豊島岡墓地
豊島岡墓地(としまがおかぼち)は、東京都文京区大塚5丁目にある、皇族(皇后になった者を除く)専用の墓地である。護国寺に隣接する。 概要墓地の広さは80472平方メートル、墓数は61基(被葬者は皇族以外の者を含む63名)。墓地の始まりは1873年(明治6年)、明治天皇の第1皇子である稚瑞照彦尊が死産した際、明治政府が皇居に近い東京府豊島郡の護国寺所有地に目を付けて使用を始めた。以後「陵」に埋葬される天皇と皇后を除く皇族専用の墓地として整備されてきた。宮内庁の管理の皇室財産であり、基本的な保全費用と断絶した宮家の墓石の修繕費は国家予算に基づく宮内庁費で負担しているが、墓石の修繕などの一部は、祭祀を行う皇族が皇室経済法に則った費用で負担する。警備上、ここに墓参できるのは天皇や皇族のほか、事前に許可を受けた縁故者または関係者に限られる。皇族の葬儀や祭事に際して記帳や参拝を受け付ける場合などを除き、一般国民が敷地内に立ち入って墓前参拝をすることはできない。豊島岡墓地においては、皇族の葬儀(斂葬の儀)が執り行われる。貞明皇后や香淳皇后の大葬も当地で行われた。豊島岡墓地は皇族専用の墓地であるため、ここに葬られるのは原則として薨去の時点で皇族であった者(民間から皇室に嫁いだ女性も含む)に限られ、生まれながらの皇族であっても生前に自ら皇籍を離脱した者は葬られない。ただし、明治天皇の生母である中山慶子やその父の中山忠能などは皇族に準ずるとして埋葬を許されたほか、久邇朝融(香淳皇后の実兄/皇籍離脱前は久邇宮朝融王)や東久邇稔彦(第43代内閣総理大臣/皇籍離脱前は東久邇宮稔彦王)、昭和天皇第1皇女で、盛厚王の妃となった東久邇成子(戦後、舅の稔彦王に随って皇籍離脱する前は成子内親王)など、1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した、いわゆる「旧皇族」の一部も特例として同地に葬られている。 施設の内部正門を入って程なく右手に参集所があり、墓参者が休憩できるようになっている。参集所は宮内庁書陵部の管理棟も兼ねている。参集所の周りは割石を敷き詰めた庭と駐車場で、その奥は広めの空き地となっており、皇族の葬儀が執り行われる際に祭壇を設けるための礎石がある。あとの敷地内はほとんどが雑木林であり、いわゆる「音羽の森」の面影を残し、池袋周辺などに出没するカラスたちの宿り木となっている。この林のところどころを切り開き、それぞれの宮家ごとに鳥居と柵で囲われた区画が造られている。隣接する護国寺との境界は地図等では識別しにくいが、侵入防止用のコンクリート塀や池などで仕切られている。明治期から第二次世界大戦ごろまでに建立された墳墓はほとんどが土葬であったため、現在の民間でよく行われるように1つの墓に複数の被葬者を合葬するのではなく、被葬者一人につき1基が設けられている。形はほとんどが明治以降の天皇と同じ円墳もしくは上円下方墳であるが、大きさは天皇陵に比べるとはるかに小さく、宮家当主の墓でも幅・高さとも2メートル以内のものが多い。一方、戦後に建立された墳墓は若干大型化した代わりに遺体を(近年は落合斎場で)火葬に付し、秩父宮雍仁親王・同妃勢津子や高松宮宣仁親王・同妃喜久子のように一つの墓に夫婦合葬する傾向にある。 豊島岡墓地の歴史元々は隣接する護国寺の所有地であったが、明治政府により召し上げられた場所である。文京区内では小高い標高34メートル近辺にあるため、権現山などと呼ばれていたようである。江戸時代中期以降、天皇家の墓所は京都の泉涌寺にあり、その他の宮家も京都市内および周辺地区の寺院に墓所が点在している状況であり、いずれも明治以降に事実上の首都となった東京からは遠方にあった。そのため、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊が死産した際には、東京市周辺に墓所及び葬送儀式を行う広い面積を持つ場所が必要となった。明治政府が複数の候補地の中から同地を選定し、1873年(明治6年)9月22日に「豊島ヶ岡御陵」と命名して使用を開始した。以降、皇族の葬送儀式を執り行う場所として、また墓地として利用されている。現在用いられている「豊島岡墓地」の名称は、1927年(昭和2年)10月29日付の宮内省告示第23号で正式に命名された。 被葬者一覧
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