第一高等学校(だいいちこうとうがっこう、英語: First Higher School)は、現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校である。「旧制一高」とも呼ばれる。
概要
旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設されたナンバースクールの先駆けであり、1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設された。
校名が第一高等学校に改称された1894年(明治27年)以降、一高の修学期間は3年となり、帝国大学の予科と位置付けられた。一部は法学・政治学・文学、二部は工学・理学・農学・薬学、三部は医学であった。また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類という分類となる。
一高の卒業生の多くは東京帝国大学へ進学し、戦後、GHQの指導による学制改革に伴って1950年に廃止されるまで、全国から集まった優秀な学生と一流の教授陣により、一高は総計18,633人の卒業生を世に送り出し、政界、官界、財界、学界などあらゆる分野でエリートとして活躍している。
一高の特色としては、1890年代から始まった、学生による自治制度と、皆寄宿制度(全寮制)が挙げられる。
一高では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として菅原道真の、武人の代表として坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
一高の廃止後、その校舎や組織は、新制東京大学教養学部前期課程(2年間)に組み込まれた。このため、東京大学駒場キャンパスにおいては、現在でも旧制一高時代の校舎や「一高」と刻まれたマンホールの蓋を見ることができるほか、駒場キャンパスの正門には、ローマ神話の女神ミネルヴァの「文」を意味するオリーブと、軍神マルスの「武」を表す三つ柏を象った、文武両道を表した一高の校章がはめられている。
一高生の出身校
- 小学校
明治期・大正期、現在までに百年来の歴史を持つ文京区の誠之小、千代田区の番町小、麹町小の各小学校には、都下の有力者の子弟が学区を超えて集まり、その多くが「一高 - 帝大」コースを歩んだ[2]。これは当時、西片(現在の文京区)や番町・麹町(同千代田区)等に居を構えることが日本を代表する最高の「エスタブリッシュメント」であったことから、選抜試験を施さない公立小学校でありながら、これら三つの小学校は「御三家」と呼ばれた。帝大教授の子弟、貴族院議員や子爵の末裔まで、およそ日本の上流階級が好んで集ったがためである[2]。
- 中等学校
下の表は、1907年(明治40年)に旧制第一高等学校に入学した学生の出身中学校(旧制)別ランキングを一高への入学者数が多い順に上位12校まで示したもの、および1934年 - 1942年(昭和9年 - 昭和17年)の間に同高に入学した学生の出身中学校別ランキングを、同様に多い順に上位12校まで示したものである[3]。
エリートの代名詞として「一中 - 一高 - 帝大」などと喧伝された官公立の東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)や東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)、官立では東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大附属中・高)、私立では、明治期までは独語試験の一高三部(医科)に多数の合格者を送り出していた獨逸学協会中学校(現・獨協中・高)が一中などと合格者数首位争いを演じ、早稲田中学校(現・早稲田中・高)や開成中学校(現・開成中・高)などが、多くの生徒を一高に送り込んでいたことが分かる。下表には挙がっていないが、日本中学校(現・日本学園中・高)、大成中学校(現・大成高)、順天求合社中学校(現・順天中・高)なども知られていた。
また、1886年(明治19年)の中学校令制定により、全国の官公立尋常中学校と全国の官立高等中学校等との履修課程の格差を埋め合わせ、明治半ばの一時期において10年間程度の短期間ではあるが、一部の官公立(後に一部の私立も含める)尋常中学校の成績優秀な生徒に対して、無試験(のち一部科目免除の試験に改定)で一高をはじめとする全国5校しかなかったナンバースクールへ入学できる特権的な推薦枠(連絡)が用意されていた[注 1]。
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昭和9年~昭和17年 (1934年~1942年) 第一高等学校入学者輩出校
順位 |
出身旧制中学校名 カッコ内は現在校名 |
一高入学者数
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1 |
府立一中
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430
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2 |
府立四中
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234
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3 |
府立五中 (都立小石川中等)
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207
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4 |
第一神戸中 (神戸高)
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130
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5 |
府立三中
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120
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6 |
東京高等師範附属中
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115
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7 |
府立六中 (都立新宿高)
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87
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8 |
府立八中 (都立小山台高)
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70
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9 |
湘南中 (湘南高)
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61
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10 |
麻布中
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56
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11 |
横浜一中 (希望ヶ丘高)
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54
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12 |
第一東京市立中 (区立九段中等)
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50
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沿革
寮歌
- 『全寮寮歌(闇の中なる)』 - 1901年(明治34年)、作詞:大島正徳、作曲:島崎赤太郎
- 『春爛漫の花の色』 - 1901年(明治34年)、第11回紀念祭西寮寮歌。作詞:矢野勘治、作曲:豊原雄太郎
- 『アムール川の流血や』 - 1901年(明治34年)、第11回紀念祭東寮寮歌。作詞:塩田環、作曲:栗林宇一または永井建子
- 『嗚呼玉杯に花うけて』 - 1902年(明治35年)、第12回紀念祭東寮寮歌。作詞:矢野勘治、作曲:楠正一
- 『新墾の此の丘の上』 - 1937年(昭和12年)、第47回紀念祭寮歌。学校を本郷から駒場へ移転した心持が歌われている。
- 『デカンショ節』 - 元は兵庫県篠山の民謡。厳密には寮歌ではないが、ストームと呼ばれる行為の際に歌われた。
主な部活動
事件・出来事
- インブリー事件
- 1890年5月17日、明治学院との野球試合開催中に明治学院の応援に来るのに一高の垣根を乗り越えた神学教師ウィリアム・インブリーに投石、負傷させた事件。
- 内村鑑三不敬事件
- 1891年1月9日、教育勅語拝戴式で講師(寮の舎監で校長・教頭に次ぐNo.3)の内村鑑三が、教育勅語に記された御親筆の御名に敬礼しなかったため辞任に追い込まれた。
- 寮歌
- 1902年3月1日、第12回紀念祭にて寮歌「嗚呼玉杯」が初めて発表された。
- 藤村操の自殺
- 1903年5月22日、在学生の藤村操が「巌頭の感」の一文を遺し華厳滝で投身自殺した。哲学的煩悶のための自殺として世間に衝撃を与えた(夏目漱石を参照)。
- 謀反論講演
- 大逆事件の翌年(1911年2月1日)、弁論部大会で作家の徳冨蘆花が『謀反論』の講演を行い、学生の感動を呼んだ(文部省内では物議をかもす)。
- マント事件
- 1913年4月、在学していた菊池寛が、友人であった佐野文夫が他の学生から無断借用した制服のマントを(佐野の依頼で)質入れしたことをきっかけに窃盗の嫌疑をかけられ、無実の罪をかぶって退学した事件。菊池は後年、この経緯をモデルにした小説『青木の出京』を執筆した。
- 日本共産党スパイ査問事件
- 1934年、日本共産党スパイ査問事件が表面化。党員やシンパが摘発される中で、イギリス人の英語講師ウィリアム・マックスウェル・ビカートンが活動資金を提供していた疑いで検挙された[6]。
学生生活
- 籠城主義
- 1890年に自治寮ができ、1901年以降全寮制が確立した。全国のエリート男子が集まり青春を過ごす自治寮を中心に独自の校風が生まれた。俗世間から隔絶した校風を誇る言葉が籠城主義である。校長・新渡戸稲造は籠城主義は排他的になり、高慢になりがちであるなどと戒めている。
- 寮のストーム
- デカンショ節
- 寮の紀念祭
- 寮の各部屋を思い思いの趣向で飾った。学生、招待客ともに楽しみにしていた行事である
- 鉄拳制裁
関係人物一覧
一高に関連した作品
関連文献
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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江戸時代・ 幕末維新期 | |
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旧「東京大学」期 (1877年 - 1886年) |
- (1877年設置)東京大学法学部(⇒1885年「法政学部」に改称)・理学部・文学部・医学部・(1885年新設)工芸学部
【教養課程】大学予備門⇒(1886年中学校令により独立)第一高等中学校 【法学】法学校正則科(司法省法学校)⇒(1884年文部省移管)東京法学校⇒(1885年合併)法学部 【工学】工部大学校⇒(1885年文部省移管)⇒(1886年帝国大学発足時に工芸学部と合併)工科大学 【農学】内務省農事修学場⇒農学校⇒(農商務省移管)農学校⇒駒場農学校 【林学】内務省樹木試験場⇒(農商務省移管)樹木試験場⇒東京山林学校
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「帝国大学」期 (1886年 - 1897年) | |
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「東京帝国大学」期 (1897年 - 1947年) |
- (1897年設置)東京帝国大学法科大学・理科大学・文科大学・医科大学・工科大学・農科大学
【経済学】法科大学経済学科・商業学科⇒(1919年新設)経済学部 (1919年設置)東京帝国大学法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部・経済学部 【教養課程】(1921年設立)東京高等学校 【農学】農学部実科⇒(1935年独立)東京高等農林学校⇒(1949年に設立)東京農工大学 【工学】(1942年新設)第二工学部(従来の工学部は第一工学部に改称)
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旧制「東京大学」期 (1947年 - 1949年) | |
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新制「東京大学」期 (1949年 - ) |
- (1949年設置)東京大学法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部・経済学部・教養学部・教育学部
【薬学】医学部薬学科⇒(1958年に新設)薬学部
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現在の学部 | |
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中学校令(1886年) による設立 (高等中学校) |
【東京】第一高等中学校(1886年)⇒一高(1894年) 【仙台】第二高等中学校(1887年)⇒二高(1894年) 【京都】第三高等中学校(1886年)⇒三高(1894年) 【金沢】第四高等中学校(1887年)⇒四高(1894年) 【熊本】第五高等中学校(1887年)⇒五高(1894年) 【山口】山口高等中学校(1886年)⇒山口高校<旧旧>(1894年)⇒山口高商に改称(1905年)⇒大学予科廃止(1907年) 【鹿児島】鹿児島高等中学造士館(1887年)⇒廃校(1896年)
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第一次高等学校令(1894年) による設立 |
【岡山】六高(1900年) 【鹿児島】七高造士館<再興>(1901年) 【名古屋】八高(1908年)
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第二次高等学校令(1918年) による設立 |
官立(3年制) | |
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官立(7年制) | |
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公立(7年制) | |
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私立(7年制) | |
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戦後特設高等学校 (3年制、1947年) |
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学習院学制(1884年) | |
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カテゴリ |