天皇
天皇(てんのう)は、 古代以来の男系の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号[5]。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている[6]。2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇子)。 概要「てんのう」は、「てんおう」の連声(れんじょう)とされる[7][8]。古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、推古朝または天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[8]。儀制令には祭祀では「天子」、詔書には「天皇」、外交文書には「皇帝」を用いるとしていた[9]。 「天皇」は大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、古墳時代以後の奈良時代から平安時代にかけて 1936年(昭和11年)以前は「皇帝」と「天皇」が併用されていたが、1936年(昭和11年)に「天皇」で統一された[22][23][24]。 日本国憲法においては「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された。天皇は 帝国憲法には天皇を元首とする明記があったが、日本国憲法に元首の規定はないため日本の元首について様々な見解がある[26]が、政府見解では「日本の天皇は元首である」(昭和48年6月7日、田中角栄内閣総理大臣国会答弁)[27]とされ、 内閣法制局も定義によるとしながらも天皇は元首であるとしている[28]。 →「日本の元首」も参照
→「象徴天皇制 § 「君主」に関する議論」も参照
祭祀王として天皇は古来より統治権と祭祀権を表裏一体に有し、時代の変遷の中で幕府等に統治権の一部が移ることはあったが祭祀の根本が揺らぐことはなかった[29]。天皇は古代以来の日本人の共同体の中心である「祭り主」でもある[30]。天皇は伝統的に祭祀王(プリーストキング、Priest King)であり、国家の「祀り主」であり、この祭祀王こそ天皇の最も重要な役割とも言われる[31]。 現行の日本国憲法下においても天皇の宮中祭祀は国事行為を越えた「天皇の公事」であり、天皇は千年以上前から今に至るまで毎日、国家の安泰、国民の平和を祈っている存在である[29](毎朝御拝/毎朝御代拝)。大金益次郎は戦後の憲法調査会において個人的祈願はまったく行われずに「ただひたすらに国家の安寧と世界の平和とをお願いになっておるだけ」の皇室祭祀にこそ象徴としての天皇の意義の源泉があり、皇室祭祀は「象徴たる天皇の行事である」と明言している[32]。 1990年(平成2年)、紀宮(現黒田清子)は誕生日会見で心に残っている皇后(現上皇后美智子)の言葉として「皇室は祈りでありたい」という言葉を紹介している[33]。また上皇明仁は天皇在位中の平成28年に「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と天皇の務めは「祈り」であることを自身の退位の際に語っている[34]。このような天皇固有の祭祀は初代神武天皇を始祖とする父系の血筋の子孫の男子がその資格を有するとされ世襲されて来た[35]。 古代世界の王は皆、祭祀王という性格をもっていたが、現代では日本以外では滅んでしまい、天皇は現在、世界に唯一残る祭祀王とも言われている[31]。 →「宮中祭祀」も参照
徳治主義古くから儒学を取り入れてきた(「日本書紀」巻10、応神紀十五年秋八月六日条、王仁による論語の伝来)朝廷では古くから徳治主義が天皇の政治の基本方針である。仁徳天皇の有名な「民のかまど」(「日本書紀」巻十一、仁徳紀四年二月六日条)[36]の故事に早くもその影響は見られ、「天の君を立つることは是百姓の為なり」と説く[37]。このような姿勢はその後の歴代天皇にも受け継がれ、醍醐天皇は冬の寒さの厳しい時に民百姓が寒さに震えているだろうと自らも衣脱ぎ捨てたと『大鏡』にあり[38]、花園天皇の『誡太子書』には「君主の重責」として「天命の君主を樹立する所以は蒸民のためなり。仁義と政術とをもって凡俗下民を訓導する才徳なくば、君位にあるべからず」と徳治主義と君主の厳しい責任が説かれている[39]。これは先行する宇多天皇の『寛平御遺誡』の仁政思想を継受している可能性があり、「誡太子書」においてはっきりと徳治主義が明示されたのであろう。こうした敬神克己の叡慮が歴代天皇の毎朝の天下泰平の祈りの神事である「毎朝御拝」として具現化されていたのである[40]。また江戸時代の光格天皇も「人君は仁を本といたし候事、、(中略)、、人徳の事を第一とまいらせ候」「何分自身を後にして、天下万民を先とし、仁恵・誠信の心、朝夕昼夜に忘却せざる時は、神も仏も御加護を垂れ給う事、誠に鏡に掛けて影をみるがごとくに候」と書き残し君主は「仁」を第一としなければならない、一身を顧みることなく万民に「仁」を施さなければならいと徳治主義の思想を述べている[41]。 神話と伝説王家の始祖が神(神々)や神話と結びつく事例(現人神)は、歴史上、世界各地で多数の事例が存在するが、現存する国連加盟国の君主制国家の中では現在、唯一[42]の事例となっている。 『古事記』『日本書紀』には天皇の先祖について、三種の神器をもって地上に降臨した天照大御神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)であり、その子孫が初代天皇の神武天皇であると記している[43]。 この邇邇芸命の降臨を天孫降臨と呼び、『日本書紀』にはこの時、三種の神器と共に稲穂をもって降臨したと伝える[44]。 神話的には天皇は記紀に伝えられる天照大神の神勅により豊葦原千五百秋瑞穂の国の統治を任され、また皇位は皇祖の神裔により万世一系の皇統として天地と共に永遠に伝えられるとされている[45]。 戦前にはこれを大日本國體として「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である」[46]と説明していた。 これをもって日本国の歴史は「永遠の今」の展開であるとされ、日本史の根底には常に永遠の今が流れていると解されるとしていた[47]。 古来より明治時代まで天皇は毎食ごとにかたわらに置かれた皿に一品ずつとりわけて、自分が治めるこの国に飢えた民がひとりでもいるのは申し訳ないという気持ちで名もなき民のために捧げるという「さば」という行事を行っていた。この行事は仏教に由来するともされるが、仏教以前の『斎庭稲穂の神勅』の精神に由来する古来からの伝統行事だったという見解もある[48]。 天皇制『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、日本の君主制を指す[49]。「広義には前近代天皇制と象徴天皇制を含め、狭義には明治維新から第二次世界大戦敗戦までの近代天皇を指す」語であり[49]、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされている[50]。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」としている[51]。 歴史的には「天皇制」という言葉はコミンテルン(共産主義インターナショナル)が1932年に出したテーゼ(32年テーゼ)で初めて使用したのが始まりである[52]。 「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、Kotobankに登録されている辞事典として次がある[53]。
語源古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ[54]。元は皇帝・天子[54]・君主の敬称であり、古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[55]である。 語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現である[56]とする説もある(この世紀に「天皇」の文字が初めて文献に現れたとする事典[57]もある)。『日本書紀』が記す煬帝の国書にある「倭皇」は「皇」一字で「スメラミコト」と読まれている[注釈 7]。 天皇という二字は、「是全ク漢土ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ漢風諡ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる[58]。また、ある分野で強大な権力を持つ人を指す[7][8]。なお、 地位憲法の規定日本国憲法における天皇→詳細は「象徴天皇制」を参照
日本国憲法では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第4条)と規定されている(象徴天皇制)。なお天皇を元首や君主とする規定は存在しないが、国会における政府答弁では天皇は元首であると解されている[28]。 皇位継承皇位継承は日本国憲法第2条に『皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する』と規定されおり、この『皇位の世襲』については政府見解においても学説においても『男系』であると解する見解が多数派である[60]。皇室典範第一条の男系男子による皇位継承の規定はそれを確認したものであると解されている[61]。また、憲法第2条は憲法第14条の特別規定であり、皇室典範によって女性天皇が認められていないことは憲法違反ではないと解されている[62]。また皇位につく資格は基本的人権に含まれておらず、女性天皇を認めなていないことは、男女差別撤廃条約に違反するものではないと国会論議において確認されている[63]。 国籍・日本国民天皇も日本国憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」である[64][65]という学説もあり、研究者による憲法論においては、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある[66]。記帳所事件における1989年(平成元年)7月19日の東京高裁判決では「天皇といえども日本国籍を有する自然人の一人であって」と判断されているが、国会における政府見解では天皇は「憲法上の日本国及び日本国民統合の象徴としての地位」によって基本的人権に必要なる制約を受け、一般国民と同じようには適用されないとされている[67]。また皇族についても基本的人権の保障はあるが、皇族身分の特性から一般国民とは異なる取り扱いがなされるとされている[68]。 裁判権→「皇室裁判所」も参照
刑事裁判権は、皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定されており、これは天皇については刑事裁判権が及ばないことを前提にしていると解されている[69][70]。告訴権については、名誉毀損罪に関する刑法232条2項は、内閣総理大臣が代わって告訴を行うとしており、天皇に告訴権がある事を前提とする。 民事裁判権は、1989年(平成元年)11月20日の記帳所事件における最高裁判決で
とする。
大日本帝国憲法における天皇大日本帝国憲法では、天皇は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」(第4条)と規定され(元首かつ君主)、憲法解釈として憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあった。 天皇についての学術的言説
権能日本国憲法下の権能日本国憲法下においては、天皇は「国事に関する行為(国事行為)」のみを行い、国政に関する権能を有しない(日本国憲法第4条1項)。次に掲げる国事行為は、すべて内閣の助言と承認のもとに行われる儀礼的・形式的な行為である。
これらの国事行為に関し、天皇は政治的に責任を負わない(無答責)。ただし、君主無答責とは異なり、天皇の政治的無答責は「象徴」としての地位に内在するものではなく、憲法第3条に定める国事行為についての内閣の責任と憲法第4条に定める政治的諸関係からの厳格な隔離から導き出されるものと解されている[82][83]。 この他、天皇の公務として公的行為がある。国会開会式への出席や宮中晩餐会などが挙げられる。 大日本帝国憲法下の大権→詳細は「天皇大権」を参照
称号日本国内における称号日本で「天皇」号が成立したのは7世紀前半の推古朝、7世紀後半の天武朝の2説が有力だが、近年では天武朝説が研究者の支持を集める傾向にある[84]。しかし、推古朝説を支持する声も根強く決着をみていない[85]。ほかに天智朝説もある[85]。 称号の由来「天皇」は、字音仮名遣では「てんわう」と表記する。「てんわう」が中世までに連声により「てんのう」に変化したとされる。漢音で「てんこう」と読まず呉音で読む理由は不明であるが四天王で知られる「天王」との関連が考えられる。中国では秦の始皇帝が、秦の統一後に、皇帝と名乗る以前の大王時代に支配者の新しい名称を求めて例示された「天皇・地皇・泰皇」中に「天皇」号があるが泰皇を改定して「皇帝」号を創始した(『史記』始皇帝本紀)。この記事を参照して、第2回遣隋使国書「天子」使用で煬帝から無礼とされたことから、天を含み王がない号として天皇号を選んだとの吉田孝の説がある[86]。後に、中国の唐の高宗は 道教から「天皇」と称した。(上元元年〈674年〉8月)、『旧唐書』には、「皇帝を天皇と称し、皇后を天后と称す」(巻5)[87]とある(『新唐書』(巻3)にもあり)。死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の 古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[54]。 「スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット「sume:ru」(須弥山)と音韻・意味が一致し、モンゴル語「sümer」(須弥山)と同源であろうとしている。また、「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されている。他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない[89]。古事記では穴穂部皇子の別名を須売伊呂杼(すめいろど)と記しており、日本書紀の用明天皇紀で豊国法師を連れて内裏に入る場面では穴穂部皇子を「皇弟(すめいろど)皇子」と表記している。欽明天皇紀には「住迹(すみと)皇子」ともある。遥か上代であるが、古事記が記すヤマトタケルの子孫の系譜には「須売伊呂」で始まる人名が現れる。古事記のコノハナノサクヤビメの神話では「天皇命」を「すめらみこと」と読む箇所があり、他には神功皇后に降伏する新羅国王の言葉にのみ「天皇命」が現れ、住吉三神との関連が窺われる。岩波文庫の校注にある通り、『日本書紀』では景行天皇以後は天皇の子女を称するのに「命」に代わって「皇子」「皇女」を用いており、崇神天皇は奈良盆地の東西の隅に墨坂神と大坂神を祭っている。 万葉集の歌謡には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が「オオキミ」、5例が「スメロキ」と訓ませている。それぞれの文意の比較から、「オオキミ」は今上天皇、「スメロキ」は「天皇」の他に「皇祖神」、「皇神祖」、「皇祖」に対しても「スメロキ」と訓ませているため、過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている[90]。また舒明天皇と斉明天皇の時代に中皇命(なかつすめらみこと、斉明天皇または間人皇女か)という人物の歌が収められている。万葉集には「皇神(スメガミ)」を詠んだ歌もあり、立山や志賀島など、海や山を領する神を指す。岩波文庫の『日本書紀』武烈天皇の補注では「スメは起源的には港や山などの土地を本来的に領有支配することをいう語であったろう」とするが、海や山に限ることから「隅(すみ)神」と考えるのが自然であろう。領有支配は「知」という語であり「やすみしし(八隅知之)」の枕詞につながる。 なお、“スメラミコト”という呼称に関して注目される文章に天平7年(735年)に唐の玄宗が帰国する遣唐副使中臣名代に託したとされる天皇宛の勅書がある[91]。実際の執筆者は玄宗の重臣であった張九齢によるものであるが、その宛名は「日本国王主明楽美御徳」となっている。「主明楽美御徳」は“スメラミコト”の漢字表記であると考えられるが、先行して出されであろう日本側からの国書の段階で君主を「天皇」ではなく「国王」と表記して“スメラミコト”と称していたと推測される。もしも日本側で「天皇」と称していたのを唐側で「国王」に書き換えたとすれば、元の日本側の国書には「天皇」と“スメラミコト”という同義語の自称を併記していたことになって却って不自然だからである(なお、玄宗は「主明楽美御徳」を日本国王の姓名もしくは名前と理解していた可能性はある)[92]。大宝律令や養老律令では蕃国(新羅や渤海)には「天皇」と称する規定が存在しているが[93]、唐に対しては天皇が「国王」“スメラミコト”と称していた可能性が高い[92]。 推古朝説推古朝説を最初に唱えたのは、戦前の津田左右吉である。その根拠として津田は、奈良の法隆寺金堂の薬師如来坐像の光背の銘に「池辺大宮治天下天皇」(用明天皇、在位585 - 587)とある点を挙げた(「天皇考」)[94]。同銘にはほかにも「大王天皇」、「小治田大宮治天下大王天皇」(いずれも推古天皇、在位592 - 628)の文言があり、また銘文から薬師像は推古天皇と聖徳太子が「丁卯年」(607年)に完成させたとする。 しかし、福山敏男は美術的な様式から同じ金堂内の623年製造銘の釈迦三尊像より新しいと推定され、製造は後世であり、野中寺の弥勒像銘(666年)が金石文では天皇号の確実な初見だという説を唱えた[95]。さらに日本ではじめて薬師像が出現するのは天武朝からであるとし、法隆寺金堂の薬師像銘も天武朝以降のものであると推定した[96]。 推古天皇8年(600年)第1次遣隋使では「オホキミ(またはアメキミ)」号を使用し、推古天皇16年(607年)第2次遣隋使国書で「日出處天子致書日沒處天子」と日中とも「天子」として煬帝を怒らせ、それへの隋からの返書は「皇帝問倭皇」と日本書紀にあり、日中とも「皇」が入っていることを除けば、皇帝が蕃夷の首長に下す形式である。それへの日本からの返書の国書に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀にあり、隋の返書に従って相手を「皇帝」と改め、自分は「倭皇」の「皇」だけを取り入れて「天皇」と改めた。前回国書の対等書式とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる[97]。 ただし、「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある[98]。舒明天皇2年(630年)の第1次遣唐使は詳細不明だが、2年後に彼らを送ってきた唐使高表仁に「天皇」を名乗り会見が行われなかった記録が日本書紀にある。唐側は「天皇」を記さず、「王子」または「王」と礼を争ったと記す。白雉5年(654年)の遣唐使・高向玄理らから倭国の詳しい情報を得て唐も「天皇」を容認し、斉明天皇5年(659年)には高宗が遣唐使に天皇の平安を尋ねたという記録が日本書紀が引く伊吉博徳の書にある。 天武朝説考古学的には、 明日香村飛鳥池遺跡出土の天皇木簡が最も古く一緒に出土した木簡から天武朝( - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)の時期のものと判定されている[99]。
天皇の称号を諡号として各国で最初に付せられた人物は、以下の通り。
天皇の称号を存命中に自ら付した人物は、以下の通り。 称号の変遷上古倭国では首長のことを、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[注釈 19]。大王号の時には姓名を持っていて、姓を「倭」、名を「大王」と称していた、という説がある[103]。600年、隋国に倭国使が大王名を姓「アメ」、名を「タラシヒコ、オオキミ」と表明していて、天皇号の確定で氏名が無くなる前の過渡的な状態だとしている(『隋書』600年条)[104]。 古代律令制において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている[105]。養老令の儀制令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷(「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。 天皇の死没は崩御といい、在位中の天皇は 神武天皇から持統天皇までの41代の漢風諡号が奈良時代の淡海三船によって一括撰進された事が鎌倉時代の『釈日本紀』に引かれた平安時代の『日本書紀私記』に記述されている。これは三船が中央で勤務していた天平宝字6年頃のことで、元明天皇と元正天皇も含むと一般的に考えられている。この「諡号」とは、一人一人の名前であって、たとえば神武天皇といった時の前半の「神武」の部分が諡号である。後半の「天皇」という称号とは関係ない。諡号は生前の行動を賛美する意味を含んでおり、こうした諡号は仁和3年(887年)に光孝天皇に諡られたのを最後に中絶した[106]。以降の天皇には在所や山稜名からつけられた「追号」が諡られるのを原則としている[106][注釈 20]。 中世天皇の没後の称号は、康保4年(967年)に崩御した村上天皇に天皇号がおくられたのを最後に、正暦2年(991年)の円融天皇の没後以降は、追号・諡号に付属する呼称は、「天皇」ではなく「院」が用いられるようになった[106]。院はもともと譲位した太上天皇の邸宅並びに尊称を意味したが、平安時代以降、天皇が譲位する前に崩御することがまれになったため、院号が没後の称号として定着した。例外としては文治3年(1187年)に在世中に崩御した安徳天皇は天皇号のついた諡号が諡られている。 在世中に「天皇」と文書で記されるのは即位宣命の際に「天皇」と書いて「すめらみこと」と読む場合等に限られ、通常ははばかって「禁裏」、「禁中」、「主上」等と表記された[106]。 近世本来太上天皇の称号であった院号が、次第に将軍、大名、庶民にまで拡大すると、没後の天皇号としてふさわしくないと考えられるようになった。江戸時代の儒学者中井竹山は「院号は、諸侯大夫より士庶人迄も用ゆる事なれば、帝号に極尊の意かつてなし、勿体なき事なるべし」(『草茅危言』)と述べ、「元号+天皇」とおくるべきだと主張した[107]。安永8年(1779年)に没した後桃園天皇に対し、摂政九条尚実は諡号と天皇号および山陵を復活させようとしたが、この際には江戸幕府は再興を認めなかった[107]。 天保11年(1840年)に光格上皇が没すると、仁孝天皇は天皇号の再興を公家に諮問し、幕府の許可を得た。ついで諡号の選定を行い、翌天保12年(1841年)に「光格天皇」の名をおくっている。その後の幕府との交渉で、院号ではなく天皇号を贈ることと、諡号に関しては幕府に問い合わせを行い、追号の場合は決定できない際に幕府に問い合わせるという方針が定まった[108]。以降の仁孝天皇・孝明天皇も「諡号」と「天皇号」を組み合わせたものとなっている。 前近代における呼称在位中の天皇は、帝、 また、 当代の天皇は「 明治以降大日本帝国憲法(明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。 →詳細は「日本国皇帝」を参照
口語ではお上、 また、天皇は陸海軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の統帥権を有することから「大元帥(大元帥陛下)」とも称され、主に軍内部および大元帥としての天皇を報道するマスメディア等において用いられた。 現在日本国憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書や勲記、褒状などの文書においては「日本国天皇」と表記されることもある[109]。 憲法学界においては、象徴天皇と歴史上の天皇との連続性について、二つの学説が対立している。歴史的存在としての天皇を存続させたものと捉える「宣言的規定説(=連続説)」と、無から新たに「天皇」と称する存在を創造したものと捉える「創設的規定説(=断絶説)」である[110][111]。後者の見解によると、神話由来の第124代天皇だった昭和天皇が、国民由来の「天皇」の初代になったということになる[111]。 なお、今後も「○○(=時の元号)天皇」という形式の追号になると確定しているわけではない。すなわち、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の過去3代がそうだからといって、平成、令和の天皇が同様に「平成天皇」「令和天皇」になるとは限らないのである。元号法の制定議論時の大平正芳首相(当時)の国会答弁によれば、追号とはあくまで皇室の儀式として贈られるものであり[112]、法定された元号に縛られることなく天皇が自由に決めることが可能である[112]。 日本国外における呼称英語圏における呼称天皇は、英語で「emperor」、「the Emperor of Japan」と称され、在位中の天皇は「The Current Emperor」と称される。ただし、英語で公式に初めて「the Emperor of Japan」と称された人物は、江戸時代末期・幕末期当時で、孝明天皇ではなく、時の執権者の第十二代将軍徳川家慶であった[注釈 21]。1852年のミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領の親書の宛て名には、「His Imperial Majesty, the Emperor of Japan」と記されている[114]。かつて、「Mikado」(帝、御門)と一般的に称されていた時期もあった[115]。 ドイツ語圏における呼称ドイツやオーストリア等の地域においては、皇帝を意味する「Kaiser」(カイザー)と称されている。また一部地域においては、「Keyser」(ケイゼル)と読まれることもある。本項目のドイツ語版の記事名は「Tennō」であるように日本固有の存在としての天皇を強調する場合はTennōと呼ぶこともある。 中国における呼称現在の中華人民共和国政府などの公的機関では、「天皇陛下」、「日本天皇陛下」などの「陛下」の敬称付で呼ばれるのが通常である[116]。 朝鮮半島と天皇の呼称朝鮮半島の歴代王朝は長期間にわたり中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。清の冊封体制から離脱し大韓帝国となると初めて日本の天皇を「皇帝」と称した。その後の韓国併合による大日本帝国統治下では「天皇」の称号が用いられた。第二次世界大戦後、大韓民国独立後は英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず、「日本国王」(日王)「Japanese King」という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し産経新聞ソウル支局長黒田勝弘に拠れば、2006年9月の悠仁親王誕生時、韓国日報を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという[117]。 金大中は大統領在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。大韓民国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[118]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[118]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[118][119]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[118]。李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた[120]。 韓国人ジャーナリスト崔碩栄によると、韓国では80年代後半まで新聞などで天皇表記が確認でき、「日王」表記が始まったのは、韓国が民主化した1987年以降で90年代に入ると天皇の表記は姿を消したと指摘している[121]。 歴史『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、学問上確定できないとしている[122]。 天皇がいつどのように成立したかは、現在の学界では学説が多様に分かれている。ただし、天皇の前身をなす大王が遅くとも5世紀の初めには、のちの畿内の地の政権の王として存在したことは中国の史書からも認められる。古墳時代から勢力圏を拡大し、はじめは毛野・吉備・出雲・筑紫その他の各地の有力豪族と並立する一地方政権であったのが、やがて7世紀末から8世紀初頭にかけ律令体制を整えるまでのある時期に、他の諸政権との連合体から広い範囲にわたる統一政権に成長した、といったことは推認されている。この統一の時期・範囲は研究者によって意見がわかれる。 神代と天皇の発祥皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。最初に葦原中国に降臨したのは高皇産霊尊と天照大御神の孫である天孫瓊瓊杵尊である。 紀元前663年、長髄彦を神武天皇が打ち破り(神武東征)、神武天皇が統治することになったとされる。太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦までの日本では、神武天皇以降の史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。一方、戦後の1950年代から1960年代にはに戦前の皇国史観への反動で津田左右吉の学説やマルクス主義史学が流行し、欠史八代の存在の否定や騎馬民族征服説などの王朝交替論等の記紀の内容を否定する学説が盛んに唱えられ、古代天皇は革命で打倒すべき古代専制君主・専制国家である天皇制の原型とされた[123]。そのような風潮の中で関晃によって唱えられた畿内政権論は古代天皇は専制君主というマルクス主義史学の前提を否定するものとして当時の学会では猛攻撃を受けたが、古代日本国家における天皇の権力はそれほど強大ではなく畿内豪族が伝統的に大きな力を持ち両者の合作により国家権力の発揚が目指されていたことが明らかにされた[注釈 22]。今日ではマルクス主義史観的な古代天皇専制君主論、専制国家論は否定されている[125]。また欠史八代の天皇についても、宮都・天皇陵の記述や婚姻氏族の存在などを根拠とした欠史八代実在説もあって、未だ決着を見ていない(すべてが新しく作られたわけではなく、ある段階で始祖神武天皇から崇神天皇にいたる地位継承が名前のみ伝えられていたものを後世、皇統譜に加えたとの見解もある[126])。歴史学的に証明できる天皇、皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺りまでともされるが、記紀から推定される河内湖の存在などから、神武天皇の実在を主張する説もある。 近年の紀年研究は神武天皇即位を二世紀後半とする見解が多い[127]。「日本書紀」の神武天皇が難波に着いた時の記述は大阪湾が潟になっている古代の地形の変化を描写しておりそれは西暦100年までの頃とする見解や紀元前後の開聞岳の噴火が神武東征のきっかけとなったとの見解もある[128]。 3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、神話に描かれる素戔鳴尊が弥生時代に朝鮮半島から北九州に渡来した皇室の始祖で、この6世孫の神武天皇が東征して大和を開いたとする説、弥生時代の北九州または近畿地方にあった邪馬台国の卑弥呼を天照大御神と見て、その系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。 一般に実在が確かであるとされている最初の天皇は「はつくにしらすすめらみこと」と「記紀」に記されている第10代天皇の崇神天皇であるとするのが定説である[129](稲荷山古墳出土鉄剣銘に471年の時点で鉄剣の主の系譜の初代オホヒコの名が記されている。オホヒコが初代天皇とされる崇神天皇の人物であることは単なる偶然ですまされない[130])。 ヤマト王権の首長であった大王が天皇の起源であることは間違いなく、ヤマトは大和国の中の地名ヤマトに起源がありおそらく山(三輪山)のト(ふもと)の意味であろうとも言われる[131]。また後世、日本全体のことを表す「秋津洲(あきつしま)」「磯城島(しきしま)」「倭」などは元々、大和平原にあった村の名前であったという指摘もある[132]。 寺沢薫は日本書紀には崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮とあり、古事記ではミマキイリヒコイニエノミコト(崇神天皇)の師木水垣宮、イクメイリヒコイサチノミコト(垂仁天皇)の師木玉垣宮、オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト(景行天皇)の纒向日代宮があったとあり、纒向は師木(磯城)に包括されるから崇神天皇の磯城瑞籬宮は纒向水垣宮であったとも考えられる。実在すると言われる初期三代の都宮が纒向に造営されたという伝承をもつこと自体に重大な示唆が含まれていると指摘し[133]近年注目の集まる纏向遺跡と初期天皇(ヤマト王権大王)の関係性について言及している。 古代の天皇古墳時代ヤマト王権の首長は前方後円墳を築いた勢力の盟主的地位から発生したとも言われており、前方後円墳の形成とヤマト王権の連続性は一定程度評価され得る [134]。 5~6世紀の巨大古墳は王墓に間違いなく、帝紀に記される王墓の所在地もそれなりの根拠を有しており、古墳研究の第一人者の白石太一郎によれば崇神天皇以降の王墓記載は信憑性が高いという[135]。 倭の五王→詳細は「倭の五王」を参照
中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代の劉宋王朝に朝貢した「倭」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等に比定する説や仁徳天皇・履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。これらの五人の倭国王については珍と済など続柄関係が不明な部分もあるが、中国側は同じ「倭」姓の一族と扱っていることから倭の五王が父系の同一氏族集団であったことは明らかとされている[136]。 これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて(百済以外の)朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王(おおきみ)」が用いられていたと考えられている。 『宋書』には、次のような倭王・武の上表文が引用されている。
倭王武の上表文にある「渡りて海の北」を平らげたとあるのは朝鮮半島のことである。 倭の五王は先進文化と鉄資源を求めて少なくとも朝鮮半島南部に進出しており[138]、この事実は四世紀末の朝鮮半島の事情を記した広開土王碑文によって確認できる[139]。倭の五王は主として高句麗に対抗するために半島の支配権の中国による公認を求めていたのだが、高句麗王や百済王が大将軍号を得たのに対し倭の五王は一ランク下の将軍号(安東将軍)と倭国王しか認められず、最後の武がようやく「安東大将軍」を得ることができた[140]。武王は478年を最後に中国への遣使をやめて中国皇帝の権威に頼らない、稲荷山古墳鉄剣銘や江田船山古墳鉄剣銘に見られるような日本独自の「天下」としての秩序を形成していったのである[141]。 雄略天皇が崩御すると皇位継承者の不足が問題となった。雄略天皇がライバルとなる皇位継承者の多数を殺害してしまっていたからである[142]。清寧天皇没後にはかつて雄略が殺害した市辺押磐皇子の遺児が播磨で発見され顕宗・仁賢として即位したが、武烈天皇に至りこの皇統は絶えてしまった[143]。 大連・大伴金村らのヤマト王権の群臣らは越前三国にいた応神天皇五世孫の男大迹(おおど)王を迎えて継体天皇として即位した[144]。この継体天皇の即位に対し、戦後になって継体天皇は前王家とは血縁関係はなく、王朝を簒奪したものだとする王朝交替説が唱えられた[145]。 継体天皇の中間系譜は鎌倉時代の『釈日本紀』に引用される『上宮記』に残されている。この『上宮記』逸文を検討した黛弘道は用字などからこの系譜が『日本書紀』より古いものと判断している[146]。継体天皇の出身である若野毛二俣王家は安康・雄略朝の有力な外戚であり、かつ有力な皇族として存在していたことから、継体が越前または近江から来て王権を簒奪した豪族であったという説は誤りであろうとされている[147]。 ヤマト王権の連続性和田萃はヤマト王権~律令国家の本拠地は一貫してヤマトにあったとし、「倭屯田(やまとのみた)」を取り上げて論じている[131]。大宝田令にある大倭国の三十町の屯田は大化前代の倭屯田の系譜を引くとされ、天平年間の大倭国正税帳などから十市郡と城下郡(および城上郡)に存在したことがわかり、『古事記』には景行天皇の代に定めたとされ、現大王の地位に付属する王位の象徴であったという。これが律令国家天皇制につながるためヤマト王権から律令国家へと王権が連綿とつながっていることがわかり、また「ヤマト」が磯城郡・十市郡を中心とする三輪山のふもとの地を指していたこともわかるという[131]。 また石上神宮のホクラはヤマト王権が地方豪族から献上させた剣や神宝を保管する武器庫であったが、系譜としては三世紀の卑弥呼の刀と鏡につながることが、四世紀の七支刀が現在にまで伝わることから推測できるとし、世襲や王権が確立していなかったとしてもヤマト王権、古代天皇には連続性が読み取れるとされる[148]。 飛鳥時代(蘇我氏の台頭)蘇我稲目は宣化天皇の時に大臣として突如登場した[149]。稲目は欽明天皇の時にも大臣に再任され、自身の二人の娘を欽明天皇の妃に入れて、蘇我氏は以後大きな権力をもった[150]。 一方でヤマト王権には6世紀前半から後半にかけて成立した大和及び周辺の在地豪族から選ばれた大夫(まえつきみ)という群臣による合議があり、皇位継承の決定権を有していた[151]。 蘇我稲目の子、蘇我馬子は仏教の受容を巡り対立していた物部守屋を滅ぼすと政権を掌握し[152]、自身に批判的だった崇峻天皇さえも暗殺してしまう[153]。崇峻天皇暗殺の後に群臣推挙を経て蘇我氏系で女帝の推古天皇が即位した[154]。 推古朝には蘇我馬子と聖徳太子により冠位十二階、憲法十七条などの制度が整備された[155]。天皇号の成立もこの頃のこととされている[156]。 この時期、隋の煬帝に対して「天子」と自称した[157]と『隋書』に見える。 舒明天皇が崩御すると皇后の宝皇女が中継ぎの女帝として皇極天皇として即位した[158]。皇極は蘇我蝦夷を大臣としたが、その子蘇我入鹿が実質上の権力を握り専横が目立つようになった[159]。皇極二年には山背大兄王が蘇我入鹿が差し向けた勢力に襲われ自刃した[160]。 このような事態に中大兄皇子と中臣鎌足らが共謀して宮廷クーデターを起こし、蘇我氏本宗家を滅ぼした(乙巳の変)[161]。 中大兄皇子は孝徳朝、斉明朝を通じ政権の中枢にあり新しい国家体制の建設を進めた[162]。 大化の改新から摂関政治まで百済戦役の中、斉明天皇が筑紫朝倉宮で没すると中大兄皇子は即位しないまま全権を握ったが、白村江において唐・新羅連合軍に壊滅的な大敗を喫した[163]。大唐帝国の侵攻に危機感を募らせた天智天皇は朝鮮式山城を築くとともに中央集権化と近江令の編纂を開始した[163]。この近江令が後世の大宝令に受け継がれ、後世の国家整備の始原として天智天皇は聖君と高い評価を受け、皇位継承の正当性を裏付ける「不改常典」は天智天皇に由来するとされた[164]。 天智天皇が崩御すると天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の子で近江朝を継承した大友皇子の間で内乱(壬申の乱)が発生し、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位した[165]。天武天皇は近江朝の国家体制を受け継ぎ、浄御原令などを編纂し氏族の「氏上」制や八色の姓を定め[166]、後世の『記紀』に繋がる『帝紀』と『上古諸事』を記させ[167]、皇太子には草壁皇子を立てた[168]。 天武天皇が崩御すると草壁皇子も即位することなく逝去した。混乱を避けるために天武の皇后が持統天皇として即位した[169]。 天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに四半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国(唐)の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。 律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。 元明天皇の時代には平城京に遷都した(以降、平安遷都まで奈良時代)。 奈良時代の皇位継承は、「天武天皇‐草壁皇子‐文武天皇‐首皇子(聖武天皇)」という直系皇位継承による既定路線がありそれを補佐するために中継ぎの女帝(女性天皇)が即位した(持統、元明、元正)[170]。聖武天皇の娘である阿倍野内親王が孝謙天皇として即位し、のち重祚して称徳天皇となると仏教に傾倒し僧道鏡を重用して宇佐八幡神託事件を起こした[171]。『続日本紀』は称徳天皇について「道鏡に乗ぜられ、財政難をまねき刑罰も厳しくなりみだりに人を殺した」と酷評している[172]。 称徳天皇が没すると藤原永手らは天智天皇の孫であり、聖武天皇の娘である井上内親王を妻にしていた皇親(皇族)長老の白壁王を即位させた(光仁天皇)[173]。これを受けて井上内親王は一旦皇后についたが後、子の他戸親王とともに幽閉されてその後おそらく暗殺された[174]。 新しい皇太子には白壁王と百済系の和新笠の間に生まれた山部皇子(のち桓武天皇)が立てられたことにより、女帝を介して<天武‐草壁‐文武‐聖武>と伝えられた天武系の皇統はここに断絶し天智系の皇統に移った[175]。 平安時代と摂関政治しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政・関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど幼齢な天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。 摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。 もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)[注釈 23]。 摂関政治についてはかつては藤原氏の摂政・関白が天皇の意向を無視して政治を私物化したものというような否定的な見解が大勢であった[176]が、1961年に出された土田直鎮「摂関政治に関する二、三の疑問」から見直しが始まり、近年では天皇と摂関を対立的に捉えるのではなく総体として捉える視点が必要となってきている[177]。 また文徳天皇以降は天皇は京外に出なくなり、摂関政治が始まるころになると天皇は内裏からもほとんど出なくなり、平安宮内の八省院や中和院にいく時でさえ「行幸」と呼ばれるようになり、天皇は官僚群に囲まれ、人前には出ない存在となっていった[178]。 文徳天皇の孫の陽成天皇は素行に問題があったとされ廃位となり、変わって大叔父にあたる皇族最長老だった光孝天皇が公卿らの合議と群臣推戴というプロセスを経て即位した。中世には光孝天皇以前は上古とされ、先例は光孝天皇以降を調べるものとされた[179]。 光孝天皇が重篤となると臣籍降下していた源定省が皇籍復帰し親王となり宇多天皇として即位した。関白・藤原基経は帝からの詔にある「阿衡」を不服とし、天皇の勅答を撤回させて己の力を誇示した(阿衡事件)[180]が、基経が死去すると宇多天皇は意欲的に国政に関与し、改革を行い後に「寛平の治」と呼ばれた[181]。 宇多天皇は藤原基経の嫡男・藤原時平と学者出身の菅原道真を重用し、『寛平の御遺誡』にも両者を重用するよう示して醍醐天皇に譲位した[182]。醍醐天皇の下で時平は左大臣、道真は右大臣にまで昇進したが、道真が自分の娘を醍醐天皇の異母弟斉世親王の妃としたことなどから疑われて道真は太宰権師(だざいのごんのそち)に左遷され二年後にその地で没した[183]。道真はその後、怨霊(のち北野天満宮祭神)になったと信じられ皇太子保明親王、慶頼王が相次いで薨去し、清涼殿に落雷が落ちて大納言藤原清貫が胸を裂かれ死亡し、その他多くの死者やけが人が出る(清涼殿落雷事件)と、醍醐天皇は直後から病に伏し朱雀天皇に譲位した七日後に崩御した[184]。 醍醐天皇や村上天皇は後の世の故実・先例の手本とされ、また摂政・関白を置かなかったことから後に「延喜・天暦の治」と呼ばれるようになった[185]。 院政期平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。 後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息の堀河天皇・孫の鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父の後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。 この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。 治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、皇室という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判を投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。 この間、清和天皇の子孫である清和源氏の源頼朝が以仁王の令旨を奉じ平清盛を倒し後白河法皇を救い出すために挙兵し、鎌倉幕府を樹立した[186]。 後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。 時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。 院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。 鎌倉時代中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家と武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。 鎌倉に幕府を立てた源頼朝は後白河上皇の意向を尊重しながらも交渉をしながら政権運営を進めていた[187]。鎌倉幕府三代源実朝は後鳥羽上皇との協調関係を確立し安定した朝廷・幕府関係を築き[188]、実朝の次の将軍後継者には後鳥羽上皇の皇子を宮将軍として迎える話が進んでいた[189]。しかし、1219年の正月に将軍実朝が鶴岡八幡宮にて暗殺されると朝廷・幕府関係に暗雲が立ち込めるようになり[190]、後鳥羽上皇と北条義時の対立から承久の乱が勃発した[191]。 この乱は朝廷の全てが関わったわけではなく後鳥羽上皇の少数の側近貴族達が関わっただけで[192]、当時の常識から鎌倉方が本気で攻めてくるとは思っていなかった後鳥羽上皇方は無為無策のまま敗北してしまった[193]。 承久の乱(承久3年〈1221年〉)以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統と持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。 承久の乱で権威を失った皇室は、早い段階で権威回復を遂げたとされる[194]。後嵯峨上皇が院評定制を定めて以降、徳政評定と雑訴沙汰の分離に代表される亀山上皇の弘安徳政、記録所の充実に代表される伏見天皇の永仁徳政、訴訟制度の効率化を進めた後宇多院政、暦応雑訴法制定や「政道興行」に代表される光厳上皇の貞和徳政など、鎌倉時代後期から南北朝時代初期(北朝)の朝廷では徳政と呼ばれる政治・訴訟制度改革が盛んになり、鎌倉期や南北朝期の朝廷(北朝)は種々の制約を受けながらも、依然として国政機関としての実体を保つことができた[195]。
大覚寺統傍流の後醍醐天皇は、幕府から退位を強要されると笠置山に籠り抵抗するが幕府に捕らえられ隠岐に流された。しかし、この間、後醍醐天皇の意向を受けた護良親王、楠木正成らの挙兵により反幕府勢力が拡大すると後醍醐天皇は隠岐から脱出し伯耆国船上山に籠って全国の兵に倒幕を呼び掛けた[196]。後醍醐天皇の呼びかけに応じた足利尊氏が六波羅を陥し、鎌倉も新田義貞に攻められて得宗北条高時は自害して鎌倉幕府は滅亡した[196]。後醍醐天皇は新しく中央集権的な天皇親政(建武の新政)を試みたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、建武の新政(建武の中興)は足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。 南北朝時代・室町時代建武の新政の崩壊の後、太上天皇となっていた光厳上皇は、弟の光明天皇を践祚させ、治天の君として院政を始めた。また、足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府が開かれた。しかし、密かに京都を出奔した後醍醐上皇は皇位の回復を宣言し、南北両朝が並立することとなった。 南北朝時代とはいえ、京都を抑え、武家(室町幕府)を味方に付ける北朝が終始優勢をほこった。北朝では、幕府の実質的頂点であった足利直義の協力を得ながら、光厳上皇による徳政が進められ、元弘の乱以降の混乱からの政治的・文化的復興が図られた。しかし、観応の擾乱に起因する正平の一統によって、一時的に北朝が消滅。さらに、光厳上皇をはじめとする北朝の皇族が南朝によって拉致されてしまった。そこで、幕府と旧北朝の貴族らは、上皇らの救出を諦め、継体天皇の先例をもとに[注釈 24]、光厳上皇第3皇子である後光厳天皇を践祚させて北朝を復活させた。 幽閉中の光厳上皇は、後光厳天皇践祚に反発して出家し、帰京後に崇光上皇を持明院統正嫡に定めて[注釈 25]、長講堂領などの持明院統伝来の財産の大半を崇光上皇に譲渡した。この崇光上皇の直系子孫が、旧宮家の宗家である伏見宮家であるが、後光厳天皇系統と崇光天皇系統(伏見宮家)に北朝天皇家(持明院統)が分裂し、その後後小松天皇が伏見宮家から持明院統伝来の財産を没収するなど、北朝内部の対立が激化していく。 正平の一統後の朝廷(北朝)は、著しい権威失墜を招き、足利義満を頂点とする公武統一政権が誕生した。そして、明徳3年(1392年)、足利義満の独断に近い状態であったが、北朝が南朝を吸収することで南北朝時代は終焉を迎えた。 なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の子孫であり、明治時代まで北朝正統であったものの、江戸時代以降、尊皇攘夷思想を背景として南朝正統の考えが広まり、明治44年(1911年)以降、世論の煽りを受けて出された「明治天皇の勅裁」を根拠に、南朝が正統となった。 また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったとする説もあるが、今日の研究では概ね否定されている[197]。義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞している。 さらに足利義満は明との交渉に際し「日本国王」を名乗ったが、これは先に南朝の征西大将軍懐良親王が明に説得されて「日本国王」を名乗っていたものを踏襲したものであった[198]。 称光天皇の崩御により、伏見宮家出身の後花園天皇が、後小松上皇の猶子として即位したことで、後光厳天皇系統と崇光天皇系統の対立が収束。後花園天皇は良好な公武関係を構築し、積極的に政務を展開。正平一統後に失墜した権威を回復させた。 将軍足利義教は鎌倉公方の足利持氏と関東管領上杉憲実との対立に端を発した永享の乱が起きると後花園天皇に「治罰綸旨」の発給と「錦御旗」の下賜を願い出て乱の平定に当たったが、天皇権威の復活を恐れた義教はこの事実を京都ではひた隠しにしたという[199]。 応仁の乱が発生すると、朝廷は再び財政の窮乏に悩まされることとなった。応仁の乱で民が苦しむ中、奢侈に耽る将軍足利義政に対し後花園天皇は「残民争ひて採る首陽の蕨 処々炉を閉ぢ竹扉を鎖す 詩興の吟は酣なり 春二月満城の紅緑誰がために肥ゆる」という詩を贈って諫めたという。天皇には「よろず民うれへなかれと朝ごとにいのるこころを神やうくらむ」という御製も残されている[200]。 戦国時代末期には京での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名や織田政権・豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に庇護したことによってその後も制度として継続する。 江戸時代慶長20年(1615年)、江戸幕府将軍徳川秀忠と大御所徳川家康、そして前関白二条昭実によって禁中並公家諸法度が制定された。この第一条では天皇の務めの第一は『貞観政要』、『群書治要』、『禁秘抄』の和漢の帝王学と我が国の固有文化である和歌を学び修めることが第一であると規定されている[12]。禁中並公家諸法度は江戸時代を通じて一度も改正されず、徳富蘇峰が「治国平天下の学問を為さず、ただ花鳥風月の学問を為し給うべしとの意」と評したように、かつては天皇を政治から遠ざけるものだという解釈で知られていた[201]。しかし1980年代以降の研究では、このような見方には再検討が加えられている。第一条はかつて順徳天皇が著し、歴代の天皇が家訓として用いてきた『禁秘抄』をほとんど抜粋したものであり、天皇や公家にとっては目新しいものではなかった[202]。 政治の実権こそはなかったものの、江戸時代の歴代天皇は即位時の天曹地府祭で「大日本国大王」と署名したように日本の国王・帝王であるという意識を持っていた[203]。また廃絶した多くの朝儀の再興、特に神事(宮中祭祀)の再興を悲願とし、天下泰平、海内静謐とともに朝廷再興を伊勢神宮、内侍所に天皇自らが毎朝祈っていた(毎朝御拝)[12]。また改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたことを始め、将軍や大名の官位も同様に全て天皇から任命されるものであった。これは幕府側にとっても同様であり、徳川家光の命で寛永16年から17年にかけて完成した「東照大権現縁起」では将軍は「天下の政を佐け」「君を守り国を治める」として、天皇を守り補佐する存在であると位置づけている[204]。江戸時代後期においても老中松平定信・故実家伊勢貞丈・国学者本居宣長・儒学者中井竹山・蘭学者杉田玄白らは、いずれも征夷大将軍の権力は、本来日本の主である天皇から委任されたものであるとする大政委任論の考え方を記しており、この考え方は広く認められていた[205]。一方で江戸時代中期に幕政に強い影響をあたえた新井白石や荻生徂徠は異なる考え方を持っていた。武家が天下を握っているのは朝廷の政治より優れているからであり、革命もしくは革命に近い形で日本の統治権は幕府にうつっており、その根拠は天皇ではなく徳川家康の徳に由来するものであるとしている[206]。しかし白石や徂徠にしても天皇が将軍の上位者であり主君であることは認識しており[207]、大名が朝廷から官位を受ける朝臣の立場にあることは問題であると考えていた。白石と徂徠は幕府独自の官位や勲等制度を設けて大名らを将軍の家臣に再構成するべきであるとしたが、実行には移されなかった[208]。 幕府は徳川将軍家の権威強化と幕府の祖徳川家康の神格化に天皇の権威を利用した。家康は「東照大権現」の神号を受け、霊廟である東照社には宸筆による勅額を授けてもらい、東照宮へ格上げした。また伊勢例幣使の復興と引き換えに天皇から奉幣を行う日光例幣使を定めた[209]。 一方で幕府は天皇の領地である禁裏御料をはじめとして、資金的な援助を行ったため、幕府の援助無しでは朝廷は成り立たなかった[210]。禁裏御料は当初1万石、元和9年(1623年)と、宝永2年(1705年)に1万石ずつ加増され、最終的に3万石となった[211]。朝廷内を関白と議奏・武家伝奏の両役によって管理する体制を作り、その人事権を握ることで朝廷への統制権を握った[212]。さらに京都所司代は御所近くに禁裏付武家を配置し、御所内の役人の監督にあたった[213]。禁裏付武家は従五位下クラスの旗本であったが、従一位か正二位クラスである武家伝奏を呼びつけることができるなど大変強い権限を持っていた[214]。 後陽成天皇と後水尾天皇は幕府としばしば対立した[215]。幕府は後水尾天皇に秀忠の娘和子を入内させたものの、この婚儀を巡っても天皇と幕府の間で問題が発生している[216]。一時は融和が図られたものの、寛永6年(1629年)に発生した紫衣事件は、朝廷の保持していた寺社への統制権を幕府が剥奪するものであった。この対応に激怒した後水尾天皇は幕府や朝廷の大部分にも無断で女一宮に譲位し、奈良時代以来の女性天皇明正天皇が即位した[217]。以降後水尾は上皇・法皇として4代に渡って院政を行っていくこととなる[218]。一方で寛永14年(1637年)に明正天皇が成人するにあたって、摂政にかえて関白を置き、神事や節会の執行を天皇に任せようとした[218]。ところが京都所司代板倉重宗の猛反発により、関白設置の話は流れ、明正天皇は成人後も神事や節会の執行を行うことはなかった[218]。このため明正天皇は在位中に四方拝や小朝拝を行うことはなかった。宝暦12年(1762年)には江戸時代二人目の女性天皇後桜町天皇が即位しているが、明正天皇の例を先例として関白でなく摂政が置かれた[219]。また同様に四方拝の場を設けるだけで出御することなく、新嘗祭にも出御しなかった[220]。江戸時代の女性天皇は男性の皇位継承者が成長するまでの「つなぎ」役であり、生涯独身であり、菩提寺である泉涌寺にも肖像画が収められないと言う扱いであった[221]。また月経の際は「血穢」であるため、神事である大嘗会や新嘗祭などに参加することはできなかった[222]。藤田覚は江戸時代の女性天皇を、政務も行えず、神事も十分に行えない「半天皇」であったと評している[223]。 明正天皇は寛永20年(1643年)に弟の後光明天皇に譲位したが、承応3年(1654年)に急死した。後光明天皇は弟の高貴宮を猶子としていたが幼少であったため、高松宮(のち花町宮、のち有栖川宮)を継いでいた弟の後西天皇が即位した。在位中には京都大火、京都大地震などの天変地異が相次ぎ、寛文3年(1663年)に後西天皇は己の不徳とし高貴宮、後の霊元天皇へ譲位した[224](天人相関説)。 即位した霊元天皇は朝儀復興に意欲的であったが、儀式の復興には幕府の援助が不可欠であり、多額の費用を拠出することになる幕府の承諾は困難であった。このため幕府との関係を重視する近衛基熙との関係が悪化した。天和3年(1683年)には、霊元天皇の強い要請を受けた幕府が五宮朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼に同意した。これは貞和4年(1348年)の直仁親王立太子以来335年ぶりの出来事であり、皇太子の諸儀式に別途支出を行わないことを条件に承認したものであった[225]。貞享4年(1687年)には東山天皇の即位に伴い291年ぶりとなる大嘗祭の開催を強行した[226]。再興にあたっては、費用の拠出を求めないという条件で幕府の承認を得たため、儀礼の多くが省略化され、朝廷内でも批難された[226]。このため東山天皇は近衛基熙や幕府と協調して霊元の院政を抑制したが[227]、宝永6年12月17日(1710年)に病死したため、次の中御門天皇の代には霊元が再び院政を執ることとなった。正徳2年(1712年)には将軍徳川家宣が病死し、幼少の子鍋松が将軍となった。幕府は幼君の権威を強化するため、霊元の協力を乞うようになった。霊元は鍋松に「家継」の名を授け、皇女八十宮吉子内親王を降嫁させることを決定している[228]。またこの時期には新井白石の提案により、中御門天皇の弟直仁親王が新たな世襲宮家閑院宮家を創設している。 中御門天皇の曾孫にあたる後桃園天皇が若くして没したため、閑院宮家から光格天皇が皇位を継いだ。光格天皇も朝儀復興に熱心であり、京都御所の復古的再建や、大嘗祭・新嘗祭・伊勢神宮神嘗祭・石清水八幡宮臨時祭・賀茂社臨時祭の復興を実現した[229]。また寛政3年(1791年)には光格天皇は父親の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした。しかし老中松平定信は、天皇の実父に対する尊号は先例がない[注釈 26]として反対し、これを撤回させた(尊号一件)。 しかしこの事件後、巷間では朝廷側が定信を論破したという実録物が多数流布し、世間においても朝廷への支持が高まっていることを示すものとなった[230]。 江戸時代の禁裏御所は比較的に民衆に開かれており、臨時や恒例行事の時は御所に入って行事を見学できた[231]。節分には内侍所にまで参詣でき、多くの人が賽銭を払って追儺の大豆を賜ることができ多くの参詣人で賑わったという[232]。また明正天皇の即位式にも多くの庶民が拝見し、桜町天皇の即位式からは「切手札」という入場券が発行された[232]。地方から上京した人々がつてを頼って御所を拝観することもしばしばであり、江戸時代の天皇や御所が民衆に比較的開かれた存在であったことが明らかになっている[233]。 天明の大飢饉では幕府の無策に失望した近畿一円から集まった七万人もの庶民が御所を周回して天皇に救いの祈りを捧げるという御所千度参りが発生し光格天皇の求めにより庶民救済の救い米が京都町奉行から出されるという事件も起きた[234][235]。 幕末になり鎖国体制を敷いていた我が国に異国船が頻繁に襲来するようになり対外的危機が深刻化すると時の孝明天皇はこの事態を非常に憂慮し神仏に対し国と民の平和を守るよう祈願祈祷を行い、幕府に対しても「天下泰平」「庶民安堵」となるよう対策と対応を迫るようになった[236]。 この異国に対する幕府の対応、特にアメリカとの条約に対する問題が孝明天皇の逆鱗に触れたことなどが全国の庶民にまで広がりやがて倒幕、明治維新への動きへと繋がっていくのである[237]。 明治時代幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。 このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩・長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見で官軍と衝突し、内戦となった。この間、慶応二年に孝明天皇は急死し慶応三年に明治天皇が16歳の若さで即位した。 その過程で輪王寺宮公現法親王を東武天皇とする[241]奥羽越列藩同盟や北海道函館では、榎本武揚らによって蝦夷共和国が宣言されたが、官軍に程なく平定された。 戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、伊藤博文らの政府は内閣制度を発足させ大日本帝国憲法を発布し、東洋最初の議会(帝国議会)を開設した。 これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。一方で「公平無私の上御一人」とその徳を称える風潮も起った[注釈 27]。 憲法制定にあたり伊藤博文はヨーロッパに渡り、ウィーン大学のシュタインに憲法を学んだ。シュタインの憲法説は当時ヨーロッパ最先端の君主機関説であり、明治天皇も侍従の藤波言忠をシュタインの下に派遣して彼の憲法説を学ばせ、藤波から皇后美子とともに全33回の講義を受けシュタイン流の憲法学と君主機関説を学んだ。この後、枢密院にて皇室典範と憲法の審議が開始されると明治天皇はその審議のほとんど全てに出席して修正条項は朱書して提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長に説明させた。以上のように大日本帝国憲法は憲法により天皇の権限を限定する当時最先端の君主機関説を反映したものであり、明治天皇自身もそのように理解していた。また明治天皇自身がこの憲法は自らが作った欽定憲法であると自負しており、板垣退助がドイツ憲法の真似だと批判したと聞くと激怒したという[243]。 朝鮮半島では1884年に甲申事変が起き、清国との戦争の危機が高まったが、2月7日の御前会議の席上で明治天皇が「平和に結了」すべきであるという異例の発言をしたため、開戦は避けられ伊藤博文を派遣して李鴻章との間で天津条約を結んだ[244]。 1891年には日本旅行に来た当時の世界帝国のロシアの皇太子ニコライを警備中の巡査が斬りつけるという前代未聞の大津事件が発生すると明治天皇は即座に北白川宮能久親王を京都に向かわせ、自らも翌日午前中に京都に出発しニコライのお見舞いに向かった。帰国するロシア側がロシア軍艦内にて午餐の招待を受け、側近らは天皇が拉致されることを心配したが明治天皇は即座に応じてニコライらとの午餐をなごやかに楽しみロシアとの良好な関係の維持に努めたことで事件は平穏に解決することができた[245]。 憲法に基づき衆議院選挙と帝国議会が開催されるようになると政府と議会はたびたび激しい対立をするようになり、明治天皇は第四議会では「和協の詔勅」を出して両者を調停して憲政を守った[246]。 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると清国との戦争の危機が高まり日本政府は開戦を決意したが明治天皇は日清親善、東洋平和の思いから開戦に消極的であった。日清戦争の開戦が閣議決定されると土方久元宮内大臣が清国への宣戦布告を伊勢神宮に奉告することを申し上げられると明治天皇は「今回の戦争は自分は初めから望んでいなかった、閣僚らが戦争はやむを得ないと上奏したので許可しただけなので、神宮や孝明天皇に奉告するのは心苦しい」と述べられてたが土方が諫めると「おまえの顔など見たくない」と激怒したという[247]。 1901年(明治34年)4月29日、皇太子嘉仁親王に裕仁親王(のちの昭和天皇)が誕生。 日清戦争後、三国干渉を経て日本とロシアは朝鮮半島と満州の権益を巡って対立していたが、日英同盟を経てついに1904年2月4日の御前会議にて日露戦争が決定となった。内廷に戻った後、天皇は今回の戦争は自分の望む所でない、祖宗と臣民に対しお詫びのしようもない、と言って泣いたと『明治天皇紀』に記されている[248]。 日露戦争の勝利で日本の日本の地位は向上し、イギリスは以前は断っていたガーター勲章を明治天皇に捧呈した[249]。当時、そのほとんどが列強の植民地にされていたアジアでも日本の勝利は歓迎され、ネルーは「日本の勝利はアジアにとって大きな救いであった」と記している[250]。また当時、ロシア帝国に苦しめられていた東ヨーロッパでも日本の勝利は歓迎され、東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破ったことに感激したフィンランドでは「東郷ビール」が作られたという[251]。 1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。当初、大審院は24名の死刑判決を出したが、これを聞いた明治天皇が特赦減刑を求めたため12名が刑一等を減ぜられた[252]。 明治天皇は伝統的な祭祀や学問を中心とする江戸時代の朝廷に生まれたが明治維新により欧米列強と伍するため近代国家の元首としての立場を求められ、明治日本の国民の求心力となり日本の近代化に大きな役割を果たした[253][254]。絶妙の政治関与[255]により政府と政党の対立、陸軍と海軍の対立、陸軍内部の対立を調停し[256]大日本帝国の統一した国策を決定した[257]。明治天皇自身は反対であった[258][259]ものの日清戦争、日露戦争の二度の世界的な帝国との対外戦争に勝利し、帝国主義の厳しい時代に日本の独立を維持し、近代国家の中心として主要な役割を果たしたため歴代天皇の中でも特別な一人という意味を込めて「明治大帝」と呼ばれ内外から高い評価を受けた[260][261]。 第二次世界大戦前(大正時代~昭和時代前半)その後、2度にわたる護憲運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制を自由主義的に解釈する吉野作造の民本主義なども現れた。しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。 大正15年に大正天皇が亡くなると昭和天皇が25歳で即位した[262]。 1933年(昭和8年)12月23日、昭和天皇第五子で初の皇男子である明仁親王(のちの第125代天皇)が誕生。 1928年(昭和3年)に関東軍が張作霖を爆殺するという謀略を起こすとまだ若かった昭和天皇は当事者を処罰しようとしない陸軍出身の田中義一首相を問責して辞職に追い込んでしまった。この若き昭和天皇の正義感は後々まで軍部との遺恨を残すところとなった[263]。 1931年(昭和6年)には陸軍の関東軍の参謀石原莞爾中佐らが独断で満州事変を起こした。国際連盟では否決されたものの日本の撤兵決議案が出され、国際社会からの孤立を深めつつあった。昭和天皇はノイローゼ気味となり、事態の収拾を犬養毅を首相に任命して図ろうとしたが、軍部はさらに謀略で上海事変を起こして満州から国際社会の目をそらそうとした。昭和天皇は上海に派遣される白川義則大将にこれ以上事変を拡大しないよう命じ、白川大将はその通り事変を不拡大のまま停戦させた。ところが関東軍はその間に満州主要部を占領し内閣や天皇の了解も得ずに満州国建国を宣言してしまった。犬養首相は満州国を承認せずに事態の収拾を模索していたが1932年(昭和7年)の5月15日に海軍青年将校に襲撃されピストルで撃たれて亡くなってしまった[264](五・一五事件)。 満州から撤退するよう国際連盟から勧告されると昭和天皇自身は消極的であったものの日本は国際連盟を脱退した[265]。 1934年(昭和9年)、天皇と元老西園寺公望、重臣らと相談し軍部の暴走を抑えるため海軍軍人で穏健派の岡田啓介を首相に任命した。ところが天皇機関説事件を経て、1936年(昭和11年)の2月26日に陸軍青年将校がクーデーターを起こし岡田首相本人は助かったものの、重臣の何人かが殺害され重傷を負わされる大事件が起きて岡田内閣は倒閣した(二・二六事件)。天皇は即座にクーデーター部隊の鎮圧をするよう陸相、侍従武官長に伝えたが、陸軍は天皇の言うことを聞かず3日間も動かなかった[266]。事件は鎮圧されたものの以降、軍部の影響は決定的に強くなっていった[267]。 1935年(昭和10年)、国会で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃する天皇機関説事件が起きた。こうした天皇機関説を排し天皇を神格化する動きに対し昭和天皇自身は「精神的にも身体的にも迷惑」であると拒否感を明らかにしており、美濃部達吉自身に対しても「ああいう学者を葬ることは頗る惜しい」と述べている[268]。 世界恐慌の後、五・一五事件、二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。帝国憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。 1937年(昭和12年)7月7日には北京郊外の盧溝橋で日中両軍が小競り合いを始め(盧溝橋事件)、これが日中戦争に拡大していくことになる。さらに8月13日には第二次上海事変が発生した。盧溝橋事件以降は天皇は趣味のゴルフやテニス、静養や生物学研究まで自粛してしまいストレスにより体調を崩した[269]。 1939年(昭和14年)には満州・蒙古国境でソ連と戦争が勃発し陸軍は大敗し停戦した(ノモンハン事件[270])。 1940年には三国同盟の成立を阻止したい天皇の意向を受けて海軍の米内光政が首相に任命されたが陸軍は陸相の畑俊六が辞任すると後任を出さないという手口で米内内閣を7月に倒閣すると[271]、9月23日には北部仏印に進駐し、次いで9月27日には日独伊三国軍事同盟が締結された[272]。11月には天皇の相談役であった最後の元老西園寺公望が91歳で老衰のため亡くなった[273]。 1941年(昭和16年)に陸海軍の要望により南部仏印への進駐が閣議決定され、7月28日に日本軍が南部仏印に進駐するとアメリカは日本資産を凍結し、対日石油輸出を全面停止した[274]。10月には木戸幸一内大臣らの意見により陸軍大臣の東条英機が首相に任命された[275]。 1941年(昭和16年)日本海軍はハワイ真珠湾を奇襲して日米戦争が開戦した。日本軍は当初快進撃を続けたが、天皇は1942年の2月10日には東条首相に早期講和を検討するよう命じている。が、1942年の6月5日にはミッドウェー海戦で大敗し以降、日本軍は敗北を重ね続ける[276]。 1943年11月カイロ会談の間、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは天皇制度を廃止するべきかどうか中華民国国民政府主席蔣介石に意見を求めたことがある。蔣介石は戦争の元凶は日本の軍閥であり、国体の問題は戦争が終わってから日本人自体が決定すべきだと答えた[277]。 同盟国であったイタリア、ドイツが相次いで敗戦すると連合国は日本に対し無条件降伏を迫るポツダム宣言を出したが、日本政府は軍部を中心とした「本土決戦」の方針を転換できないまま事態が推移していた。この時、御前会議の席上で昭和天皇が立憲君主としての立場を超えてポツダム宣言受諾、戦争終結の決断を自ら下した(御聖断)。またレコード録音のラジオ放送により自らの声で全日本国民にその事実を伝え戦争を終結させた(玉音放送)[278]。 第二次世界大戦後(終戦後の昭和時代)第二次世界大戦の終戦後、連合国(UN)の間では天皇を、枢軸国の国家元首として処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。事実、世界史上でもかつての帝政ドイツやオーストリア、ロシアなど敗戦や革命などを経て君主制が消滅する国々は存在した。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても天皇制を存続させたが、その地位は日本国憲法によって元首ではなく日本国および日本国民統合の象徴と位置付けられた[注釈 28][注釈 29]。 近衛文麿は、昭和天皇を京都の仁和寺に出家させようと考えていたとされる[279]。 昭和天皇自身は「退位の意向」を示したが、「かえって戦争責任を認めることになる」として周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂とダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。マッカーサーは駐日イギリス大使アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた[280]。 天皇退位論への反応は、天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった[281]。 1945年(昭和20年)9月27日、天皇とマッカーサーの初の会見が行われた。この時、天皇は非公式に自分の戦争責任を認め、「自分の一身はどうなっても構わないから、国民を助けて欲しい」と発言し、マッカーサーを感動させたという話が伝えられている。この話は公式の記録に残っていないためこの話を否定する見解もあったが、現在ではこの話は事実であり、当時は天皇の戦犯指定の可能性があったため記録に残さなかったとする見解が有力である[282][283][284]。 この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げており[285][286]、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった[285][287][288]。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけであり天皇の神話そのものは否定していない[285]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された[285]。1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった[285]。 昭和20年12月8日、空襲で荒れ果てた皇居の草刈り奉仕を宮崎県の青年団が申し出て行った(みくに奉仕団)際に昭和天皇が侍従長らと共に現れてお礼を言った。団員は天皇の退出を君が代斉唱で見送り涙したという。これが後の皇居勤労奉仕と勤労奉仕団への天皇のご会釈という慣習となる[289]。 GHQにより皇室財産が凍結、縮小され梨本宮が天皇の身代わりとして戦犯として逮捕されると重臣らは反対したものの宮内府官僚は昭和天皇とその直宮を守るために室町時代以来の皇族である十一宮家の臣籍降下を進めた[290]。これによって中世に由来し明治時代に確定した世襲親王家を含めていた皇室は戦後にその形を大きく変えた。 →「旧皇族」も参照
昭和天皇はその後、昭和21年2月から日本全国各地への地方巡幸を始める。この「巡幸」は日本各地で熱烈な歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)には日本国民の天皇への圧倒的な人気と支持を目の当たりにしてそれを危惧したGHQや社会党政権によって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(GHQにより禁止されていた国旗掲揚が多数の民衆に見られたためなど)。(昭和天皇#行幸)。が、各県や町村から「巡幸再開決議」が次々に出され、宮内府からGHQに度重なる陳情が出され、簡素化を条件に昭和24年から再開された[291]。 →「昭和天皇の戦後巡幸」も参照
宗教神道との関係神道は日本古来の宗教である。古代の日本は祭政一致であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。 神話学者の松前健は「記紀」等に見える初期大王の記録や古社の記録等から初期ヤマト王権では三輪山を斎場とした日神祭祀があった可能性を指摘している[292]。ヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし[293][注釈 30]、「遅くとも六世紀前半」、「どんなに遅く見積もっても六世紀末以前」には皇祖神、天照大神が伊勢神宮に祭られ[295]、天皇の皇女が斎王として派遣されるようになった[296]。 仏教が伝来した後の用明天皇は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は天武天皇以降、律令制度の神祇令などで法制化されてゆき、飛鳥時代から平安時代にかけて、天皇は新嘗祭、元旦四方拝、毎朝御拝などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る伊勢神宮に斎王を遣わし、延喜式に定められた神社などに奉幣を供えるなどの制度が整えられた[297]。 武家政権に移行して、鎌倉時代の順徳天皇は『禁秘抄』において「先神事」とその重要性を述べている。中世になり戦乱により朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、戦国時代の後柏原天皇などは大嘗祭を執り行えなかった。江戸時代には江戸幕府の金銭補助の下、伊勢例幣使、大嘗祭、新嘗祭など戦乱により途絶えていた多くの神事が再開された[298]。また徳川家の神格化を目的とする日光東照宮への奉幣(日光例幣使)なども行われたが、江戸時代中期からは国学や水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり[299]、幕末には孝明天皇により神武天皇祭が制定された[300]。 明治時代になると、神道は国家神道となり、神武天皇を祭る橿原神宮、桓武天皇を祭る平安神宮、明治天皇を祭る明治神宮などが創建され、戦前戦中の昭和天皇は現人神として崇拝された。戦後は政教分離となり国家神道は廃止され、昭和天皇は人間宣言により自らの神格化を否定した。 現在は「宮中のご公務」[301]の一つの宮中祭祀として新嘗祭や四方拝などが受け継がれ、民間に嫁いだ皇女が伊勢神宮の祭主となり、皇室の私費により各地の神社へ奉幣が行われている[302]。 仏教との関係→「日本の仏教」も参照
『日本書紀』によると552年に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教の信仰の可否について家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺や法隆寺が建立され儒教や仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。 また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇は大官大寺、持統天皇は薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。 平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、南都の仏教と対抗させるために空海と最澄を遣唐使とともに唐に送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。密教修法により天皇を護持する護持僧が置かれ、御七日御修法、大元帥法など密教による護国修法が宮中で行われるようになったのもこの頃からである[303]。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。 その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年(明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により神仏分離が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。 なお、現在も東寺や比叡山延暦寺などの仏教寺院には天皇の勅使が遣わされており、皇室と仏教が全く関係がなくなったわけではない。天皇から高僧に対して諡号を贈る慣例は、2022年に今上天皇から黄檗宗の開祖である隠元隆琦に対して「厳統大師」の尊称が贈られるなど、今なお継続している[304]。 職能神・芸能神との関係天皇という王は、本来自然の領域に属する超越性を人間社会内へ奪取する媒介者の働きをしており、その多義性は宗教や儀礼、技芸の神にまつわっている[305]。天皇と職人とには、内密な関係が見られる。金春禅竹が『明宿集』で語るところによると、芸能や職人の守護神である宿神(翁)は、宇宙の中心、王の中の王であると諸職の民によって考えられていた。これは、大蛇(自然)の力から剣(レガリア)を取り出すスサノオのように、宿神が荒々しい自然から美や富を人間の社会に持ち込む離れ業を演じる霊であったことによるという。すなわち天皇の権力は、芸能者や職人の日々行う業と似通った性格となっている[306]。 『明宿集』は、星宿神を北極星とし、「翁」を宿神と呼ぶことは太陽・月・星宿の意味が込められているとしている。「宿」という文字には、星の光が降下してあらゆる家に降り注ぎ、人間に対してあらゆる業を行うという意味がある。「翁」の文字は、公の羽と書くことから王を鳥に喩える文字であり、あらゆる領域を飛翔するという意が込められている[307]。また、本地垂迹はすべて本体は一つであり、不増不減、常住不滅の一つの神に集約されるともいう[308]。『明宿集』の末尾では、翁とは日月星宿がすべての人の心に宿ったものであり、俗体は翁の化身であり、それを知っていると知らないとの違いがあると説かれている[309]。 天皇は、律令制という合理的制度が導入された以後も、自然の内奥との深い結び付きを主張する王の宿神的身体(翁的身体)を、あるいは「王の熊の身体」を、様々な宗教儀礼や神話的観念を通して維持しようとしてきた[310](神やカムイという言葉は、熊や狼のような強力な森の住人を指していた[311])。特に古代的天皇の復活を目指した後醍醐天皇による建武の中興では、密教の道具立てを使って、自然の内奥から超越的主権を取り出してくる異形の王としての天皇、という大規模な演出まで試みられた。網野善彦の『異形の王権』はこの問題を主題としている[310]。 一神教・国家神道『日本大百科全書』によると、明治維新・王政復古によって祭政一致が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた[312]。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の神観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた[312]。天皇は全てを超越した「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された[312]。「天皇は国家神道のいわば最高祭司であり、神社の祭式は皇室祭祀を基準に整えられた」とされる[312]。東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される[313]。 また、大日本帝国が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり[314]、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった[315](一神教では、唯一神は「皇帝〈Empepror〉」・「唯一の皇帝〈sole emperor〉」とも説かれる[316])。例えば、帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた[315]。 ユダヤ教・キリスト教宗教学者・思想史学者の前川理子の研究論文によれば、天皇を唯一なる存在(唯一神)と見なす例として、比較宗教学者の加藤玄智の論がある[317]。加藤は東京帝国大学神道研究室の公的研究者であり、「国家的神道(State Shinto)」の主な提唱者だった[318]。加藤によれば、数多くの殉教者を出した日本精神――つまり武士道・大和魂等の伝統――は、一神教の絶対服従の精神と「同一」である[317]。その精神とは、旧約聖書(ユダヤ教)のアブラハムやヨブが見せたような態度である[317]。 このような考えによって日本精神は、宗教進化論(ティーレの論)でいう「倫理的宗教」のレベルに到達済みであることが明白だとされるようになった[317]。加藤は唯一神(キリスト)と天皇を結びつけ、 と述べている[317]。同時に加藤は、日本人はみな「神の子」であるとしている[319]。 一方で言語学者のB. H. チェンバレンは、日本人の天皇崇敬は明治時代以後の人為的な「新宗教の発明」であると述べたり、今の「武士道」という語は昔は使われていなかったと論じていた[320]。こうした研究に強い不満を持った加藤は、日本の固有思想は日本人が一番理解できるという理由をもって、日本に対する外国人の「誤解」を退け、「科学的」に「忠君愛国説をも立てゝ来なければならない」と述べている[320]。 イスラムピーター・リャン・テック・ソンの歴史学論文によると、唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラムへ命令が下されることもあった[321]。例えば大日本帝国は、ジャワ島のムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本皇帝を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた[321]。 ジャワ奉公会や日本軍は、ジャワ島のキャイ(イスラム教師)やイスラム指導者等といったムスリムたちから支持を得ようとした[321]。しかしその前に、日本軍が唯一神(アッラーフ・天皇)についての命令を伝えていたため、ムスリムたちは既に混乱させられた状態にあり、結果として失敗した[321]。 世界的に帝国主義(皇帝主義)・君主制(君主主義)・国家社会主義(ナチズム)は悲惨な失敗を招き、それに対する反動も同程度の流血沙汰となった[322]。現代のイスラム過激主義はそうした反動の例であり、カブールからジャワにいたる世界各地で活発化している[322]。 天皇総帝論・八紘一宇
現代推論されるところでは加藤玄智は、西洋の絶対神が合理主義で批判されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした[323]。しかし、西洋人からすればモンゴル人種または「黄色い猿」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された[323]。 「現人神」論は「天皇絶対」論を兼ねており、東京帝国大学で憲法学者上杉慎吉も主張していた[323]。天照大神や天皇の絶対的唯一性を否定する論について、上杉は批判している[324]。以下に引用する[324]。 上杉はこうも言った[325]。
「世界統一」思想である「八紘一宇」は、「現人神」論とセットに語られてきたもので、田中智学の日本神話解釈から由来している[325]。天皇は天照大神の延長であり、よって日蓮主義者は天皇の徳と政治が一致するように努力しなければならないという日蓮主義の説が起源である[325]。
国家社会主義は社会主義的な「国家主義の一種」であり、日本では「純正日本主義(皇道主義)」と連れ立って活動していた[326]。特に「国家社会主義」(ナチズム)は、民族主義・全体主義・反個人主義・反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義・反マルクス主義等を掲げる[327][328]。なお、「右翼」は「一般にはドイツのナチス,イタリアのファシスト,日本の超国家主義者などがその代表」とされている[329]。 昭和時代初期には、天皇にまつわる「伝統の発明」として代表的に佐藤信淵および大国隆正の思想が利用された[330]。江戸時代末期の著述家である信淵の、帝国的で統制経済的な思想を象徴したのは、『混同秘策』(1823年)と『垂統秘録』(1833年)だった[330]。前者では、日本は世界を支配する使命があり、その手段として満州・朝鮮・中国を併合すべきであると説かれている[330]。後者は、国家による統制経済の必要を説いている[330]。こうした著述が援用され、戦時中には信淵は「大東亜戦争の予言者」と称賛された[330]。 だが大東亜戦争時に至るまでは、信淵の思想は存命中および死後も、実質的に政治へ影響した例が無かった[331]。『混同秘策』と『垂統秘録』も「秘本」であり、一部の弟子以外には閲覧さえ許されず、公刊されたのは1887年(明治20年)以降だった[331]。 世界支配および統制経済を掲げた信淵への関心が高まっていったのは、日露戦争の勝利後である[331]。また、社会主義の観点から信淵に興味を示す日本知識人も現れ始めた[331]。信淵への評価を決定的に変化させたのは、1927年(昭和2年)に大川周明が著した『佐藤信淵の理想国家』だった[332]。信淵の思想は
と位置づけられ、「伝統精神」と見なされた[332]。また、次のようにも評価された[332]。 こうして信淵の思想は「国家社会主義」であり、「伝統精神」「日本精神」の中核であると見なされた[333]。1934年(昭和9年)には、三上参次や河野省三といった歴史家・神道研究者までもが、日本の「伝統」的な「国家社会主義」を讃えるようになった[333]。この「伝統精神」は小学校の歴史教科書でさえ扱われるようになり、「進んで海外に植民地を開拓し、国力を伸ばさなければならない」「日本が海外に進出する提唱がすでに江戸時代からあった」というように論じられた[333]。
戦時中には「天皇総帝論」がもてはやされていた[334]。「天皇総帝論」とは、同じく戦時中に「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者、大国隆正が唱えた議論である[334]。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった[334]。 「天皇総帝論」は、もとより外交や政治に影響を与えたことが無かった[335]。しかも、隆正の一部の弟子以外には忘れ去られていた[335]。だが、帝国の昭和時代になると世間から注目され始めた[335]。その発端は昭和2年5月、宮中顧問官の山口鋭之助が「大国隆正と日本精神」という文章を新聞に掲載した頃である[335]。隆正は「日本の最も偉大な思想家であり、最も偉大な国学者であつた」、「明治維新の基礎をなした第一の功績者である」と断定された[335]。 新聞掲載の後に、「天皇総帝論」や隆正を扱う論文が急増し、『大国隆正全集』も公刊された[336]。実は『全集』から省かれているが、もともと隆正は日本神話、『古事記』、『日本書紀』を「わがくにの小説演義の鼻祖(作り話の元祖)」と扱っていた[336]。だがこれは、長いあいだ世に知られることがなかった[336]。 第二次世界大戦に至る中で、「天皇総帝論」は
と、大崎勝澄によって理屈付けられた[337]。そして「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた 等であると認識されていった[338]。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が明治維新や日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した[339]。 当時アメリカ合衆国では、「天皇とは何か」というアンケート調査が行なわれた[340]。1944年4月に雑誌『フォーチュン』で日本特集号が組まれ、調査の回答結果は という内容だった[340]。
日本の降伏後のGHQの神道指令には、“State Shinto”(国家神道)といった語をはじめ、加藤の影響が及んでいた[341]。神道指令を起草する際にW. K. バンスが用いたものは、アメリカ人の神道学者D. C. ホルトムの神道論ではあったが、ホルトムも加藤の神道論から学んでいた[341]。 敗戦後の加藤は公職追放された他、恩給を一時停止された[342]。加藤たちの時代の宗教学的理想は、諸宗教の融合調和だった[343]。加藤によれば、神道と仏教との合一は「国家的神道」の中で成立していたが、神道とキリスト教との合一は「全うしかねて居」た[343]。しかし1959年、当時の皇太子だった上皇明仁の結婚によって、「此破天荒の精神的大事業」が定結されたと加藤は述べた[343]。キリスト教(カトリック)系教育の中で成長した正田美智子を皇室に迎えることによって、従来は一大難事だった「宗教的融合調和」が成立したという[343]。前川はこれを、加藤の「二〇歳代の夢の続き」と評している[343]。
前川によると、加藤の研究は「多分に規範的」であり、「神道研究」というよりは「神道論」だった[318]。また、加藤と同世代の民俗学者・柳田國男は、最近の世の神道論は現実を踏まえてない、「人為的」な「新説」だと批判した[318]。当時、神社は国家の「宗旨」であり、宗教でないとされていた[318]。それは学問から見て「無内容」だったが、多様な神道論や神社論が主張されることとなり、加藤は有力な論者の一人となっていた[318]。 皇位継承→詳細は「皇位継承」を参照
皇位継承とは、皇太子などの皇嗣が皇位(天皇の位)を継承することである。皇位継承が世襲により行われることは、大日本帝国憲法・日本国憲法ともに明文規定があり、詳細なルールは皇室典範において定められる。皇位は、皇祖皇宗の男系の皇胤によって継承され今に至る[344]。 「皇位は公のものであり、決してその時々のロイヤルファミリーの私有物ではない」というのが原則で、ある系統の男系が途絶えた場合には別系統の男系が継承するとされ、皇位は歴代天皇からの預かり者であると認識されるものという[345]。 三種の神器→詳細は「三種の神器」を参照
日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられた神器。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物。 天皇の践祚に際し、この神器のうちの八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが正統な天皇たる証であるとされ、皇位継承と同時に継承される(剣璽等承継の儀)[346]。
即位の礼→詳細は「即位の礼」を参照
天皇の即位に際しては、即位の礼が行われる。これは皇室典範に定められた国事行為であり、以下の諸儀式から成る。
即位礼正殿の儀は、戴冠式に相当する即位の礼の中心的儀式であり、天皇が即位を国内外に宣明する。 大嘗祭→詳細は「大嘗祭」を参照
天皇の即位に際し、一世一度の重要祭祀である大嘗祭が行われる。日本国憲法下では皇室の公的行事とされる。 退位古代の大王(天皇)は終身のその地位にあったが、大化元年(645年)に皇極天皇が孝徳天皇に譲位して以降、譲位する天皇が現れるようになった。大宝令により太上天皇の称号が定まって以降は、退位後の天皇に太上天皇号が贈られ、「上皇」「仙洞」「院」等と呼称されるようになった。また出家した上皇は「法皇」と呼ばれる。平安時代前期までは天皇に匹敵する権力を持ったが、摂関時代に入ると大きな権力を振るうことはなくなった。しかし白河上皇以降は再び権力を掌握し、在位の天皇に代わって政務をとった(院政)。また天皇は即位後ある程度期間が経つと退位することが慣習となり、中世・近世においては終身在位する天皇は珍しいものとなっていった。 旧皇室典範は退位に関する規定を設けず、天皇の崩御後に皇嗣が即位すると定めたため、明治・大正・昭和の三天皇はこれに従って終身在位した。明仁の退位に際しては天皇退位特例法が制定され、徳仁に譲位し上皇となった。 氏姓五世紀の倭の五王は、百済王が余姓、高句麗王が高姓に並んで「倭」姓を名乗っており、中国中心の冊封体制の「姓」秩序の中で一時的に倭姓を名乗ったらしいと言われる[注釈 31][347]。 →「皇室 § 皇室と氏姓」も参照
配偶者現皇室典範下においては、天皇の配偶者は皇后1名のみである(一夫一婦制)。現在皇位を継承できるのは男子のみであり、その配偶者は女子となる。 大王の正室は大后(おおきさき)と称され、律令制下では天皇の正室は皇后とされた。天皇は正室以外にも複数の側室がいたほか(一夫多妻制)、皇后(正室)すら2名をもつことができた(皇后宮と中宮:一条天皇が2后を並立した)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。 中古以来から明治時代までは皇后の出身家は皇親の外は藤原氏、橘氏、平氏、源氏の四姓とされた[348]。また「皇親」の成員は婚姻によって変化することはなく、臣下から皇后となっても「皇親範囲」に入る訳ではなかった[349]。 明治19年頃の明治天皇の内諭では皇后と対象となる家系は五摂家のみと明記されていた(「元田永孚関係文書」)。 戦前の皇室典範では皇族の結婚対象は同族と勅旨によって認められた華族と規定されており、明治時代から戦前の皇后は一条家・九条家・久邇宮家の出身であった[350]。 明治20年代半ば(1890年代後半)、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃を決めるにあたり、キリスト教概念による一夫一妻制の西欧列強に一等国として認められるため、宮中も一夫一妻制を推進する必要に迫られていた[351]。そこで、健康な九条節子が皇太子妃となり、夫妻には裕仁親王(後の昭和天皇)ら、4人の男児が誕生した。大正天皇は自身が側室柳原愛子の子であることを知って衝撃を受け、またその后貞明皇后も側室である生母野間幾子の不遇を見て育ったことから、一夫一妻制を推進した[352]。 続く、昭和天皇は、20~21歳にかけて欧州訪問を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け[353]、主体的な意思を持って側室制度を拒否した[354]。 戦後の皇后は民間出身で日清製粉会長の正田英三郎の娘正田美智子が明仁皇后に、今上である徳仁の皇后は外交官小和田恆の娘の小和田雅子である。
親族令和2年2月19日の衆議院予算委員会で日本維新の会の藤田文武が旧宮家と天皇、皇室の親戚関係について質問し、宮内庁次長の池田憲治が 「上皇陛下と久邇宮家との関係については、上皇陛下のお母様であり、大正十三年に昭和天皇とご結婚された香淳皇后が久邇宮邦彦王のお子様でありまして、上皇陛下と邦彦王のお孫様である久邇邦昭様とはいとこの関係にございます。また、上皇陛下と東久邇宮家との関係についてお尋ねがございましたが、上皇陛下のお姉さまである成子内親王は、昭和十八年に東久邇宮盛厚王とご結婚されています。そのお子様である東久邇信彦様は天皇陛下のいとこに当たられます。また、明治天皇と竹田宮家との関係でございますけれども、明治天皇のお子様である昌子内親王は明治四十一年に竹田宮恒久王とご結婚をされております。また東久邇宮家につきましては、明治天皇のお子様であります聰子内親王が、大正四年に東久邇宮稔彦王とご結婚をされております。」 と現皇室と旧宮家が親族関係にあること、菊栄親睦会等を通じて定期的に交流がある旨の答弁をしている[355]。 組織・役職
宮内庁→詳細は「宮内庁」を参照
宮内庁[356](くないちょう、英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる外国の大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。 なお、宮内庁はかつて総理府の外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。 明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ宮内省が設置された。1947年には宮内府となり、さらに1949年に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁改革の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。 幹部内部部局皇宮警察本部→詳細は「皇宮警察本部」を参照
皇宮警察本部[357](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ[358]。天皇及び皇后、皇太子その他の皇族の護衛、皇居及び御所の警備、その他の皇宮警察に関する事務をつかさどる[358]。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。 本部長は、皇宮警視監の階級の皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。 本部の紋章は五三桐である。桐紋は菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。 皇居のうち、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所・宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署が設置されている[359][360]。 役職
葬制葬送儀礼葬送儀礼の形式は、古くは神式であり、平安時代頃から江戸時代までは仏式で営まれたが、江戸時代後期には神式が復活し、以降この形式で行われる。 皇室行事としての天皇の葬送儀礼を大喪儀という。大喪儀の特徴として、長期間にわたって通夜にあたる儀式「殯宮祗候」が営まれることが挙げられる。これは古代の葬送儀礼・殯(もがり)に由来するもので、本来は一年間行うが、昭和天皇の大喪の際は40日ほどであった。葬儀・告別式は「斂葬の儀」といい、葬場殿という仮の御殿を建てて行う。 この皇室の私的な儀礼の他、国事行為として大喪の礼という国葬が行われる。大喪の礼は宗教色を排除したもので、国内外から弔問団が訪れる。 葬法大王陵が大規模に造営されていた頃、まだ倭国には火葬の文化はなく、例外なく大王は土葬であった。初めて火葬された天皇は、持統天皇である。これ以降、江戸時代初めに至るまで葬法には火葬が多く採用されたが、後光明天皇崩御時に土葬が復活すると、昭和天皇・香淳皇后までは土葬された。しかし、第125代天皇明仁は在位中に自らの葬儀や陵の簡素化・火葬導入を希望すると、これにあわせて新たな葬儀のあり方が打ち出され、これ以降の天皇・皇后の葬制に火葬が復活することとなった。 天皇陵→詳細は「天皇陵」を参照
(外部リンク)歴代天皇陵一覧、宮内庁 天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ大王と呼ばれていた時代には巨大な前方後円墳が造営され、その後方墳、円墳、八角墳と変遷した。院政期の白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。明治天皇以降も大規模な上円下方墳が造営される形式が続いたが、明仁が自らの葬法について火葬を希望すると明らかにした際に、陵の規模を縮小する方針が発表された。 国際関係天皇の外国訪問は国事行為の臨時代行に関する法律が整備されておらず長年実現されていなかった。 1971年(昭和46年)、昭和天皇が天皇として初めて外遊し、イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待により、天皇として初めてアメリカ合衆国に公式に訪問した。 第125代天皇だった明仁も1991年(平成3年)にタイ王国などに行幸したのを始め、年に1、2回のペースで海外行幸をしている。また、各国の王室との間で様々な機会にプライベートな電話会談などのやり取りが行われている[364]。 第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、外国元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)にエチオピア皇帝のハイレ・セラシエ1世、1957年(昭和32年)にインド首相のジャワハルラール・ネルー、1958年(昭和33年)にインドネシア大統領のスカルノ、1960年(昭和35年)に西ドイツ首相のアデナウアー、1968年(昭和38年)タイ国王のラーマ9世の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった[365]。 昭和天皇の大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。ベルギー・ブータン・ブルネイ・ヨルダン・レソト・ニジェール・トンガの国王、バングラデシュ・ブラジル・ブルンジ・ジブチ・エジプト・フィジー・フィンランド・フランス・ガンビア・ドイツ連邦共和国・ギリシャ・ホンジュラス・アイスランド・インド・インドネシア・アイルランド・イスラエル・イタリア・ケニア・モルディブ・ミクロネシア連邦・ナイジェリア・パキスタン・フィリピン・ポルトガル・スペイン・スワジランド(現エスワティニ)・トーゴ・チュニジア・トルコ・ウガンダ・タンザニア・アメリカ合衆国・バヌアツ・ザイール・ザンビアの大統領・首相、国際連合の事務総長が参列した[366]。 天皇に関する課題皇位継承権問題→詳細は「皇位継承問題」を参照
国体論争戦争責任問題→詳細は「昭和天皇の戦争責任」を参照
退位問題→詳細は「譲位」および「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を参照
日本の皇室系図→詳細は「皇室の系図一覧」を参照
第126代天皇の男系(父系)直系祖先
家系図形式(天照大御神から第126代天皇まで)
脚注注釈
出典
参考文献学術資料
辞典・事典
その他の資料関連項目外部リンク
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