26水害の復興として、ゆるやかな丘陵地の北東部に住宅地が形成されていったためである。 市の南東部 - 南部は熊本平野の一角をなし、平坦な風景が広がる。江津湖の南側から加勢川沿いの田迎・御幸・川尻周辺、さらに緑川を挟んで南側に位置する富合・城南にかけては低湿地であり、以前は大雨が降ると浸水する被害もでていたが、排水設備が整備された現在では[いつ?]宅地化も進んでいる(大規模なニュータウンとして、さんさん一丁目-二丁目など)。旧来からの広々とした田園風景も残っており、所々に小川やクリークなども見受けられる。富合南西部・城南南部は雁回山がそびえ、緩やかな丘陵地帯となっている。飽田・天明地区は主に干拓によって拓かれた田園地帯である。 市の西部は有明海(島原湾)に面し、白川や坪井川が注ぎ込む。海は遠浅で港湾とするには適しておらず、臨海部はほとんど工業化・都市化していない。わずかに沖合に人工島を造成し熊本港が建設され、対岸の長崎県島原市とのフェリー航路が設定されているが、周辺土地の分譲はほとんど進んでいない。市の北西側には金峰山(665m)・二の岳(685m)などがそびえ、その東麓は中心部から伸びる住宅地と森林が入り交じる。 北部・植木は主に金峰山北東の斜面地と、阿蘇から続く肥後台地の最西端からなり、独立して植木台地とも呼ばれる(この台地と玉名平野との境目が田原坂である)。名産として名高いスイカ生産や野菜生産をはじめとした畑作が中心で、ビニールハウスが一面に広がる。植木町の北部(田底・宮原)は合志川流域であり、菊鹿盆地と一体化した丘陵・田園地帯である。 東方にそびえる阿蘇外輪山一帯に降り注いだ雨は地下に浸透し、約20年かけて平野部に達する。この豊かな地下水によって熊本市の水道水はまかなわれ、水前寺成趣園や江津湖などにも湧出している。なお、世界の50万人以上の都市で、水道水源を100%地下水だけでまかなっているのは熊本市だけといわれており、「日本一の地下水都市」または「世界一の地下水都市」ともいわれる。しかし、近年は[いつ?]田畑の耕作放棄、森林の管理放棄などによる涵養地の減少や工場の取水などのため、地下水位は低下しつつある。現在[いつ?]、熊本市は菊陽町や大津町など白川流域の自治体と提携し、県やJA菊池、関係する土地改良区と共に協議会を発足させ、農家に水田から転換した畑などに一定期間水張りしてもらうなど地下水保全事業に取り組んでいる。 気候温暖な太平洋側気候である。年平均気温は概ね17 ℃前後で、年間降水量は概ね約1,500mm - 2,400mmの間で推移している。有明海に面しているが、熊本平野は金峰山と阿蘇山との間で盆地を形成するため、京都市などの盆地型の気候にも似ており夏冬の寒暖の差が大きい。夏場に5月から10月にかけての長い期間で真夏日を記録することが特徴であり、那覇市を除く県庁所在地では最も日数が多い。2005年には年間106日の真夏日を記録している。最高気温が35℃に達する猛暑日になることも少なくなく、最高気温で度々騒がれる本州の内陸都市と比して相対湿度が高いため、不快指数はより高くなる。夕刻には「肥後の夕凪」と呼ばれる無風状態となるために非常に蒸し暑い[13]。梅雨期の6月・7月には年平均降水量約2,000mmのうち約40%が集中し、県庁所在地では鹿児島市、宮崎市に次いで梅雨期の降水量が多い。一方冬場の気温はよく氷点下まで下がり、1月は平均10.5日が最低気温0℃以下の冬日となる。2012年2月3日に最低気温-6.7℃、2016年1月25日に最低気温-6.5℃を記録している。降雪日数は少なく、積雪は数年に一回である。春は桜の開花が高知市などとともに早い。
地域行政区以下の5つの区で構成される。 人口はいずれも2024年11月1日時点の推計人口。
地名→「熊本市の地名」を参照
人口
隣接自治体歴史古代
豊かな土壌や有明海の海の幸にはぐくまれた熊本市地区は古来からの居住形跡があり、旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡(貝塚、古墳なども含む)が市内各所で多数確認されている。 律令制下では、概ね肥後国の飽田郡・託麻郡の区域に当たる。 8世紀、水前寺成趣園そばの砂取に肥後国の国府(託麻国府)が置かれ、その近くに国分寺・国分尼寺も設置されたとされる[1]。 その後国府は城南の益城国府を経て、平安時代中期までに二本木(飽田国府)に移転しているが、すべて現在の熊本市域内での移転であることから、少なくとも奈良・平安期の時点で熊本市地区が肥後国の中心として機能していたことがわかる。 また、神話時代からの歴史とされている健軍神社をはじめ、8世紀には城南に熊本県内で最古の寺院とされる「陳内廃寺」や味噌の神様として名高い「味噌天神」が、9世紀には池上町に山岳寺院として「池辺寺」が、10世紀には現在の藤崎台県営野球場の位置に藤崎八旛宮がそれぞれ設置され、同じころには北岡神社も創建されている。 古代官道(駅路)も熊本市域を縦断しており、大宰府から南下してきた西海道の延長として立田山の西から蚕養駅(子飼)を通って託麻の国府へ、さらに城南方面へ進んでいた。 律令政治の崩壊とともに一時肥後の中心地としての機能は失うが、二本木はその後も大きな集落として継続し、古国府と呼ばれることになる。その後、現在の熊本市北部には寄進型荘園で有名な鹿子木荘が拓かれる。 中世
鎌倉時代に河尻実明が河尻城を築いたことから発展した、現在の川尻地区は港町として栄え、早くから海外交易も行われていた。中国、明の時代の地理書にも「開懐世利」として記述されている。また、城南町では隈庄城が築かれ、益城地方の中心としての役割を担った。
南北朝の騒乱の一端として1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年)、託麻原の合戦が市内東部で繰り広げられ、京塚など合戦の故事が由来の地名も残っている。
その後、応仁年間(1467年 - 1469年)に出田氏が千葉城(現在のNHK熊本放送局所在地)を居城とし1496年(明応5年)、豊後守護大友氏に属する鹿子木氏が茶臼山西南麓に隈本城を築城した。 やがて鹿子木氏が菊池氏についたため、1550年(天文19年)、大友氏配下の城親冬(じょう ちかふゆ)が入った。 近世
戦国時代の肥後国は数十の国衆が割拠していたが、安土桃山時代に入り豊臣秀吉の九州平定により、1587年(天正15年)に佐々成政が肥後49万石に封ぜられ、隈本城へ入る。 しかし、失政により肥後の国衆一揆が起きると、翌年改易され、代わって加藤清正が肥後北半24万石に封ぜられ、隈本城を居城とし統治を開始。 治山、治水や干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し生産力を向上させた。
清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から熊本へと改名した。これ以降、熊本は近世城下町として発展していくことになる。加藤氏は清正の子、忠広の代で断絶し、1632年(寛永9年)以降は小倉藩から移封され熊本藩主となった、細川氏の城下町として発展していくことになる。 近世城下町としての整備は、清正が肥後に入国した天正時代に開始された。まず水害対策と内堀としての活用のため坪井川をつけかえ、古国府の商家も一部移す形で、城の南側(現在の市電呉服町電停一帯)に町人・職人町が作られた。その後城の西側にも町人・職人町が拡大するが、従来からの町人・職人町が「古町」と呼ばれたのに対し、城の西側に開かれた新しい町人町は「新町」と呼ばれることになる。熊本城下町の特徴として碁盤の目状に区画された町の中に寺院が1つずつ設置されており、現在でもこの町のつくりが引き継がれている。有事の際の防衛上の観点からも見逃せない形態となっている。なお、古町界隈は明治以降、昭和戦前期まで熊本市の繁華街の一つとして賑わいを見せていた。 一方、武家屋敷は、城の東側の山崎から高田原(現在の熊本市の繁華街一帯)・坪井にかけての一帯や、城の北の台地上にあたる京町に造成された(京町は、関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の家臣や柳川藩の家臣を清正が引き取って住まわせた町である)。このうち、上級武士は城内(二の丸)や内坪井・山崎に居を構え、下級武士は手取・千反畑・高田原エリアに住んだとされる。 また、1601年(慶長6年)に初代の長六橋(橋名は架橋された1601年 = 慶長6年より)がかかり、薩摩街道や日向往還、南阿蘇へ向かう南郷往還の分岐点として迎町が賑わいを見せ、幕末には安政橋(当時の安巳橋)の対岸に新しい武家屋敷町 = 新屋敷が造成される。これらの区域が近代における熊本区 - 熊本市としてのおおまかな輪郭となる。 郊外では薩摩街道の宿場町、緑川水系の物流集積地(港町)として前代から引き続いて、川尻が栄えた。藩の奉行所や税関、軍港(御船手)がおかれたほか、薩摩藩の参勤交代路として本陣もおかれた。稲荷神社の所在地として発展した高橋は、坪井川の付け替え後に熊本の外港としても繁栄した。川尻と高橋は熊本(城下町)、高瀬、八代とともに肥後の五ケ町の一つに数えられることになる。 また、北へ向かう豊前街道と三池街道の分岐点に元禄時代、「味取新町」という宿場町が造られたが、ここが後に植木の中心商店街となる。参勤交代道として整備された豊後街道には里数木として黒髪に一里木が、龍田に二里木が植えられ、現在もバス停名として名残をとどめる(菊陽町にある三里木は駅名にもなった)。二里木のすぐ東側には17世紀半ば、細川藩に招かれた宮本武蔵ゆかりの史跡である武蔵塚がある。東へ向かう木山往還沿いには17世紀後半、桃山式回遊庭園の水前寺成趣園(水前寺公園)が造られた。 近代
幕末から明治にかけて、開明思想家として知られる横井小楠の活躍や熊本洋学校の設置、熊本の自由民権主義を牽引した植木学校の開校、熊本バンド結成など熊本に近代化の波が押し寄せる一方で、旧体制側である士族の反乱も勃発する。 1876年(明治9年)には神風連の変がおこり、そして1877年(明治10年)の西南戦争により植木の田原坂の戦いでは激しい戦闘が繰り広げられた。 さらに主戦場となった熊本の町は熊本城の天守閣を含め灰燼に帰した[1]。また、1889年(明治22年)には熊本大地震にも見舞われた。
しかしその後の熊本市地区は、熊本県(一時期は白川県)の県庁所在地としてだけでなく、九州地方の中央部にある主要都市であるため「九州の中核都市」と位置づけられ、熊本鎮台・第五高等学校など、九州域内を管轄する国家機関・教育機関が相次いで設置されていく。 1878年(明治11年)設置の熊本区を経て、1889年(明治22年)、市町村制度施行により市制施行。当初の人口は42,725人[1]。1900年(明治33年)に成立した鉄道唱歌第2集山陽・九州編で「九州一の大都会 人口五万四千あり」と歌われるに至った。 そのため、新聞発行や電灯設置、放送局の開局などで熊本が九州初の事業地となることも多く、また第五高等学校が設置されたことから、夏目漱石や小泉八雲などの著名な作家が教師として熊本に赴き、熊本を舞台とした作品を残している(なお、森鷗外も数日ながらも熊本を訪れ、熊本にも関わりが深い作品(「阿部一族」)を残している)。 市内中心部の山崎には明治以降、武家屋敷を取り壊した跡地に練兵場をはじめとした軍施設が設置されたため、市街地が軍施設で分断されてしまい都市発展の障害となっていた。その後軍用地は、大正時代までに城内を除いてほとんどが大江や渡鹿など郊外に移転し、その跡地には新市街をはじめとした新しい商業・娯楽の中心地が形成された(軍用地であった名残として練兵町という町名が残っている他、軍用地の移転に力を入れた当時の市長・辛島格の名前を取って辛島町という町も誕生している)。 大正に入ると近代都市としての整備に拍車がかかる。熊本軽便鉄道・菊池軌道・御船鉄道・熊本市電・バスといった交通機関の拡充は市街地の拡大にもつながり[1]、1921年(大正10年)には春日や黒髪、島崎など周辺町村を大合併して人口は13万となり、これまで旧城下町内だけにとどまっていた市域が郊外へ大きく広がることになった。また、1922年(大正11年)当時の市長・高橋守雄は市三大事業(上水道の整備・市内電車の開業・歩兵第23連隊の完全移転)を掲げ、これを実行に移すことに成功した。それまで南千反畑にあった市役所も、1923年(大正12年)に手取本町の現在地に移転している。 昭和になると桜町一帯に勧業館や公会堂といった施設が立ち並び、隣接する新市街には当時の最新の娯楽である映画館が多数オープンし、それまでの古町にかわる新たな都市核として急発展する。市内中心部には「千徳百貨店」や「銀丁百貨店」といった百貨店も開業した。 1935年(昭和10年)3月25日、水前寺会場を中心に新興熊本大博覧会が開催された[16]。 現代
1945年(昭和20年)7月の大空襲で熊本市の市街地は焼け野原になり、さらに1953年6月の大水害、1957年(昭和32年)7月の大水害で市内の低地を中心に大きな被害を出したことから、東部の丘陵地帯に新しい住宅地が造られた[1]。 これまでの水前寺・出水といった郊外の住宅地に加え、旧軍用地であった大江・渡鹿地区には、住宅団地や専売公社などのほか、熊本商科大学、熊本女子大学(のちに月出に移転し、跡地には県立劇場が建っている)、熊本電波工業高等専門学校(1973年(昭和48年)に合志市へ移転)、警察学校などが建設され、既存の熊本高校などとあわせ、文教地区として成熟した。 また、戦時中に飛行場や三菱の飛行機工場が建設され、市電が延伸してきた健軍町一帯は戦後、自衛隊や官公庁、大規模な公営団地、学校などが建てられ人口が急増。市電の終点ターミナルとしての役割も得たことから商店街や歓楽街も形成され、熊本市東部地区の一大拠点に成長した。 さらに県庁が水前寺に移転し、長嶺・月出にあった熊本空港が高遊原に移転した1970年代以降は長嶺や武蔵ヶ丘・楠方面に住宅地が拡大した。特に1971年(昭和46年) - 1972年(昭和47年)にかけて整備された熊本東バイパス(神水以北区間)はこれらの住宅地の背骨として重要な交通路となり、畑や雑木林が占めていた丘陵地は急速に宅地化された。 1960年代には国道3号の清水バイパスや川尻バイパスも開通。1971年(昭和46年)には九州自動車道の熊本インターチェンジが開設されるなど、市内周辺の道路交通網が整備されたが、その一方では熊延鉄道の廃止、市電の路線縮小などが行われた。鉄軌道に代わる新たな輸送機関の要として、1969年(昭和44年)に大規模バスセンターである熊本交通センターが開業している。1980年代以降も浜線バイパス、第二空港線など主要道路網の整備が充実してきたが、渋滞問題や道路事情の悪化に伴い鉄道や市電への再評価の気運も高まっている。 商業は千徳百貨店や銀丁百貨店に代わり、戦後世代の鶴屋百貨店や大洋デパート(後のダイエー熊本下通店、2014年5月閉店)、岩田屋伊勢丹(後の県民百貨店、2015年2月閉店)、スーパーマーケット系では寿屋やニコニコ堂が躍進し、商業地図は大きく塗り変わる。また、鶴屋や大洋の進出以降、通町筋や下通が、熊本を代表する繁華街として確立されるに至っている。 戦後は軍都の面が縮小したものの人口増加は続き(1977年(昭和52年)には人口50万突破)、行政・商業・観光の都市として順調な発展を続けた。しかし、1963年(昭和38年)に北九州市、1972年(昭和47年)に福岡市が政令指定都市に移行し、熊本市の拠点性は低下した。ただし、現在も九州を管轄する国の機関の一部(戦前に設置された機関が中心)は熊本市に置かれており、九州域内の主要な拠点都市としての役割は継続している。 平成の大合併において導入された期間限定の政令指定都市の要件緩和に基き、富合町、城南町、植木町の周辺自治体と合併して[1]、2012年(平成24年)4月1日に全国20番目(九州で3番目)の政令指定都市へ移行した。さらに道州制導入後の州都誘致を目指す動きも活発化してきている。 →「熊本県の歴史」も参照
年表
行政区画の変遷
住所表記の変遷
行政市長
政令指定都市
2000年(平成12年)国勢調査を基準にすると、熊本都市圏の10%都市圏の人口は102万人、1.5%都市圏の人口は146万人である(熊本都市圏参照)。 「平成の大合併」初期において、周辺7町から熊本市との合併を話し合う法定協議会設置の住民発議が起きた。政令指定都市の人口要件緩和措置から、合併は政令市化の道筋となる可能性があったが、当時、熊本県では政令市化に伴う権限委譲に消極的であり、また、熊本市ではくまもと未来国体開催に伴う財政悪化問題があった。3町では合併の是非を問う住民投票において反対派が大差で勝ち、7町議会でも合併案件は相次ぎ否決されて、この時点での熊本市の政令市化はならなかった。 ところが、交付金削減に伴う周辺自治体の財政難、自治体人口・10%都市圏人口ともに下回っていた新潟市・静岡市・浜松市などが合併・政令市化したこと、近い将来の九州新幹線開業による都市間競争への対策、そして、将来の道州制導入において州都を目指す熊本市の立場から、10%都市圏とほぼ同じ範囲の「101万人熊本都市圏」(3市12町1村 - 設定時)を対象として、「熊本都市圏及び政令指定都市についての研究会」が関係自治体などで結成された。最近の動きを以下に記載する。
2009年(平成21年)4月から6月にかけて相次いで行われた合併の賛否を問う住民投票の結果、前述のように益城町との合併の道は断たれたが、植木町、城南町との合併は濃厚となった。同年7月13日に熊本市議会での廃置分合案が可決。同年9月14日には熊本県議会でも廃置分合案が可決し、2町との合併により政令指定都市昇格条件となる人口要件70万人程度を満たし(3市町合わせた人口は約73万人)、2010年(平成22年)3月23日に合併。これにより、北九州市、福岡市に次ぐ、九州で3番目の政令市誕生へ前進した[25]。 そして2011年(平成23年)10月18日、2012年(平成24年)4月1日より政令指定都市へ移行することが閣議決定された[26]。
行政機構市機関→詳細は「熊本市役所」を参照
県機関財政
議会市議会→詳細は「熊本市議会」を参照
熊本県議会
衆議院
国家機関内閣府総務省法務省
財務省厚生労働省農林水産省
国土交通省環境省防衛省
裁判所特殊法人など
対外関係姉妹都市・提携都市海外
国内
経済2021年(令和3年)度の市内総生産は2兆6059億円である[32]。 熊本県全体の約40%を占めており、パラグアイ共和国の国内総生産を凌ぐ経済規模を有する[33]。 就業人口
(2020年国勢調査) 生活協同組合
第一次産業農業熊本市は日本でも有数の農業王国。農家総数、専業農家数、農業就業人口、経営耕地面積は九州1位、農業産出額は日本の市町村中6位である。 江津湖以南の市南西部 - 西部の田園地帯では米をはじめ、ナス、メロンを含む園芸作物各種が作られる。 中でも、米とメロンは九州で1位、ナスは日本で2位の産出額である。 金峰山山麓の河内地区、小島地区、北部地区は温州みかんの一大生産地となっており、周辺地区には選果場や加工工場も多い。 市北部 - 植木町はすいかの名産地として名高い。 畜産業また東部地区(戸島地区など)では、メロンなどの畑作のほか、近年[いつ?]かなり数は減ったものの酪農も行われている。 水産業水産業としては、有明海の干潟ではノリやアサリなどが水揚げされるほか、白川河口や江津湖では河川漁業、錦鯉などの養殖も一部で行われている。 第二次産業工業
建設業第三次産業商業
熊本市の中心部には、上通商店街・下通商店街・サンロード新市街の3つの繁華街がある。特に下通は、県内最大かつ九州でも上位の賑わいを見せており[34]、平日50,000人、日曜日65,000人の来街者を有し[34]、(一地点での通行量は(2010年(平成22年)8月調査で休日に約3万人)、核的中心専門街としての商業集積は県内でも群を抜いている。これらの繁華街は、上通北側に熊本電気鉄道の藤崎宮前駅が、上通と下通の間に熊本市電通町筋停留場や鶴屋、パルコをはじめとする百貨店が、サンロード新市街の周辺には熊本市電辛島町停留場、バスターミナルの桜町バスターミナルがそれぞれ立地し、それらの間を行き来させる回廊の役割を果たしている[35]。ただし近年は[いつ?]郊外に大型商業施設が進出し、これらの中心部繁華街の人通りは減りつつある。歩行者数は2003年度から2011年度の間に3割減り、空き店舗の割合も1割を超える状況となっていた[36] が、2011年以降は九州新幹線開業などによる観光客増加の要因もあり通行量は再び反転している。上通・下通・新市街の空き店舗率も3.9%にまで改善しているが、以前と比べ飲食店やカラオケ店の割合が増え、1990年からの約20年で半数の店舗が入れ替わり、全国チェーンの店の割合が増加するなど商店街の新陳代謝が進んでいる[37][38]。 2013年に入り、後述の桜町・熊本交通センター地区の再開発(SAKURA MACHI Kumamoto(サクラマチ クマモト))に加え、ダイエー熊本下通店周辺の再開発(COCOSA)、JR九州による熊本駅の再開発(JRくまもとシティ)が行われるなど、熊本市中心部地区は2010年代後半〜20年を目処とした新たな局面を迎えた。 郊外型の大型商業施設としては、地元スーパーのニコニコ堂がサンピアンシティーモール(1996年)、クリスタルモールはません(1998年)をオープンしたが、ニコニコ堂の破綻後はイズミがこれを引き継ぎ、2008年以降ゆめタウンとなっている。このほか、熊本市外だが菊池郡菊陽町にゆめタウン光の森(2004年)が、上益城郡嘉島町にダイヤモンドシティ・クレア(現 イオンモール熊本、2005年)がある(双方とも熊本市との境から数百mほどの位置)。 イズミは2012年2月、熊本市中央区大江の日本たばこ産業(JT)熊本工場跡地約7万3千平方メートルも取得しており、2014年6月に同地にゆめタウン大江(2020年9月よりゆめマート大江)が開業するなど、熊本県内での出店攻勢を強めている[39]。 合志市には双日主導のショッピングモールを出店の計画が持ち上がってはいるが、現在のところ[いつ?]動きは止まっている。 郊外店の一大集積地帯は国道57号(熊本東バイパス)沿線であり、熊本都市圏北東端の菊池郡大津町から国道3号と交わる熊本市近見までの約25キロの区間は、イオン系(ジャスコ)が1軒、イズミ系(ゆめタウン)が3軒、他にもコジマやエディオン、ミスターマックスなどの郊外型大型電器店やロードサイドショップなどが乱立する激戦区となっている。 このような大型店とは別に、郊外商店街もみられる。市電終点の健軍町停留場前に立地するアーケード商店街・ピアクレス(健軍商店街)や、市内中心部に程近い老舗商店街・子飼商店街などである。ただし近年は[いつ?]大型店の集客力に押され、往時の活気はみられない。 また先述の通り、熊本駅前はホテルや受験予備校が複数立地しているものの、駅ビル内の商業施設「えきマチ一番街」を除けばショッピングを満喫できるような場所がなかったが、熊本駅の0番線ホーム敷地と駅南側に隣接していた駐車場の3ヘクタールの敷地を再開発[40]し、商業・オフィス・娯楽の機能を集積した駅ビル(「アミュプラザくまもと」を中核とした「JRくまもとシティ」)を2021年4月23日に開業させた。
市電通町筋電停をはさんで南北に広がる全蓋型のアーケード商店街で、熊本市の繁華街の中心。熊本の流行・情報発信基地ともなっている。 北側の上通アーケード街は全長は約360m、幅は11m。古くは学生の町として栄え、今も[いつ?]書店、喫茶店、ブティック、ブランドショップ、スポーツショップ、ラーメン店などが立ち並ぶ街となっている。電車通り側入口にはかつて熊本日日新聞社のビルがあったが、再開発により郊外の世安へ移転し、その跡地に複合施設のびぷれす熊日会館がオープン。ニューズ(New-S)と呼ばれる鶴屋百貨店系の商業スペースのほか、熊本市現代美術館やホテル日航熊本などが入居している。アーケードの北の端から先は、「並木坂」という小洒落た通りとなっており、若者向けの衣料品店や美容院、飲食店が多い。最近は[いつ?]、上通・並木坂より一本東側の「上乃裏通り」が隠れた人気スポットして注目を浴びている。アーケードはパリのオルセー美術館をモチーフにデザインされており、歩道中央には木材が敷かれるなど、下通と比べると幾分落ち着いた印象を漂わせている。 一方、上通から通町筋を隔てた南側には下通アーケードがある(全長510m、幅15m。通町筋側から新天街、2 - 4番街と続く)。電車通り(通町筋)側入口のパルコをはじめ、カリーノ下通、ファインビルなどの大型商業施設、雑貨屋、ブティック(2010年(平成22年)秋にはZARAの路面店が出店)、各種レストラン、カフェ(プロント・スターバックスコーヒー・サンマルクカフェなど)、各種専門店が陸続と立ち並ぶ。商店街として西日本有数の規模を誇り、終日賑わいを見せる。通りの南側はカラオケ館・コロッケ倶楽部といったカラオケ店やパチンコ店が立地し、やや歓楽街的要素が強くなる。2009年にアーケードの架け替えが行われ、太陽光発電パネル、ミスト噴射器設置、近紫外線LED照明設置など設備の近代化が進められている。また、下通を挟みこむような形で歓楽街が形成されており、駕町通り、銀座通り、栄通りなどを中心として1000店を超える飲食店などが集積、昼とは一味違う、夜の繁華街としてもにぎわいを見せている。 電車通りでの上通、下通アーケード街の入り口は30m程離れており、二つの横断歩道と地下道で結ばれている。また、横断歩道のうち一つは通町筋電停と接続されている。
下通と市電辛島町電停を結ぶ幅広のアーケード街が、サンロード新市街である。映画館の街として戦前から栄えたが、近年は[いつ?]郊外に乱立するシネマコンプレックスの攻勢に押され、現在では[いつ?]TOHOシネマズ以外にはDenkikanしか残っていない。また、ここはパチンコ店やゲームセンターなどが多数出店しており、下通よりも歓楽街的要素が強い。ベスト電器熊本本店はこの通りにある。 辛島町電停の北西側、「桜町」の一帯には熊本の交通の要、熊本桜町バスターミナルがあり、併設にSAKURA MACHI Kumamotoがある。新市街入口と産業文化会館、熊本交通センター、県民百貨店とは、地下道で結ばれていたが、産業文化会館方面、県民百貨店・熊本交通センター方面は建物解体のため閉鎖。2015年10月現在、新市街入口〜辛島公園地下駐車場間のみ通行できる。現在[いつ?]、九州新幹線全線開通後を見据え桜町・花畑地区の大規模な再開発事業が動き出している。同地区では地域・再開発事業者・行政が連携協力し、桜町・花畑周辺地区再開発検討協議会を2008年(平成20年)11月に設置。周辺地区を含めたまちづくりの整備イメージや、その検討課題について協議を重ねている。 2006年(平成18年)12月、桜町地区周辺では相次いで再開発事業構想が発表された。九州産業交通ホールディングスは、熊本交通センターを中心としたエリアに高層複合ビルに建てる開発構想を明らかにした。従来の建物を取り壊したうえで、商業施設やバスターミナル、マンション、ホテルを組み合わせた高層の複合ビルなどを建てる予定で、再開発ビルは総床面積約10万2000m2以上の規模になる模様。また2011年(平成23年)1月には、熊本市より同じ敷地内にコンベンションセンターの設置を要請された。さらに、交通センター東側の産業文化会館のあるエリアには、求人情報誌を発行する雇用促進事業会が中心となって劇場、シアター、商業施設などが入る複合ビルを建設するとの発表もあった。雇用促進事業会の再開発(花畑町)は2013年(平成25年)、九州産交ホールディングスの再開発(交通センター)はやや遅れて、2014年(平成26年)以降の完成を目指していたが、景気情勢などにより計画が遅れている。なお、花畑町の再開発用地にはNHK熊本放送局の移転が決定した[41]。
市電花畑町電停から下通とも交差し、国道3号線まで続く通りが「銀座通り」である。福岡銀行や鹿児島銀行など近県の地方銀行の支店や、JTBや日本旅行などの旅行会社、ビジネスホテル、ファーストフード店、ゲームセンター、立体駐車場、雑居ビル、飲み屋店の集合ビルなどが混在する通りで、一部片屋根式のアーケードが設置されている。 下通南側には1990年(平成2年)前後のバブル期に、熊本のファッションストリートして有名になったシャワー通がある。 各通りの詳細については、下通#その他の通り、上通#その他の通りを参照されたい。
金融機関
※中央銀行である日本銀行の熊本支店もある。 証券会社熊本市に支店がある証券会社 熊本市に支店がある保険会社 情報・通信熊本市に本社を置く、主要情報通信企業 マスメディア教育機関大学・短期大学
専修学校
高等学校
中高一貫校
幼稚園・小学校・中学校幼稚園・小学校・中学校については各区の記事を参照されたい。 特別支援学校
自動車教習所交通中心市街地を九州の大動脈たる国道3号が南北に貫く。 中心市街地の西側を鹿児島本線、九州新幹線が縦貫し、その鹿児島本線の熊本駅から、市街地の南端を迂回して北東方向へ進み、阿蘇・大分方面へ向かう豊肥本線が伸びている。 中心市街地は、熊本駅および北隣の上熊本駅間の線路から東側の一帯と、豊肥本線の沿線周辺に発達している。 また市内交通には、熊本駅および上熊本駅から市中心部と、水前寺成趣園を経て熊本市東部の拠点である健軍に至る熊本市電が走っている。 時間のダイヤも高頻度で運転され、市民の足として定着している。全車冷房、VVVFインバータ車両、超低床電車など日本で最初に導入・達成されたものも多い。 さらに、上通の北側の藤崎宮前駅および上熊本駅から北郊の合志市御代志にいたる熊本電気鉄道も走っている。 「TO熊カード」(ツーユーカード)という各社のバスと熊本市電で共通に使える磁気式のプリペイドカードが発行されているほか、2012年12月1日にJR九州が熊本地区(熊本市内は全駅)に「SUGOCA」を導入した。 2014年3月28日より熊本市電に「でんでんnimoca」が導入され運用開始した。 2015年春にはバス各社に「熊本地域振興ICカード(くまモンのIC CARD)」が導入された。 空路空港当市内には空港は存在しないものの、熊本県上益城郡益城町にある熊本空港が最寄りとなる。 熊本市内や肥後大津駅から連絡バスが運行されている。1971年3月31日以前は熊本市内に空港があった。 鉄道市の代表となる駅:熊本駅 熊本駅は市街地西南端部に立地している。しかし地域的に市街地西部は自動車への依存度が高い。熊本市の市街地は、東部・北東部方面に人口が集中している為、多くの市民にとっては熊本駅は乗換拠点に過ぎず、都市規模の割には乗降客数はあまり多くなかった(乗車人員:15,098人。2017年度)。また、下通などの市内中心部へは熊本市電(路面電車)やバスでアクセスが可能で、市内移動は中心部を迂回するJRではなく市電とバスが担っている。 その一方、九州新幹線の全線開業や、インバウンド需要の高まり、熊本駅周辺で大規模な都市開発でJRくまもとシティ(アミュプラザくまもと)が誕生するなど集積も進んでいる影響で、市内のJR各駅の利用者数は急激な増加傾向にある。 特に新興住宅地「光の森」として発展を続ける市北東部に位置する光の森駅(ただし、駅は熊本市と菊陽町の境界にまたがる)や、中心市街地に近く市電との乗り換えが可能な新水前寺駅を利用する人が多く、新水前寺駅は乗車人員数は4,000人を超え、熊本市内の駅では熊本駅に次いで利用客が多い。 バス熊本市の中心部にある日本最大規模のバスターミナル、熊本桜町バスターミナルを中心に路線網が展開されている。九州では唯一のオムニバスタウン指定を受けており、ノンステップバス導入を中心としたバス交通環境の整備を進めているが、他事業者からの中古車の購入、また熊本県内の最有力バス事業者である九州産業交通が経営悪化により産業再生機構の支援を受け、また熊本電鉄も経営難に陥るなど、厳しい状況も見られる。
路線バス下記4社により運行されている。
1996年(平成8年)以降、熊本都市圏内共通で系統番号を振ったり、2010年(平成22年)以降熊本バスを除く各社で一日乗車券を共通化するなど、会社間の垣根を越えた取り組みも行われている。 かつては熊本市営バスがあったが、上記のように熊本都市バスに路線を移譲したため、2015年3月31日限りで廃止となった。 都市間バス九州産交バスなどを主体に、福岡市、北九州市、長崎市、大分市、宮崎市、鹿児島市など多数の都市を結んでいる。熊本市内の停車地は路線や便により異なるが、桜町バスターミナルにはどの路線も停車する。
道路高速道路国道県道
道の駅航路港湾
観光名所・旧跡
観光スポット
百選
文化・名物発祥→「御飯の友」も参照
音楽
ファッション熊本市は、国内外の有名ブランドが全国に先駆けて出店するなどファッション感度の高い街としても知られ、繁華街に軒を連ねる大型商業施設、西日本有数の規模を持つ市内中心部の大型商店街である上通や下通などは、多くの若者たちで終日賑わっている[47]。 特に1980年代以降、熊本パルコ開店、ブレイズやベイブルックなど熊本発セレクトショップやシャワー通の成功、ポール・スミスやビームス、ジョルジオ・アルマーニ、ジャンフランコ・フェレなどのショップが全国に先駆けて出店したことなどにより、ファッションタウンとしての側面が認知され、県内だけでなく広く九州各地から集客するようになった。九州新幹線開業に向けさらに出店が活発化しており、2008年(平成20年)10月にはAuneが[48]、2010年(平成22年)11月にはスペインのファッションブランドZARA熊本店がオープンしている。
テストマーケティング
熊本地区店舗では、しばしば新商品の試験販売(テストマーケティング)を行っており、マック・フルーリーやクォーターパウンダーなどは全国に先駆けて販売されている[49][50]。また、マクドナルドの九州初出店は熊本市である(1975年〈昭和50年〉、下通の熊本大洋店)。 名産・特産
こうのとりのゆりかご→詳細は「赤ちゃんポスト § 慈恵病院「こうのとりのゆりかご」」を参照
2007年(平成19年)熊本市が日本で初めて設置を許可。望まない妊娠や経済的に困窮する親が、育てられない赤ちゃんを匿名で病院に預ける施設として設置。2008年(平成20年)熊本市が初公表した預けられた赤ちゃんは、17人に及んだ。いずれも、預けられた時期などの詳細は公表されていないが、13人までは親が手紙などの着衣以外のものを添付していたため、身元が分かった赤ちゃんもいる。身元が分からなかった赤ちゃんは、熊本市が戸籍を新たに作成した。再び養子として、養親に引き取られた赤ちゃんもいるが、詳細は個人が特定されるとして非公表とした。 2011年(平成23年)「こうのとりのゆりかご」の利用に至る前に、母子を救おうと慈恵病院が実施している電話相談の件数は、2007年(平成19年)から2010年(平成22年)までの3年間で約1,500件に上り、うち8%がやむを得ない自宅出産や破水など緊急時関連だった。その為、同院では無料電話相談を24時間態勢で行うこととした。同院は「一つの病院がボランティアで応じるには限界がある」として、国による補助制度を実現し、全国的に相談・医療拠点が整備される必要性を訴えている。なお、全国の児童相談所、熊本市福祉総合相談室でも電話相談窓口を設置している。また、「こうのとりのゆりかご」に預けられた赤ちゃんは、2021年(令和3年)時点で "累計161人" となっている。 スポーツ→詳細は「Category:熊本市のスポーツチーム」を参照
→「ロアッソ熊本の選手一覧」および「ロアッソ熊本の年度別成績一覧」も参照
熊本市を舞台とした作品
唱歌前述した、1900年(明治33年)に大和田建樹によって作詞された『鉄道唱歌』第2集山陽・九州編では、熊本は当時九州一の都会ということもあって、4番を割いて歌っている。
熊本市ゆかりの作品『ケロロ軍曹』の作者である吉崎観音は小中学生時代を熊本市で過ごしており[52][53]、熊本市の親善大使も務めている[54]。2012年には熊本市現代美術館で原画展が開催されたほか[55]、『ケロロ軍曹』がラッピングされた電車が走った[56][53]。2019年には『ケロロ軍曹』が描かれたマンホールのふたが2基、市内に設置された[52]。また同年、「GOGOくまもとガイドツアー」と題された『けものフレンズ』とのコラボレーションによる熊本観光ツアー企画も行われた[57]。 アニメツーリズム協会による「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」のひとつとして2018年度版より『ケロロ軍曹』には熊本県熊本市が設定され[58]、熊本城二の丸広場でアニメツーリズム公式御朱印を押すことができる[59]。 出身・ゆかりのある著名人
→「熊本市出身の人物一覧」を参照
その他市内郵便番号
市外局番
脚注注釈出典
関連文献関連項目外部リンク行政
観光
|