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藤原威子

藤原 威子
第68代天皇后
皇后 寛仁2年10月16日1018年11月26日
(中宮)

誕生 長保元年12月23日1000年2月1日
崩御 長元9年9月6日1036年9月28日
陵所 宇治陵
威子
別称 大中宮
氏族 藤原氏北家御堂流
父親 藤原道長
母親 源倫子
配偶者 後一条天皇
入内 寛仁2年3月7日1018年3月26日
子女 章子内親王
馨子内親王
女御宣下 寛仁2年4月28日(1018年5月16日
立后前位階 従一位
女官職 尚侍1012年1018年
御匣殿別当1017年1018年
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藤原 威子(ふじわら の いし/たけこ、長保元年12月23日1000年2月1日) - 長元9年9月6日1036年9月28日))は、平安時代中期の女性。摂政藤原道長の娘。母は源倫子。第68代後一条天皇中宮。別名大中宮。子女は章子内親王後冷泉天皇中宮)、馨子内親王後三条天皇中宮)。同母の兄弟に頼通教通上東門院彰子妍子嬉子

生涯

長和元年(1012年)尚侍に任官。正四位下に叙され、同年着裳・従三位に昇叙。同2年(1013年)従二位寛仁元年(1017年)御匣殿別当を兼任。同2年(1018年)3月、甥の後一条天皇に入内。4月に女御宣旨を受け、10月中宮に冊立。長元9年(1036年)4月、夫後一条天皇崩御。同年9月4日出家、2日後に崩御。享年38。

道長倫子夫妻の三女。長姉彰子所生の後一条天皇の元服を待って、20歳で入内した。夫帝より9歳年長の妃であり、威子自身はこれを恥ずかしがったというが、実力者道長の娘として重んじられ、威子の兄弟達さえも娘の入内を憚って、道長亡き後もついに後宮に他の妃が入ることはなかった。また威子の立后は道長が三后(皇后皇太后太皇太后)をすべて我が娘で占めるという前代未聞の偉業の達成である。道長の権勢を象徴したものとされる「この世をば」の和歌は、この時に祝宴で詠まれたという(『小右記』)。

しかし、唯一の后でありながら威子が産んだのは二人とも女子で、第一皇女章子内親王出産の折には、周りの失望に天皇が「昔は女帝が立ったこともあるのだから」と言って威子を庇ったという話が『栄花物語』に見られる。その後もついに男子が生まれることはなく、天皇が29歳で崩御した半年足らず後に、威子もまた疱瘡で崩じた。威子の遺児である二人の幼い内親王はその後、祖母であり伯母でもある彰子・伯父頼通が後見となり、長じて従兄弟の後冷泉後三条兄弟にそれぞれ入内した。どちらの皇女も後世に血を伝えることならず、後一条天皇と威子の血筋はここに完全に絶えた。

皇子誕生を伊勢神宮に祈願した長元8年夏に一度流産した(長元7年鹿島香取両神宮に祈願)。[1]

  1. ^ 左経記 長元八年(1035年) 六月十八日条 長元八年(1035年) 六月二十三日条
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