三種の神器(さんしゅのじんぎ[1][注釈 1], 英: the Three Sacred Treasures[2])は、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の総称[3][4]。また、これと同一とされる、日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして伝世してきた三種類の宝物を指す。
三種の神器にはいくつか別称がある。「三種の神宝[1]」には、「さんしゅのしんぽう」という読みのほかに、大和言葉の「みくさのかむたから[5]」、またその転訛形として「みくさのかむだから」「みくさのかんだから[6]」という読みが存在する。加えて、「三種の宝(さんしゅのたから, みくさのたから)[1][5]」、「三種の宝物(みくさのたからもの)[6][1]」、「三種の三祇(さんしゅのさんぎ)[1]」などの別称もある。「みくさ」は「三種」を意味する大和言葉。
特に剣と璽(皇位の印章としての勾玉)を併せて「剣璽(けんじ)」と称するが[7]、「三種の神器」の別称でもある[7]。
概要
天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとされ、皇位継承と同時に継承される。だが即位の必須条件とはされなかった場合もあり、後鳥羽天皇などは神器継承なしに即位している。
『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の内宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に、天皇と皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。
伝承
『古事記』ではアマテラス(天照大御神)が天孫降臨の際に、ニニギ(邇邇芸命)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、『日本書紀』本文には三種の神宝(神器)を授けた記事はなく、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)[注釈 2]を賜(たま)ふ」とある。神武東征では三種の神器の記録はなく、神武天皇とニギハヤヒがともに天羽々矢などの天表(あまつしるし、天津瑞とも)を持っていたことが記されている[注釈 3]。
古代の日本において、鏡・剣・玉の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ、仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。また糸島市の平原遺跡、福岡市の吉武高木遺跡、壱岐市の原の辻遺跡や佐賀市の七ヶ瀬遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。
儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。
各神器
八咫鏡
八咫鏡(やたのかがみ)は、記紀神話で、アマテラス(天照大神、天照大御神)が天岩戸に隠れた岩戸隠れの際、イシコリドメ(石凝姥命)が作ったという鏡。アマテラスが岩戸を細く開けた時、この鏡でアマテラス自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡はアマテラスがニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けたといわれる。
三種の神器の一つである八咫鏡は、一般に「銅鏡」と解釈されているが、材質が公開されているわけではなく、古事記では、「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されているので、実際は「鉄鏡」(=黒い鏡)である可能性がある。
天叢雲剣
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも称される剣の正式名称で、『古事記』では「草那藝之大刀」と記される。記紀神話ではスサノオ(須佐之男命、素戔嗚尊)が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現・島根県安来地方の中国山地側、仁多郡奥出雲町域)で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の尾から出てきた剣。のちにヤマトタケル(日本武尊)が譲り受け、移動中、周りを火で囲まれた時、自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたときに帯刀していたとされる。駿河国(現・静岡県中部・北東部)の地名「焼津」はこのとき草を焼いたことに由来するという[8][9]。
八尺瓊勾玉
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「八坂瓊曲玉」とも書く。大きな玉(ぎょく)で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。
記録
記紀
記紀のうち、『古事記』には、神器(神から受け伝える宝器)またはそれに類するものの伝承はあるものの、格別に天皇践祚に際してとなると目に付く記事は無い。しかし『日本書紀』には以下のように記載されている。
※原文の表記について、文字は旧字体、約物は現代の補足。書き下し文の表記について、文字は新字体、振り仮名は歴史的仮名遣。
- 《 原 文 》 爰大中姬命仰歡、則謂群卿曰「皇子將聽群臣之請、今當上天皇璽符。」於是、群臣大喜、卽日捧天皇之璽符、再拜上焉[10]。
- 《書き下し文》 爰に大中姫命[注釈 4] 仰ぎ歓び、則ち群卿[注釈 5] に謂ひて「皇子、群臣[注釈 6][11] の請を聴したまひて、今当に天皇の璽符を上るべし。」と曰ふ。是に、群臣 大に喜びて、即の日、天皇の璽符を捧げて、再拝みて上る。
- 《 原 文 》 (...略...)大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子[14]。
- 《書き下し文》 大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽を皇太子[注釈 7] に奉る。
- 卷第十五 顯宗天皇前記十一月(清寧天皇五年十一月)条 ──
- 《 原 文 》 (...略...)百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、(...略...)[15]。
- 《書き下し文》 百官[注釈 8]大に会へり、皇太子億計、天皇の璽を取りて、天皇の坐[注釈 9] に置きたまふ、
- 《 原 文 》 大伴金村大連、乃跪、上天子鏡劒璽符、再拜。(...略...)乃受璽符、是日、卽天皇位。[16]
- 《書き下し文》 大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡・剣の璽符を上りて再拝みたてまつる。(...略...)乃ち璽符を受く。是の日に、即天皇位す[注釈 10]。
- 《 原 文 》 群臣奏上劒鏡於武小廣國押盾尊、使卽天皇之位焉[17]。
- 《書き下し文》 群臣[注釈 6]、奏して、剣・鏡を武小広国押盾尊に上りて、即天皇之位さしむ[注釈 10]。
- 《 原 文 》 百寮上表勸進至于三、乃從之、因以奉天皇璽印[18]。
- 《書き下し文》 百寮[注釈 8]、表を上りて勧進る。三に至りて、乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印を奉る。
- 《 原 文 》 (...略...)大臣及群卿、共以天皇之璽印、獻於田村皇子[19]。
- 《書き下し文》 大臣及び群卿[注釈 5]、共に天皇の璽印を以て、田村皇子に献る。
- 《 原 文 》 天豐財重日足姬天皇、授璽綬禪位[21]。
- 《書き下し文》 天豊財重日足姫天皇、璽綬を授けたまひて位を禅りたまふ。
- 《 原 文 》 (...略...)物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。[22]
- 《書き下し文》 物部麻呂朝臣、大盾を樹て、神祇伯の中臣大嶋朝臣、天神寿詞[注釈 11] を読み、畢りて忌部宿禰色夫知、神璽の剣・鏡(※異説では、神璽・剣・鏡)を皇后に奉上り、皇后、天皇の位に即く[注釈 12]。
記紀の神器考
上記のように、『日本書紀』は歴代天皇の即位時の記述において奉献の品を記すのに、「璽符」(允恭紀)・「璽」(清寧紀、顕宗紀)・「璽印」(推古紀、舒明紀)・「璽綬」(孝徳紀)という、種類を特定できない表現のみを用いることが多い。持統紀より前の時代で具体的に種類を記しているのは継体紀と宣化紀の2紀のみで、それは「鏡」と「剣」である。かつてはこれを論拠として、「元々の神器は鏡と剣の2つで、のちに中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わった」のではないかという説もあった。しかし現在では、4~5世紀の豪族の古墳の副葬品に鏡・剣・玉の3点一組が頻繁にみられるという考古学知見に、海外にも日本の三種の神器に類似した品々からなる3点一組を王位のレガリアとする神話があって世界中に分布しているという比較神話学知見、並びに、「鏡剣」または「剣鏡」と書いて「玉」を略すのは漢文の修辞法上の問題で、実際の品数を意味するものではないという漢文の修辞法上の観点から、もともと3点一組で構成されていたと考えられている。したがって、景行天皇が筑紫に行幸した際、県主が、賢木(さかき)の上枝に白銅鏡(まそかがみ)、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊の玉を掛けて出迎え、他の県主の時も、上枝に八尺瓊の玉、中枝に鏡、下枝に十握剣を掛けて出迎えたとの伝承も、後世の造作ではなく、古い祭祀の形であると認められる。また、近江令までは3種であったのをなぜか飛鳥浄御原令で2種とし、その後また3種に戻されたとする説もある。先の「持統天皇四年正月条」の書き下し文でも示したが、持統紀に見える「神璽劒鏡」は「神璽である剣と鏡」という意味で捉えるのが従来説であるが、「神璽(= 勾玉)・剣・鏡」と解釈する研究者もいる。詳細は「八尺瓊勾玉」項を参照のこと。
中世から近世
『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣(形代)も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院宣を根拠に即位している。
足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐天皇は、北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の皇位の正統性を主張し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収したため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調したが、既に述べたように、神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例がある。
南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。
室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。
近現代
明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、三種の神器の所在に基づいた南朝正統論が見られた。その後明治天皇が南朝正統と定める。
上皇明仁は1989年(昭和64年)1月7日に宮殿の正殿(新宮殿正殿)松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。このときは相続税法の非課税規定[23] により、相続税の課税対象にならなかった。
今上天皇は2019年(令和元年)5月1日に宮殿の正殿(新宮殿正殿)松の間で「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。譲位に伴う贈与税については、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(2017年〈平成29年〉6月9日成立)付則で非課税とすることと定められた。
現存・消失論議
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神器が現存か否かについては異説が多いが、そもそもの実体や起源を論ずる段階で諸説があるため、どのような状況をもって「現存」と呼ぶのかを含め論者により相違がある。実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」(レプリカではなく神器に準ずるもの)であり、実物は祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できない。主な見解には以下がある。
- 伊勢神宮の神体とされる八咫鏡は、古来のものが現存するといわれる。御桶代と呼ばれる密閉された箱状の容器に入って祀られており、神宮式年遷宮の際には、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれる[注釈 13]。
- 熱田神宮に祀られる草薙剣は、古来のものが現存する[注釈 14] とされる。
- 宮中三殿の賢所では、八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られるが、これは天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)等に火災の記録があり、それらの記述によると数多の火災によって鏡の形状を残しておらずわずかな灰となって器の中に保管されているようである[24]。これは源平の壇ノ浦の戦いで回収された。
- 皇居の神剣(草薙剣の形代)と勾玉は、源平の壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き腰に神器の剣を差し勾玉の箱を奉じて入水し一緒に水没した。草薙剣はそのため現存しない。しかし、この剣は草薙剣の形代(神道でいう御魂遷しの儀式を経て神器としていた物)であり、後に改めて別の形代の剣が伊勢神宮の神庫から選び出され同様の措置が採られた。これが現在の皇居の剣である。一方、勾玉の方はその際に箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。この勾玉は古代のものが皇居に現存するとされる(この見解では、今まで失われた神器は全て形代であり、実物はすべて現存しているとする)。
- 福岡県北九州市小倉南区に鎮座する蒲生八幡神社には、高浜浦の岩松という者が海に没した鏡・勾玉を拾い上げたという記録が残る。鏡も玉も空気が密閉された箱に入っていたため浮かび上がったのであって、剣はついに発見されなかった。
- 三種の神器は「皇室所有とされること」に意味があるとの主張もある。つまり「皇室が三種の神器を所有している」というより、「皇室所有のもの」こそが三種の神器とする。これは皇室の権威を最大限にみなし、三種の神器を単なる権威財とみなす。しかしこの見解では、仮に、神器が奪われても天皇が新たな神器を取得すれば済むため、過去に天皇を崩御させてまで神器を奪い合ったりした事は説明できない。
三種の神器関連の教説書
伯家神道説
垂加神道説
- 岡田正利『三種神宝極秘中之秘伝』
- 玉木正英『三種神宝伝』
- 玉木正英『三種神宝極秘伝』
- 松岡雄淵『三種神宝極秘之伝』
- 谷垣守問・玉木正英答『三種神宝問目』
国学・有職故実
その他
- 渡邊大門『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史―』講談社、2009年
転義
戦後(第二次世界大戦後)の復興期を経て日本が経済的に豊かになると、民間で「三種の神器[注釈 15]」という言葉が用いられるようになった。これは、その当時において豊かさの象徴と言える憧れの家電製品となっていた電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ(白黒テレビ)の3種を、天皇の「三種の神器」になぞらえて、マスコミ主導で呼び始めたものであった。
続いて1960年代には、カラーテレビ、クーラー[注釈 16]、自家用車を「新・三種の神器」といい、「Color TV」「Cooler」「Car」の頭字を取って「3C(さんシー)」ともいった。
ほかにも、優れた道具や製品などが3種あると「三種の神器」と呼ぶなど、一般に広く使われる言葉となっている。ファッション業界用語での雨具「傘・レインコート・長靴」[注釈 17]、日本企業の必需ツール「FAX、印鑑、書類(紙)」[25]など。
脚注
注釈
- ^ 「神器」の読み方は「じんぎ」以外にも「しんき」「しんぎ」「じんき」など揺れがある。なお「しんき」について、13世紀ごろの「還幸なからんにおいては、三種(さんジュ)の神器(しんキ)いかでか玉体をはなち奉るべきや」(出典:高野本平家〈13世紀前半〉10)という一節に登場する「さんじゅのしんき」という古い読み方は存在する。
- ^ これは『日本書紀』の第三の一書に、海神が彦火火出見尊(神武天皇の祖父)に潮満瓊と潮涸瓊「二種の宝物」を進上したとあるのと同種の表現である。
- ^ 『日本書紀』によるとニギハヤヒに仕えていた長髄彦は天神の子は唯一と信じていたが、神武天皇は天神の子は多くいると答えており、天表は唯一の統治者のしるしではない。
- ^ “忍坂大中姫”. コトバンク. 2019年11月8日閲覧。
- ^ a b 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “群卿”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ a b 平凡社『世界大百科事典』第2版. “マヘツキミ”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ “日嗣の御子”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ a b “百官・百寮”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ 小学館『デジタル大辞泉』. “御席/御座”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ a b “天つ日嗣”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ “中臣寿詞”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ 前例に倣った読みでは、「皇后、即天皇位。」は「皇后(きさき)、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。」となる。つまり、(天武天皇の)皇后であった鸕野讚良皇女が天皇に即位したということ。
- ^ 伊勢の八咫鏡は式年遷宮と同時に壊され代替わりするという説がかつてウィキペディアに書かれたことがあるが、論拠不明で、そのような事実は無い。これは明らかに神宝(伊勢神宮での用語では天照大神の日常の宝具)の中の一つである鏡と混同した説である。
- ^ 熱田神宮の草薙剣は、1945年8月21日から同年9月19日までの間、アメリカ軍占領に備えるとして、飛騨一宮水無神社に仮遷座された。
- ^ さんしゅのじんき。他の読みは見られない。あるいは極めて稀。[要出典]
- ^ 冷房機能のみで、エアコンのように暖房機能は無い
- ^ 欧米のビニール製「レインハット」は日本では普及していない。
出典
- ^ a b c d e “三種の神器(サンシュノジンギ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年7月21日閲覧。
- ^ Linguee辞書『三種の神器』
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “三種の神器”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ 平凡社『百科事典マイペディア』. “三種の神器”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
- ^ a b 小学館『デジタル大辞泉』. “三種の神器”. コトバンク. 2019年11月5日閲覧。
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- ^ “御祭神”. 公式ウェブサイト. 焼津神社. 2019年5月6日閲覧。
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- ^ “日本書紀巻第卅 高天原廣野姬天皇 持統天皇”. 日本書紀について. seisaku.bz. 2019年11月5日閲覧。
- ^ 相続税法第12条(相続税の非課税財産)1項1号。
- ^ 大村拓生 「一〇〜一三世紀における火災と公家社会」 (『日本史研究』第412号. 1996年. 3頁以下)[リンク切れ]
- ^ 「21世紀の日本の三種の神器」(「週刊SPA」2022年1月1日・11日合併号)22頁。
参考文献
- 書籍
- 論文
関連項目
外部リンク