連合艦隊
連合艦隊(れんごうかんたい、聯合艦隊(旧字体:聯合艦隊󠄁))は、大日本帝国海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した艦隊。海軍部内での略称はGF[1]。 概要連合艦隊は2個以上の艦隊で編成された帝国海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は警備艦隊を常備艦隊に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降は「艦隊」の上位編成として常設された。後年連合艦隊を基幹に編成された海軍総隊と同様、編成は概ね陸軍における総軍に匹敵するもので、現在でも海上自衛隊の自衛艦隊やアメリカ海軍のアメリカ艦隊総軍など、連合艦隊に類似した編成の総軍相当艦隊が存在する。 なお、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の頃までは、「連合艦隊」は「第一艦隊+第二艦隊」であり、「艦隊」と略称した[2]。単に「艦隊」と呼称する場合、中華民国の上海を拠点とする常設艦隊である第三艦隊(昭和12年以降は支那方面艦隊)は含まなかった[2]。 連合艦隊は天皇に直隷する連合艦隊司令長官が指揮し、軍令に関しては軍令部総長の、軍政に関しては海軍大臣の指示を受ける。 連合艦隊司令部には、司令長官を補佐する幕僚として、 などの士官が配属されていた。 長い間、連合艦隊が帝国海軍の戦力のほとんどを占め、戦艦など主力艦はいうに及ばず、駆逐艦・輸送艦のような補助艦まで、大多数が連合艦隊に取り込まれた。また、連合艦隊こそが実戦部隊のエリートであり、そこに有能な人材を集中し、局地警備部隊や海上護衛隊の人材育成を軽視した。また、列強に対抗するには国力が足りない為、艦隊決戦を志向した日本海軍の戦略もあり、本来、海軍の重要任務になるべき海上交通・シーレーンの確保に充当すべき艦艇と人材に不足を来たしてしまった。日本海軍は、戦艦中心の砲雷撃戦を主体にした艦隊決戦の思想を残しながらも、空母機動部隊を編成し、斬新な艦隊運用のさきがけとなった。海軍航空隊の育成も、戦艦による艦隊決戦、次いで空母艦隊決戦を目標としていた。空母艦隊決戦の思想は1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北により放棄されたが、1944年10月のレイテ沖海戦まで、連合艦隊中心主義の艦隊編成・運用をおこなった。連合艦隊中心主義の結果、海上護衛部隊・対潜哨戒部隊(ハンターキラー)の編成に後れをとった。 その結果として、レイテ沖海戦での敗北により、連合艦隊は事実上の壊滅状態となった。 1945年4月の戦艦大和以下第二艦隊の沖縄への海上特攻は、第二艦隊を解散するという決断ができないままに、レイテ沖海戦と同じく、航空部隊の援護なしの無謀な突入作戦の繰り返しとなった。沖縄戦に敗北すると、生き残った戦艦「長門」のような大型艦艇は、事実上、局地警備隊の海岸砲台として使用された。そして、特攻兵器である回天・海龍・震洋などを配備した特攻隊が海軍の主力となっていた。沖縄戦以降、終戦を待たずして、連合艦隊は事実上の解散状態にあったと言える。
戦史連合艦隊旗艦が出撃した海戦のみ示す。
歴代司令長官→詳細は「連合艦隊司令長官」を参照
歴代参謀長→「Category:連合艦隊参謀長」も参照
※1905年1月 - 1933年5月は第1艦隊参謀長が兼務 歴代参謀副長→「Category:連合艦隊参謀副長」も参照
歴代旗艦隷下部隊
直属部隊1941年12月10日、太平洋戦争開戦時の編制
1942年7月14日、ミッドウェー海戦後の編制1943年4月1日、ガダルカナル島撤退後の編制
1944年4月1日、戦時編制制度改定後の編制1944年8月15日、マリアナ沖海戦後の編制1945年3月1日、菊水作戦直前の編制
編制
連合艦隊司令部設置箇所に関する論争艦隊司令部は通常、艦隊内の軍艦に設置される。連合艦隊司令部もその創設以来、常備艦隊や第一艦隊の軍艦に司令部を設置し、その艦隊司令部を兼ねていた。しかし太平洋戦争末期になって司令部設置箇所を巡り論争が起きた。 その原因は連合艦隊司令長官の指揮範囲を拡げ過ぎたことにある。明治時代の連合艦隊司令長官は原則として純粋な戦闘部隊のみを指揮下に置いていた。しかし時が経つにつれて名声が高まり、軍令を司る軍令部長(職制上は連合艦隊司令長官の上官)と並び称されるほどになった。それに加え連合艦隊司令長官の地位が単なる戦闘指揮官ではなく海上作戦全般の総指揮官という意味も帯び始め、補給部隊や基地航空隊、鎮守府なども指揮下に入るようになった。こうなると多くの司令部人員の増加が必要となり、居住及び勤務空間の確保や無線設備の増強など海上の一艦にあって総指揮をとることが何かと不都合になってきたのである。実際、当時のアメリカ海軍太平洋艦隊司令部はハワイ(太平洋戦争開戦前にサンディエゴより移動)にあり、陸上から指揮をしていた。よって司令部上陸論ともいうべき主張が司令部内でされるようになった。 そのためか太平洋戦争において、連合艦隊旗艦が作戦行動を起こしたのはミッドウェー海戦のみであり、しかも帝国海軍最強の大和型戦艦である旗艦大和は機動部隊のはるか後ろを航行していたため戦闘には参加していない。 それに対し反対論も根強かった。海軍には「指揮官先頭、率先垂範」という伝統があった。また日本海海戦では東郷平八郎司令長官が旗艦三笠の艦橋先頭に立ち、戦闘中微動だにせず海戦終了後東郷長官の足跡がくっきりと残っていたという実話もある。「司令長官とはそうあるべきもの」という観念が海軍の中では確固たるものとしてあった。安全な後方(陸上)から指揮を受けるなど考えたくもなかったと思われる。 1941年(昭和16年)の戦時編制発令で多数の艦隊が編制され、連合艦隊の規模が拡大したため、第一艦隊司令部が新設され、連合艦隊司令部と分離された。その後、第一艦隊は日本本土にとどまり、連合艦隊旗艦はトラック泊地へと進出する。 1944年(昭和19年)に入るといよいよ戦争範囲は拡大しつつも敗勢が濃くなり、他艦隊へと艦船を供出していた第一艦隊は解散し、連合艦隊旗艦が含まれていた第一戦隊も第二艦隊へと編入される。軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦用へ改装中、当時の連合艦隊司令長官の古賀大将が殉職する。後任の豊田大将は就任と共に、「大淀」に司令部を移し、しかも単艦で木更津沖に碇泊させた。これは米海軍のアパラチアン級揚陸指揮艦等と同じく最初期の指揮専用艦に属する艦艇であったが、当時の司令部にその意識はなく、単なる妥協策であった。このような処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を取るのが望ましいとされた。中央(東京)と連絡をつけやすく、作戦部隊作戦地域に近く、かつ作戦全体の指揮も可能という候補地を求めた結果、第一候補地・神奈川県日吉台慶応大学附近、第二候補地・台湾高雄(高雄警備府司令部所在地)と決定され、昭和天皇の勅許を得た[8]。第一候補地については、「大淀」の改装完了以前から日吉台(横浜市港北区日吉)に海軍の部隊が移駐しており、1944年3月には軍令部第三部(情報)が慶應義塾大学日吉キャンパスに移転、同じ頃川崎市蟹ヶ谷には海軍通信隊が地下壕を建設していた。軍令部三部の地下壕は7月15日に建設開始、連合艦隊司令部の地下壕は8月15日に建設が開始された(日吉台地下壕)。 通信室、作戦室、居住施設の順番で建設を開始、徐々に機能を移し、9月29日に豊田は将旗を移動、連合艦隊司令部は陸(おか)に上がった[9]。「大淀」は連合艦隊旗艦の役目を解かれて、ただの軽巡洋艦という立場に戻った。ここにおいて連合艦隊旗艦は消滅した。 その他海上自衛隊の「連合艦隊」海上自衛隊には連合艦隊に相当する機動運用部隊として自衛艦隊があり、自衛艦隊司令官の指揮下に護衛艦隊(4個護衛隊群基幹)・航空集団・潜水艦隊・掃海隊群・情報業務群・海洋業務群・開発隊群・その他の実動部隊で編成されている。 秘密組織の暗号名文化大革命中、中華人民共和国の軍人林立果は毛沢東暗殺を計画した。その際組織した秘密組織の名前は「連合艦隊」であった。これは林立果が日本映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』を観て感動したことから日本の連合艦隊に影響されたものである。 関連作品
脚注注釈出典関連項目
参考文献
外部リンク |