東京国立博物館
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する、日本の国立博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。1872年(明治5年)に創設された日本最古かつ最大の博物館であり、本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。 2023年4月時点で、国宝89件、重要文化財649件を含む収蔵品の総数は約12万件[2]。日本政府は同年5月時点で美術・工芸品のうち902件を国宝に、10,820件を重要文化財に指定しているので、当館は美術・工芸品の国宝の約10%、重要文化財の約6%を収蔵していることになる[3]。また2023年3月末時点でこれとは別に、国宝54件、重要文化財260件を含む総数2,668件の寄託品を収蔵している[1]。これらの収蔵品のうち総合文化展(平常展)に一度に展示している文化財の件数は約3,000件で、それぞれの文化財は4週間から8週間ごとに展示替えされており[2]、2020年度の平常展の展示替え件数は5,041件、展示総件数は9,048件[4]。 沿革草創期1872年(明治5年)3月10日、その前年に設置された文部省博物局による最初の「博覧会」として湯島聖堂博覧会が、東京・湯島の湯島聖堂大成殿で20日間開催された[5]。当時の広告や入場券には「文部省博物館」と明記されており、これが日本の「博物館」の始まりであった[要出典]。東京国立博物館はこの年を創設の年としている[5]。展示品は、翌1873年(明治6年)開催のウィーン万国博覧会への出品予定品が中心であった。当時の錦絵[6]に見られるように、会場にはガラスケースが所狭しと置かれ、書画、骨董、動植物の剥製や標本などが並べられており、展示品のなかでは名古屋城の金鯱(しゃちほこ)が人気を集めた。この博覧会は3月10日から20日間の会期を予定していたが、あまりの人気に入場制限をせざるをえないほどで、会期を再度延長し、4月末日まで開催された。総入場者数は15万人と推定されている[7][8][9]。 1873年(明治6年)、「文部省博物館」は太政官正院の「博覧会事務局」(1872年設置)に併合され、場所も湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転した。この年は4月15日から3か月半にわたって博覧会が開かれ、博覧会終了後は毎月1と6の日に公開された。以後、上野に新しい博物館が建設される1881年までの展示はこの内山下町で行われた。なお、この当時の博物館は動物、植物、鉱物などの標本も収集展示の対象であった[10]。 博物館の設置後まもない1872年8月、文部省により湯島聖堂の大講堂に書籍館(しょじゃくかん)が設けられた。これは、紅葉山文庫本、昌平坂学問所本など、旧幕府からの引き継ぎ書籍を収蔵するもので、日本における公立図書館の端緒である。書籍館は1874年に浅草蔵前に移転して「浅草文庫」と称した。この浅草文庫の蔵書約14万冊は、一部は内務省に移管されたが、大部分は1882年、上野に移転開館した博物館に引き継がれて、東京国立博物館の蔵書の基礎となった[11]。 博物館設置の端緒となったウィーン万国博覧会は1873年5月1日から11月2日までの会期で開催。日本館には陶磁器、七宝、漆器、染織品などの伝統工芸品が展示され、日本庭園も造られた。日本館は当時の欧州における日本ブームもあり、好評であったと伝えられる。翌々年の1875年、博覧会事務局副総裁の佐野常民は大部のウィーン万国博覧会報告書を提出し、その中で大東京博物館設置の必要性を力説した[10][12]。 1875年(明治8年)、「博覧会事務局」はふたたび「博物館」と改称され、内務省の管轄となった。「博物館」は一時「内務省第六局」と改称されたが、翌1876年(明治9年)、再度「博物館」に改称。同年、町田久成が博物館長に任命された。薩摩藩出身の官僚であった町田は、明治時代初期に博物館設置や文化財保護に尽力した人物である。東京国立博物館では彼を初代館長としており、博物館の裏庭には町田の顕彰碑が建立されている。なお、博物館の所管官庁は、1881年(明治14年)に農商務省、さらに1886年(明治19年)に宮内省へと変わった[13][14]。 1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第1回内国勧業博覧会が開催された。これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って開催されたもので、この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で最初に「美術館」と称した建物として知られる。この「美術館」は、博覧会終了後も使用することを前提として煉瓦造で建設された。初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であり、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園への移転を陳情していたが、この1877年、太政官より上野移転の裁可を得た[13][15][16]。 1881年(明治14年)、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の本館が完成。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計であった。この本館は、同年上野で開催された第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌1882年(明治15年)3月から博物館の本館として使用されるようになった。4年前の第1回内国勧業博覧会の際に建てられた「美術館」の建物も新博物館の「2号館」として活用されたが、関東大震災で本館・2号館共に損壊し、現存しない。上野での開館式は1882年3月20日、明治天皇の行幸を得て行われた。博物館とともに設置準備が進められていた附属動物園(恩賜上野動物園の前身)もこの時に開園。やや遅れて同年9月20日からは前述の旧浅草文庫の書籍の公開が開始されている。このように、初期の博物館は、美術館、自然史博物館、動物園、図書館を含む総合文化施設であった[17]。 帝国博物館から帝室博物館へ1889年(明治22年)、「帝国博物館」と改称、九鬼隆一が総長となった。この時、京都と奈良にも帝国博物館を置くこととなり、機関としての帝国京都博物館および帝国奈良博物館の設置はこの年である(実際の開館は京都が1897年、奈良が1895年)。当時の帝国博物館美術部長は明治時代の美術界の理論的指導者であった岡倉覚三(天心)であり、アメリカから来た哲学者・美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事を務めていた。従来、博物館が担当してきた博覧会関係の業務は農商務省に移管され、この頃から歴史・美術工芸系の博物館としての性格が強まる。なお、動物園が博物館から分離したのは1924年(大正13年)である。この年、動物園を含む上野公園が宮内省から東京市に下賜された。同じ1924年、博物館の天産部も廃止され、同部に属していた動植物の標本などの列品は、同年から翌年にかけて、文部省管轄の東京博物館(国立科学博物館の前身)へ移された[18][19]。 1900年(明治33年)、当時東京・京都・奈良にあった各「帝国博物館」を「帝室博物館」と改称。「帝室博物館」の名称は1947年(昭和22年)まで使用された。この1900年には当時の皇太子(後の大正天皇)の成婚を祝福するため、上野の帝国博物館内に新たな美術館を建造することとなった。宮廷建築家片山東熊の設計になる新美術館は、翌1901年着工。基礎補強に時間を要したこと、たびたび設計変更があったこと、日露戦争の影響などにより工事は長引き、7年後の1908年に竣工、翌1909年開館した。石造および煉瓦造2階建て、ネオ・バロック様式のこの新美術館は表慶館と名付けられ、21世紀に至るまで博物館の展示の一翼を担っている[20][21]。 1923年(大正12年)の関東大地震では、コンドル設計の本館のほか、当時存在した2号館、3号館が大破して使用不能となり、本館復興までの十数年間、陳列は表慶館のみで行われた。復興本館の建設が決まったのは1928年(昭和3年)のことで、昭和天皇の大礼を期に大礼記念帝室博物館復興翼賛会(会長徳川家達)が設立された。建設は設計競技方式で行うこととされ、「日本趣味を基調とした東洋式」の建物とするという条件付きであった。1931年4月に設計案の公募が締切られ、273点の応募作のなかから渡辺仁の案が採用された。渡辺案をもとに宮内省臨時帝室博物館営繕課で実施設計を行い、1932年12月に着工、1937年11月に竣工、1938年11月に開館した。これが現存する鉄骨鉄筋コンクリート造2階建ての東京国立博物館本館(重要文化財)である。当時としては、耐火、防盗への対策を最高レベルで講じたもので、閉館時には窓の鎧戸を下ろし、電気を切断。監視人が別館から張番を行う「金庫式の堅城」と呼ばれるものであった[22]。 復興本館開館からまもない1940年には、「皇紀2600年」を記念して「正倉院御物特別展観」が開催された。これは正倉院宝物(当時は「正倉院御物」)が一般に公開された初の機会であり[23][24]、11月6日から11月24日の間に41万4300余人が入場。博物館の年間入場者数約37万人を19日間で上回ることとなった[25]。
帝室博物館から国立博物館へ1947年(昭和22年)5月、新憲法公布の日をもってそれまでの帝室博物館は「国立博物館」と改称、所管は宮内省から文部省へ移った。1952年(昭和27年)に文部省の機構変更にともない「東京国立博物館」と改称された。国立移管後の初代館長は安倍能成である[27]。 戦後まもない1947年9月に機関紙「博物館ニュース」が創刊されている。同ニュース創刊号の第1面には「国民と博物館 古美術品は見直されねばならない」という論説記事が掲載され、大戦前の「帝室博物館」から国民のための博物館への転換姿勢が明確に示された。第二次大戦後の博物館は、新たな展示館(東洋館、法隆寺宝物館)の建設と収蔵品の増大によって平常陳列の拡充をはかるとともに、毎年多くの特別展や特集陳列を実施してきた。中でも1965年(昭和40年)のツタンカーメン展、1974年(昭和49年)のモナ・リザ展などは大きな反響を呼び、社会的な話題となった。創立100周年の1972年(昭和47年)には「東京国立博物館所蔵名品展」、創立120周年の1992年(平成4年)には特別展「日本と東洋の美」が開催され、館の歴史に関わる資料なども併せて展示された[28][27]。 機構面では、1950年(昭和25年)、文化財保護委員会が設置されるとともに東京国立博物館は同委員会の附属機関となった。同委員会が1968年(昭和43年)に廃止され、これに代わって文化庁が新設されたことに伴い、博物館は文化庁の附属機関となった。中央省庁再編に伴う独立行政法人制度が発足した2001年(平成13年)には、独立行政法人国立博物館の管轄下に移り、2007年(平成19年)に独立行政法人国立文化財機構の施設となる。それに伴い数度の組織改編が行われ、機能分業による効率化と来館者の視点を取り入れを図っている[29]。 新館の建設第二次世界大戦後の東京国立博物館では、新たな展示館の建設が相次いだ。1962年(昭和37年)には、構内南西隅に法隆寺宝物館が竣工し、2年後の1964年(昭和39年)から一般公開されるようになった。 これは、1878年(明治11年)に廃仏毀釈で困窮した法隆寺に皇室が一万円を下賜し、代わりに献納された宝物300余件を収蔵展示するためのもので、その建設は長年懸案とされていたものであった。なお、この時の建物は30年ほど使用された後に取り壊され、1999年(平成11年)にレストランや資料室を備えた新・法隆寺宝物館が開館している。 1968年(昭和43年)には構内東側に東洋館が開館し、日本以外のアジアの美術品はこちらへ移された。1984年(昭和59年)には構内西側、表慶館裏手に資料館が開館し、従来公開要望の多かった、館所蔵の図書・歴史資料・写真資料などが、研究者に公開されるようになった。 博物館においては、平常陳列とともに特別展の開催も重要な事業の1つである。しかし、大規模な展覧会の場合は、本館の平常陳列を一時撤去して特別展会場とせざるをえず、恒久的な特別展会場を含む新館建設の必要性が論議されてきた。このため、構内の中長期整備計画の中でその建設地が検討され、本館西側にあった別館(大講堂などがあった)と北倉庫を取り壊して、新たな展示館を建設することとなった。特別展会場・考古資料展示室・大講堂などを含む新展示館は平成館と名付けられ、1999年(平成11年)に開館した。 施設本館1932年(昭和7年)着工、1937年(昭和12年)に竣工し、翌1938年開館した。設計は公募で、渡辺仁の案が採用された。明治神宮宝物殿と同様に、日本伝統の木造建築を鉄筋コンクリートに置き換えた、形と技術の和洋折衷建築となっている[30]。鉄筋コンクリート造などの不燃式建築に和風瓦葺の屋根を載せた帝冠様式の代表的建築と紹介されることがある[31][32]。ただし、当建物については壁体の意匠が洋風でなく和風であるため帝冠様式に分類するのは誤りだとする研究者もいる[33]。 2001年に「旧東京帝室博物館本館」の名称で重要文化財に指定されている[34]。展示室は1・2階に計26室あり(普段閉鎖・転用されている室を含む)、中央の大階段を取り巻いて「ロ」の字状に展示室が配置されている。日本の絵画、彫刻、工芸、書跡が展示されている。独立行政法人化以降は「日本ギャラリー」の別称を付している。本館デザイン室の活動成果が評価され平成18年度「日本デザイン学会作品賞」を受賞。 2014年現在の陳列状況は以下の通りである。
東洋館谷口吉郎設計で、1968年(昭和43年)開館。中国、朝鮮半島をはじめ、東南アジア、インド、エジプトなどの美術品を展示している。展示室は13室(うち2室は展示はなく教育普及スペースとなっている)。独立行政法人化以降は「アジアギャラリー」の別称を付している。 耐震工事と展示設備のリニューアルのため2009年6月から2012年12月まで休館し、2013年1月2日に展示を再開した。東洋館の階数表示は、リニューアル以前には最上階が3階となっていたが、リニューアル後は従前の中2階と中3階を独立した階とみなし、最上階は5階と表示されている。また再開に伴って展示室の面積が3,409平方メートルから4,250平方メートルへ拡大されている。 2013年現在の陳列状況は以下の通りである。
表慶館1909年(明治42年)、東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚を祝う目的で開館した。設計は宮廷建築家の片山東熊(かたやまとうくま)。建物は重要文化財に指定されている。石造および煉瓦造2階建て、ネオ・バロック様式の建物で、中央と南北両端にドームがあり、中央のドームは吹き抜け、南北のドームの下は階段室になっている。正面入口左右のライオン像は大熊氏廣の作である。展示室は1階の左右に第1、2、7、8室、2階に第3 - 6室、1階の正面奥に第9室がある。当初は美術工芸の展示場とされ、第二次大戦後、平成館開館までは考古資料の展示に使われていた。2018年現在は企画展会場として利用されている[36]。 法隆寺宝物館1878年(明治11年)、法隆寺から皇室に献納された「法隆寺献納宝物」300件あまりを保存展示するため、1964年(昭和39年)に開館した。ただし、当初の建物は展示室と収蔵庫を兼ねていたため[37]、開館日は毎週木曜日に限られ、木曜日が雨天の場合は公開されなかった。現在の建物は2代目で、1999年開館。金銅仏などの材質堅固な作品は常設展示となり、館自体の休館日以外は天候にかかわらず毎日公開されている。設計は谷口吉生(東洋館設計者・谷口吉郎の子)。詳細は別項「法隆寺献納宝物」を参照。 正倉院宝物には、8世紀の作品を中心に展示されているのに対して、法隆寺宝物館では7世紀の宝物が展示されていることが特徴。 現在、1階は灌頂幡、金銅仏・光背・押出仏、伎楽面、2階は木・漆工、金工、絵画、書跡、染織の展示が行われている。 2018年現在の陳列状況は以下の通りである。
伎楽面の展示は、作品保護のため、金曜日・土曜日のみ公開されている。 平成館皇太子徳仁親王(浩宮)の成婚を記念して1999年(平成11年)に開館。1階は考古資料展示室と企画展示室、大講堂などがあり、2階は4室からなり特別展会場となっている。 庭園本館裏には池を中心とする庭園があり、旧寛永寺庭園の名残をとどめるものである。庭園は春・秋などに期日を限って公開される。庭園内には以下の建物がある。
旧因州池田家表門旧因幡鳥取藩池田家の江戸屋敷の表門であり、江戸時代には大名小路(現在の丸の内3丁目)に建てられていた。それを明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建され、のちに当時の高輪東宮御所の正門として使用された。昭和26年、国の重要文化財に指定され、昭和29年に当博物館に移築され保管されている。入母屋造、門の左右に唐破風の番所を備えている。大名屋敷表門では東京大学の赤門と並び称されるもので、黒門とも呼ばれる。 その他構内には他に、資料館(図書、写真等の資料を収蔵)、旧十輪院宝蔵(重文)、筑前福岡藩黒田家の江戸上屋敷の雲紋鬼瓦、ジェンナー銅像などがある。レストランは東洋館附属棟と法隆寺宝物館にある。また、館内には社団法人日本工芸会の本部がある。 構外施設
組織と事業内容目的独立行政法人国立文化財機構法第3条は同法人の目的を「博物館を設置して、有形文化財(中略)を収集し、保管して公衆の観覧に供するとともに、文化財(中略)に関する調査及び研究等を行うことにより、貴重な国民的財産である文化財の保存及び活用を図ること」であるとしている。文化財の収集・展示とともに、調査研究活動が国立博物館の主要な活動であることがここに明示されている。 東京国立博物館には、館長、副館長のもとに営業開発部(渉外、経理など)、事業部(情報管理、教育普及事業、出版事業、特別展の企画など)、文化財部(展示、文化財の修復保存など)の3部が置かれている。 館長特別展平成館開館以前は年2回程度、以後は5,6回開催。特別展には館が独自に企画・主催するものと、新聞社・テレビ局などと共催のものとがある。後者には「ベルリンの至宝展」のように海外の美術館の所蔵品を紹介するもの、「国宝 興福寺展」のように、社寺の宝物を一堂に公開するものなどがある。博物館では館内における特別展のほか、館の所蔵品を広く紹介するための巡回展を、日本国内・国外の美術館で開催している。また、特別展より小規模なものとして「特別企画」が随時行われている。 教育普及事業平成館内の大講堂では月例講演会のほか、特別展開催時などに記念講演会が実施されている。「ギャラリートーク」は展示室において、実際の展示を見ながら専門家の解説を聞くもので、月2回程度開催されている。このほか「スクールプログラム」「一般向けプログラム」「ファミリー・子供向けプログラム」などとして、ボランティアによるガイドツアー、ワークショップなどが随時開催されている。博物館学芸員を目指す学生向けには「インターンシップ」、大学の教員・学生向けに「キャンパスメンバーズ」制度が設けられている。また、コンサート、落語、茶会などの催し物、台東区の他の社会教育施設などとの連携事業が随時開催されている。2007年(平成19年)4月には教育普及スペース「みどりのライオン」がオープンし、現在は本館1階の第20室を中心に教育普及活動を広げている[39]。 2012年(平成24年)には開館140周年を記念して、「トーハクくん」と「ユリノキちゃん」を公式キャラクターとして策定し、広報大使として活用している。トーハクくんは館所蔵の埴輪 踊る人々を、ユリノキちゃんは1881年(明治14年)から本館前に存在するユリノキの樹木をそれぞれモチーフしたものである[40]。 出版事業機関紙「東京国立博物館ニュース」(旧「国立博物館ニュース」)は1947年にタブロイド紙として創刊されたもので、現在は隔月発行となり、展示と催し物案内を主としている。 研究誌「MUSEUM」は、1951年に創刊された月刊誌で、館内外の研究者による論文を毎号3~4本ほど掲載している。 『東京国立博物館図版目録』博物館の膨大な所蔵品のジャンル別写真入り目録で、1960年に「浮世絵版画編 上」が刊行されて以来、刊行が継続されている。 上記のほか、名品図録、紀要、所蔵品の調査研究報告書などが刊行されている。 ミュージアムグッズミュージアムグッズは、日本を含む東洋の諸地域にわたる古美術および考古遺物などの文化財をもとにデザインされた布製品、文具・絵葉書等で、博物館内のミュージアムショップにて販売されている。また、日本各地の美術館や博物館で販売されているオリジナルグッズの先駆け的存在とも言われている。
コレクション東京国立博物館の収蔵品(館の用語では「列品」という)は約12万件[41]。これはあくまでも「点数」ではなく「件数」であって、考古資料などには1つの遺跡の出土品数百点が一括で「1件」と数えられている場合もあり、収蔵品の「点数」はさらに膨大なものとなる。館の収蔵品のほかに社寺、個人所蔵家などからの寄託品も2,500件程度ある[41]。収蔵品の入手経緯は、(1)明治初期以来、博物館の予算で購入してきたもの、(2)個人や団体からの寄贈品、(3)第二次世界大戦後に文化財保護委員会(のち文化庁)から管理換えされたものなどに分けられる。なお、いわゆる法隆寺献納宝物は1878年(明治11年)、法隆寺から当時の皇室に献納され、宮内省が管轄していたが、1947年(昭和22年)に国立博物館に移管されたものである。これらのうち平常展で展示されているのは約3,000件で[2]、展示替えも含めた年間総展示件数は約9,000件[4]。 収蔵品は、地域的には日本およびアジア諸国、時代的には先史時代からおおむね第二次世界大戦終戦頃までのものを収集・展示の対象としている。なお、日本の地域で制作されたもののうち、アイヌの人々の美術と琉球美術については独立した展示室があてられている。東洋美術は、日本と地理的に近く、文化的にも影響の大きい中国および朝鮮半島の美術に力点が置かれているが、他にエジプト、インド、東南アジア(ベトナム、タイ、クメールなど)、中近東(メソポタミアなど)、中央アジアなどの美術品が見られる。このほか、南太平洋諸島の民族美術、西洋近代の陶磁器やガラス製品なども収蔵されているが、通常は展示されていない。 いわゆる美術品の範疇に属するもの以外に、歴史資料、図書、写真資料も多く収蔵されている。収蔵する歴史資料の代表的なものとしては長崎奉行所キリシタン関係資料、江戸幕府が作成した絵地図(道中図)である「五海道其外分間延絵図並見取絵図」(ごかいどうそのほかぶんけんのべえず ならびに みとりえず)全80巻、伊能忠敬の測量図、日本初の文化財調査である壬申検査の関係資料、旧江戸城写真帖などがある。博物館構内西側に位置する資料館には、図書資料、江戸時代のものを中心とする古文献資料、拓本、絵図、地図などの歴史資料、写真やマイクロフィルムなどが収蔵され、研究者には閲覧の便が図られている。このほか、通常は陳列されていないが、帝室博物館時代に収集された世界の郵便切手も日本有数のコレクションである。 博物館の予算による列品の購入は、明治時代の博物館創設期から開始されている。考古部門の代表的収蔵品の1つである、熊本県江田船山古墳出土品一括(国宝)は、館創設の翌年である1873年(明治6年)に当時の白川県(現・熊本県)から購入したものである。また、平安絵画の名品とされる普賢菩薩像(国宝)、尾形光琳作の八橋蒔絵手箱(国宝)、本阿弥光悦作の舟橋蒔絵硯箱(国宝)は、博物館が現在地の上野公園に移る以前の1878~79年(明治11~12年)に購入されたものである。 館蔵品の充実には個人所蔵家の寄贈も大きく寄与している。中でも中国書画の高島コレクション(高嶋菊次郎寄贈)、中国陶磁の横河コレクション(横河民輔寄贈)、中国陶磁と茶道具が中心の広田コレクション(広田松繁寄贈)、朝鮮美術の小倉コレクション(小倉武之助収集、財団法人小倉コレクション保存会寄贈)などが著名である。寄贈品ではないが、松方幸次郎(西洋美術のコレクターとして知られる、1865-1950)の浮世絵コレクション約8,000点は一括して東京国立博物館に入っている[42]。 東京国立博物館に対し大きなコレクションの寄贈をしたり、没後に関係者からコレクションが寄贈された人物を列記すると以下のとおりである(五十音順)。
国宝の一覧
絵画仏画 大和絵・絵巻
室町水墨画 近世諸派
渡来画
書跡
工芸品
考古資料
法隆寺献納宝物→「法隆寺献納宝物」も参照
収蔵品より
問題運営予算不足の問題日本政府の文化予算は一貫して低く、2017年の文化予算はフランスの5分の1、韓国の3分の1であった[45]。東京国立博物館の年間予算は20億円とわずかであり[46]、ルーブル美術館の17分の1、大英博物館の5分の1、韓国国立中央博物館の3分の1である[45]。2023年時点で同博物館は電気料金の高騰などにより文化財の修理の延期や施設の光熱費の支払いに苦慮しており、同博物館は政府に予算の増額を要請しているが認められていない。館長はしばしばメディアで窮状を訴えている[46]。 韓国の返還要求→「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」を参照
韓国政府は、日本に略奪された文化財を当館が所蔵しているとして返還を要求した。他方、1960年代の日韓交渉の際の文部省調査によれば、当館所蔵の文化財はすべて正式に購入したものと答弁された。 利用情報交通アクセス、開館日・開館時間等の概要は以下のとおりである[47]。開館日等は臨時に変更する場合がある。詳細は博物館公式サイトを参照。 アクセス
開館日・開館時間
入館料
歴代館長帝室博物館総長
東京国立博物館館長
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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