平清盛
平 清盛(たいら の きよもり、旧字体:平󠄁 淸盛󠄁)は、平安時代末期の日本の武将、公卿、貴族、棟梁。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。 生涯伊勢平氏の嫡男永久6年1月18日[注 1](1118年2月10日)、清盛は伊勢平氏之棟梁で有る忠盛之嫡男として生誕。出身地は伊勢産品[1](現在之津市)と言う説が有力で有る。生母は不明だが、元々白河法皇に仕えた女房で、忠盛之妻と成った女性(『中右記』に寄ると保安元年(1120年)没)で有る可能性が高い。 『平家物語』の語り本系の諸本は白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて、清盛が生まれたとしている(いわゆる白河院落胤説)が、読み本系の延慶本では、清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている[注 2]。 また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』[3])は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している[注 3]。清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。 大治4年(1129年)正月、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任。これについて中御門宗忠は驚愕している[注 4][注 5]。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが[注 6]、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず[注 7]、令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえといわれる[6]。 若い頃の清盛は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟であった。高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。 保延3年(1137年)、平忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。 久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。 この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが、郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。 その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の平家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現した。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな平家盛が平氏の家督を継ぐ可能性もあった。 しかし、久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛が平氏の次の嫡流として本命視されるようになった。家盛の同母弟・頼盛は15歳の年齢差もあって清盛の統制下に入り、清盛も兄弟間の第二の者として接したが、経盛・教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた。 その後、清盛は安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになった。 仁平3年(1153年)、忠盛の死によって、清盛が平氏一門の棟梁となった。 保元の乱、平治の乱保元元年(1156年)の保元の乱では義母・池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であったため清盛の立場は難しいものであった。それでも清盛は、平家一門の結束に努め後白河天皇側について戦い、勝利をもたらした。乱後には播磨守・大宰大弐に任じられた。また、保元の乱で敵対した叔父の平忠正の処刑を自らの手で行っている。 信西と藤原信頼・二条親政派の対立では、清盛は中立的立場を取っていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗・葉室惟方などの反信西派を一掃して、自身の政治的地位を高めていった。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の基礎を作った。
平氏の全盛期継室の時子が二条天皇の乳母であったことから清盛は天皇の乳父として後見役となった。また時子の妹平滋子(建春門院)は後白河上皇お気に入りの寵姫であり、院との間にも強いパイプを持つこととなった。 清盛は検非違使別当・大納言に昇進した上に院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。 久寿2年(1155年)、時子との間に徳子(後の建礼門院)が生まれた。後の承安元年(1171年)には後白河法皇の猶子として入内することになる。 応保元年(1161年)9月、後白河上皇と滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、滋子の弟平時忠・平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して平時忠を出雲へ左遷、後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。 翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、6月には平時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。 院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院(三十三間堂)を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。 後継者の六条天皇は幼少であり、近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。 永万2年(1166年)7月26日、摂政・藤氏長者の近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・松殿基房が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は近衛家の家司藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した[7]。 10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。 仁安2年(1167年)2月、清盛は太政大臣になるが[注 8]、清盛は福原開拓に専念する為、わずか3ヶ月で太政大臣を辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。 仁安3年(1168年)2月7日に清盛は病に倒れ、3月に出家する。『玉葉』によると、その時の病名は「寸白(すばく)」であり、清盛は一ヶ月以上も病の床についた[8]。寸白は中国では元来条虫症を指すが、当時の日本では様々な症状の病気が寸白と呼ばれていた[8]。清盛に付いたのは本人の証言に基づけば絛虫(さなだむし)であった[要出典]。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。 病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願であった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に専念した。 嘉応元年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。 この頃は、後白河法皇が福原を訪れ、宋人に面会し、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にした。 『平家物語』では義弟の時忠が「この一門にあらざる者は皆人非人なり」と言ったとしており、これは、その後の「平家にあらずんば人にあらず」という慣用句で知られる。 平氏に対する不満ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、安元2年(1176年)の建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。 治承元年(1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀が起こった。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、藤原成親は重盛の悲願によって死罪は免れ備前国へ流罪[注 9]、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある[注 10]。 治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。(近衛基実の正室は盛子であったため、基実の死後領地を所有していた。) さらに7月、平重盛が42歳で病死した。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。 11月14日、ついに清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる「治承三年の政変」であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。 後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。 その後、清盛は、後の処置を平宗盛に委ねて、また福原に戻った。しかし、院政停止後の政権構想は拙いものであった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛・花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・四条隆季・土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。 治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政であったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになった。 反乱の狼煙→詳細は「治承・寿永の乱」を参照
平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵であった。以仁王は優秀であったが、平氏方である建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会をうかがっていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。(詳細は、以仁王の挙兵を参照) 以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺もこの動きに同調した。この計画は未然に発覚し、清盛の手早い対策により、検非違使で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。 しかし、寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあった。 そこで、清盛は有力寺社に囲まれて平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月に一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)を臨む地への遷都を目指して、福原行幸を強行した。 しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。 これに対して、清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした平家の大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに平家軍は撤退してしまった。 この平家軍の敗戦を契機に、寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始めた。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発した。 高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも福原への遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は平安京に還都した。 12月になると、清盛は平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる平家の軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功した(近江攻防)。 次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。清盛は背後の脅威を一掃することを決め、重衡を総大将とした平家の大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺を焼き払った。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、この南都焼討では数千もの民衆が犠牲となり、東大寺大仏殿と大仏を焼失、大破させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。 最期
治承4年(1180年)末までには、平氏の勢力基盤である西国においても伊予国の河野通清・通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国の緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢国・志摩国においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった佐竹秀義などが頼朝によって討伐された。 このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに、越後国の城資永と陸奥国の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。 治承5年(1181年)2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かうことが決められていたが、清盛は27日に病に倒れ、閏2月4日、鴨川東岸にある盛国の屋敷(※後述)で死亡した。享年64。 死の直前、自分の死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残したとされる。 『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した[注 14]。 清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の平宗盛が継いだ。しかし、宗盛は全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政方も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なった。寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に為す術無く都落ちする。そして、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。 死因について清盛の病名、死因については様々な意見、記述、仮説がある。 九条兼実の日記『玉葉』では、治承5年2月27日に「治承五年二月二十七日 禅門(清盛)頭風を病むと云々」、閏2月3日に「閏二月三日 禅門の所悩、殊に進み」、2月4日に「四日 夜に入り伝へ聞く、禅門薨去す」という記述があり、閏2月1日には清盛は早くも重態となっている[11][12]。 藤原定家の日記『明月記』では、「去る夜戌の時(午後8時)、入道前太政大臣已に薨ずるの由、所々より其の告げあり。或は云ふ、臨終動熱悶絶の由」という記述があり[12]、その死に際して、この「動熱悶絶の由」という噂があったと記録されている[13]。 『百錬抄』では「日来所悩有り、身熱火の如し」であったとして、東大寺と興福寺を焼いた報いであったと記述されている[13]。 『平家物語』延慶本では、「病付き給ひける日より,水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中へ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希也。宣ふ事とては、「あたあた」と計り也。(病についた日から水も飲めないようになり、体が火のように熱くなった。病室に入った者は熱さに耐えられないので、近くによるものもなかった。清盛は「熱い熱い」というばかりであった)」とし、「「悶絶躃地して、七日と申ししに、終にあつち死にに死にけり(悶絶して7日のうちに、あっち死に[注 15]してしまった)」としている[15]。 これらの描写から、その後の江戸時代の『誹風柳多留』初編で「清盛の医者ははだかで脈を取り」と揶揄されたように、清盛の死因は熱病であったと考えられてきた。 現代の小説家である吉川英治の『新・平家物語』では、「潜伏瘧(間欠熱、マラリア)」であるとしており、森村誠一も同様に見ている[16]。病態病理学・微生物学者である早川智も、最も受け入れやすいのはマラリアであるとしている[12]。マラリアは熱帯病であるが、かつては広く温帯に分布し、日本でも8世紀初頭の大宝律令で「瘧」として、10世紀の『倭名類聚鈔』に「衣夜美」「和良波夜美」の名で記載されている[12]。早川は後白河法皇の死の原因もマラリアであるとしている[12]。 海音寺潮五郎や吉屋信子は「頭風」に着目し、脳出血ではないかとしている。 医学史研究家の服部敏良は風邪が原因の肺炎であるとしており、脳神経外科医の若林利光は風邪から髄膜炎を起こしたのではないかとみている[14]。医師・作家の篠田達明は溶血性レンサ球菌感染症ではないかとしている[14]。 中世史家の元木泰雄は、清盛と親しかった藤原邦綱が同時期に発病して死んだことから、何らかの感染症であったのではないかとしている[14][17]。 死没地清盛の死没地については『吾妻鏡』の記す「九条河原口盛国家」が最も重要な拠り所であり、これを根拠として、鴨川東岸にあった平盛国の屋敷であると、長らくそのように語られてきた。 しかし、平成元年(1989年)、「九条河原口盛国家」の「盛国家」は平盛国邸ではなく権大納言・藤原邦綱の父・右馬権助盛国(藤原盛国)の屋敷であるとの説を、上横手雅敬が提唱した[18]。 次いで平成17年(2005年)、今度は高橋昌明が、鴨川東岸の平盛国邸が憲仁親王(高倉天皇)の生誕地でもあることを手掛かりに照合した結果、「九条」は「八条」の誤記であろうとの見解を表明した[19]。八条河原口であれば、鴨川を挟んだ対岸に後白河院御所(法住寺殿御所)、西に西八条第(清盛邸。別称:八条亭)、北北東に六波羅が位置しており、また、西八条第および六波羅とはほぼ等距離にあるため、平氏の家政を預かる盛国の屋敷としては最適所と言える[19]。 なお、『平家物語』「慈心坊」の巻6 には、清盛の葬送の夜、拍子をとって舞い踊りながらどっと笑う2、30人の声が法住寺殿のほうからしたとの記述がある。また、『百錬抄』の養和元年閏2月4日条には、より具体的に、法住寺殿の最勝光院から今様乱舞の声が聞こえてきたとある。八条河原口からはそれを確かに聴くことができるが、九条河原口では距離がありすぎてこの逸話は成立し得ない。 人物・評価
経歴
墓所ここでは、清盛の墓所と伝えられている場所を記載する。
系譜清盛は山城国の京都または伊勢国の産品(うぶしな)の生まれとされる。桓武天皇の孫・平高望(たかもち)の子孫で、坂東の桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏の一族。 桓武天皇-葛原親王-高見王-平高望-平国香-平貞盛-平維衡-平正度-平正衡-平正盛-平忠盛-平清盛 平忠盛の長男。『公卿補任』の記事から逆算すると、元永元年(1118年)の誕生となる。『中右記』保安元年(1120年)7月12日条の「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事により忠盛の妻が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房であったことがわかり、この女性が清盛の母である可能性がある。語り本系の『平家物語』は、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている(いわゆる落胤説)。しかし、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。同じ『平家物語』でも読み本系の延慶本は、清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている。また、明治26年(1893年)に発見された滋賀県・胡宮神社所蔵の『仏舎利相承系図』(文暦2年(1235年)の日付を持つ)には、清盛の母「女房」は祇園女御の妹であり、姉の祇園女御が清盛を「猶子」として白河院所有の仏舎利を清盛に伝えたことが記されている[注 16]。
史料関連作品作品に当たらない、日記、研究書、研究書的文献などは、「史料」「参考文献」「関連文献」のいずれかに記載する。 近世以前ここでは、近世以前(江戸時代以前)に著された全ての関連作品のうち、特筆性の高いものを挙げる。
文芸の分野の作品で、ここに挙げるものは全て軍記物語である。
明治以降ここでは、明治時代以降に著された全ての関連作品から、平清盛を主題とした創作性の高い作品に絞って記載する。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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