須弥山概要古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり、この世界軸としての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されている。この山は、地球の北半球という説もある。 インドで形成された宗教のうち、とりわけ仏教が中国や日本に、ヒンドゥー教がインドネシアなどに伝播するにともない、この世界観も伝播した。ジャワ島にはスメル山という名の山もあり、別名はマハ・メル山(偉大なるメル山を意味する)である。仏教が説いた須弥山の概念は、近世以前の東アジアの人々の世界観に大きな影響をあたえ、頂上にある忉利天と並び、詩や物語の題材となった[3]。須弥山を主題として扱った日本の文学作品の例としては、『梁塵秘抄』『今昔物語集』『拾遺往生伝』『日本霊異記』などが挙げられる。 仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と 玄奘のころから須弥山がチベット高原、それを取り巻く四大大陸は南アジア、西アジア、北アジア、東アジアと考えられてきた。なお、須弥山の頂上には帝釈天(インドラ)が住んでおり、その上空には修行を極めた者のみが行ける世界が広がっているとされたため、インドの行者はガンジス川を遡ってチベットを目指した[4]。 ヒンドゥー教における須弥山世界観ヒンドゥー教の聖典のひとつである『ヴィシュヌ・プラーナ』によれば、世界の中心にはジャンブー・ドヴィーパ(ジャンブー洲)と呼ばれる円盤状の大陸があり、その中央にそびえる黄金の山がメール山である[5]。地表部の高さは84,000ヨージャナ[6]、地表下の深さが16,000ヨージャナあり、頂上部の直径が32,000ヨージャナ、基礎部の直径が16,000ヨージャナと上に行くほど広くなる漏斗形をしている。山の形状については聖典によって異なり、『ヴァーユ・プラーナ』では東面は白色、南面は黄色、南面は黒色、北面は赤色をした四面体であるという[5]。メール山の東西南北には控え壁となる高さ10,000ヨージャナの山があり、それぞれの山頂には高さ1,100ヨージャナの大樹が生えている。 メール山の山頂には差し渡し14,000ヨージャナに及ぶブラフマー神の都城があり、その東西南北、東南、南西、西北、北東の8方向に護世神たちの住む都市が広がっている[7]。 仏教における須弥山世界観→「忉利天」も参照
鎌倉時代の日蓮によると「須弥山は上下十六万八千由旬の山なり(聖愚問答抄)」 とあるように、上と下に分割されるものと認識していることが分かる。大きさのスケールからも、これは地球の北半球と南半球と考えることが妥当で、仏教の知識人は地球を地球としてしっかり認識していたことが分かる。また月の大きさにも言及しており、「譬えば天月は四万由旬なれども(千日尼御前御返事)」とあるように、比率的には、須弥山と月の大きさは大体4:1であり、須弥山が地球そのものであることを裏付けている。また、閻浮提は四つの区分のうちアジアであるという根拠は「問うて云く月氏漢土に於て仏法無きことは之を知れり、東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る、答えて云く法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、内の字は三洲を嫌う文なり(顕仏未来記)」にある。 5世紀頃までに成立した『倶舎論』によれば、(論は人師の説なので厳密には仏説とは見なされないが)風輪の上に水輪、その上に金輪がある。また、その最上層をなす金輪の最下面が大地の底に接する際となっており、これを 金輪のうえ、 また、贍部洲と須弥山の間には、外縁から内部の順に、尼民達羅山、象耳山、馬耳山、善見山、檐木山、持軸山、そして持双山が須弥山を囲むようにそびえている(九山八海)[2]。 須弥山中腹には日天と月天がまわっている。須弥山の高さは八万由旬[注釈 6]といわれ、中腹には、下から恒憍天、持鬘天、堅手天、そして四大王天がおり、ここを住みかとしながら四洲を守っている[8][9]。これらの住みかは四層状になっていて、山の中腹から四周にはみ出たヴェランダ構造になっているとされる[10]。四天王の眷属たちは、他の山々や、太陽や月に植民している。さらにその上の山頂の忉利(とうり)天には帝釈天と他三十二天が住むという[11]。 須弥山の頂上から80,000ヨージャナ上には、夜摩天とその眷属が住み処とする空中宮殿がある。さらにその天宮の上には、同様の構造を持つ兜率天、化楽天、他化自在天の住み処があるとされる[12]。 須弥山には甘露の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる。 須弥山に例えられる物創作作品で登場する須弥山
ギャラリー脚注出典
注釈
参考文献
関連項目外部リンク
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