淳仁天皇
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年〈天平5年〉- 765年11月10日〈天平神護元年10月23日〉)は、日本の第47代天皇(在位:758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉- 764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉)。 漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいてい、あわじはいたい)と呼ばれるが、歴代に加えた史書も存在する。諱は大炊(おおい)で、これは大炊氏(蘇我氏系の御炊氏、あるいは大炊刑部)が養育したからであると考えられる[1]。 経歴人物天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻老の娘・当麻山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。 756年に没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9歳3月29日(757年4月22日)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、4日後の同年4月4日(4月26日)、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王が立太子した。 大炊王は仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。 また、舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であったとする指摘もある[2]。 践祚天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。 しかし践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の2字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。755年に唐で安禄山の乱が発生した際には九州の警備強化にあたるが、仲麻呂が新羅討伐を強行しようとしこれを許可する(ただし後の称徳天皇=孝謙上皇により実現しなかった)。また官位を唐風の名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。天平宝字4年(760年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。同年、光明皇太后が崩御するが、仲麻呂は天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌天平宝字5年(761年)天皇と上皇は小治田宮や保良宮に行幸して保良宮を「北宮」とした。 ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇は看病していた道鏡を寵愛するようになり、仲麻呂の進言により天皇がこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。 佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した皇統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する[3]。木本好信も橘奈良麻呂の変の際に奈良麻呂らが光明皇太后の住む皇太后宮にある天皇の権力の象徴であった御璽と駅鈴を確保しようとしていること(『続日本紀』天平宝字元年7月庚戌条)と後述する恵美押勝の乱において孝謙上皇が淳仁天皇の住む中宮院にあった御璽と駅鈴を確保した件(『続日本紀』天平宝字8年9月乙巳条)に着目して、聖武上皇の崩御後に御璽と駅鈴を光明皇太后が保持し続け、皇太后の崩御後に淳仁天皇に引き渡されたと指摘し、光明皇太后が御璽と駅鈴を孝謙天皇(上皇)に渡さず淳仁天皇に直接渡したことは、皇太后が草壁親王系から舎人親王系への皇統の変更を認めたと評価し、反対に在位中も退位後も御璽と駅鈴を保持することが出来なかった孝謙上皇は草壁嫡流を維持するために最終的には天皇から御璽と駅鈴を「奪う」しかなかったとしている[4]。河内祥輔は『水鏡』に記された他戸親王の年齢が正しいものであるとする立場から、天平宝字5年(761年)の他戸王(当時)の誕生によって孝謙上皇が淳仁天皇を切り捨てて聖武天皇の外孫である他戸を後継者に据えようとした(仮に孝謙上皇が道鏡を皇位に就けようとしたとしても、僧侶である道鏡は子孫が作れないため本命の即位までの中継ぎの域を出ない)としている[5]。 追放天平宝字8年(764年)9月、上皇が山村王に命じて天皇が居住する中宮院にあった駅鈴と御璽を接収したことを契機に恵美押勝の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は最大の後見人を失った。乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。 乱の翌月、上皇の軍によって中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚して称徳天皇となった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)を計る勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で薨去した。公式には病死によると伝えられているが、実際には暗殺された[6]と推定され、大喪儀が行われたことを示す記録も存在していない[7]。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていたが、『新唐書』日本伝では「大炊」、『宋史』日本伝では「天炊天皇」と記されて歴代に加えられている。これは10世紀に宋に渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』を参照したものである。 系譜
系図
在位中の元号陵・霊廟陵(みささぎ)は、宮内庁により兵庫県南あわじ市賀集にある淡路陵(あわじのみささぎ)に治定されており、兵庫県内では唯一である。宮内庁上の形式は山形。 記録では、淡路国三原郡(現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)に造営されたという。宝亀3年(772年)光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。宝亀9年3月23日(778年4月24日)に山陵扱いとされた。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 そのほか、滋賀県長浜市西浅井町菅浦一帯では淳仁天皇伝説が分布し、淳仁天皇の営んだ保良宮伝承地(現・須賀神社)、淳仁天皇陵伝承地などが存在する。 諡号明治3年7月24日(1870年8月20日)に、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られた。 明治6年(1873年)には、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。 脚注
参考文献
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