石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
社名
別名として、
- 石上振神宮[1]
- 石上坐布都御魂神社
- 石上布都御魂神社
- 石上布都大神社
- 石上神社
- 石上社
- 布留社
- 岩上大明神
- 布留大明神
などがある。幕末 - 明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた[2]。
なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。
祭神
- 主祭神
-
- 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。
- 配神
-
歴史
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称している。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている[誰によって?]。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。[要出典]
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
社伝ではまた一方で、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。
垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦23年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。
神階は嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観9年(868年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し容易には開かないと記されている。
中世以降は布留郷の鎮守となり、当社の神宮寺である内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺院)と共に栄えた。しかし、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発し、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に押され、多くの神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えなかった[要出典]。
江戸時代には「西の日光」と呼ばれた内山永久寺が明治時代になって廃寺とされるも、当社は1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年(明治7年)の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年(明治11年)の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年(大正2年)には本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
翌、1914年(大正3年)には旧内山永久寺の地に残されていた住吉神社の拝殿を移築し、摂社・出雲建雄神社の拝殿としている。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
境内
摂末社
摂社
上記4社は拝殿よりも南であるが、石段の上の隣接した高い位置にある。そのため拝殿前の中庭から見ると、楼門がまるで4社の楼門であるかの様に見える。なお、斎宮が居た場所は上記4社(西向)の真裏(東隣)と伝えられる。[独自研究?]
末社
- 神田神社
- 祓戸神社(聖域につき神職者以外は参拝不可)
- 恵比須神社 - 境外末社
祭事
祭事一覧
- 1月
- 2月
- 節分前夜 玉の緒祭
- 節分当日 節分祭
- 19日 祈年祭
- 4月
- 5月
- 6月
- 9月
- 10月
- 11月
- 11月
- 12月
- 8日 お火焚祭
- 23日 天長祭
- 31日 神庫祭、大祓式、除夜祭
- 毎月1日・15日 月次祭
文化財
国宝
- 拝殿(建造物) - 鎌倉時代前期の造営。1906年(明治39年)4月14日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づき国宝に指定[7]。
- 摂社出雲建雄神社拝殿(建造物) - 鎌倉時代後期、正安2年(1300年)の造営。1916年(大正5年)5月24日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づき国宝に指定[8]。
- 七支刀(考古資料) - 石上神宮伝世品。両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。金象嵌で記された銘文の中に「泰□四年」の年紀があるが、「泰和」と解釈して「太和4年(369年)」に比定する説があり、その頃の百済での作と推定される。かつては神剣渡御祭(でんでん祭)で持ち出され、祭儀の中心的役割を果たした(詳細は「七支刀」を参照)。1949年(昭和24年)5月30日に国の重要文化財に指定、1953年(昭和28年)11月14日に文化財保護法に基づき国宝に指定[9]。
重要文化財
- 楼門(建造物) - 1906年(明治39年)4月14日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により重要文化財に指定[10]。
- 色々威腹巻 兜・壺袖付(工芸品) - 1901年(明治34年)3月27日指定[11]。神宮の記録には足利尊氏が奉納した甲冑が存在したことが見え、「色々威腹巻」がそれに当たるとされる[12]。現状では、背中で引き合わせて着用する腹巻形式の胴鎧に、肩と上腕部を守る袖と星兜、喉輪が合わさり、室町時代の作とされているが[11]、実際は各部品とも製作年代がそれぞれ異なる別個のもので、近代の(旧)国宝指定に際しての修復により一揃いとされた経緯を有する[13]。星兜のうち鉢の部分は南北朝時代の製作とみられ、同甲冑の中で最も古く精巧であるが、修理により後頭部を保護するシコロは室町時代後期のものが取り付けられている[14]。胴の威毛は紅・萌黄・白・紫の4色の組紐を用いており、「色々威」の名称はこれに由来する[13]。甲冑研究家の山上八郎は、戦前に神宮を調査した時に緋色の威毛断片を確認したとして、尊氏が奉納したのは緋威の大鎧で、現在腹巻に付く星兜も本来その一部だったのが、経年で大鎧が破損して鉢と威毛が残ったのではないかと推測している[12]。なお、山上は、大正時代に甲冑愛好を趣味とした画家の2代目五姓田芳柳から聞いた話として、当時、時代の異なる部品を組み合わせて揃いの甲冑一領に仕立てることは、識者の間では「石上式」と呼ばれ侮蔑の対象であったと述べている[12]。
- 鉄盾 2枚(考古資料) - 古墳時代の作で、石上神宮伝世品。元禄12年(1699年)成立の『石上大明神縁起 坤』には盾は3枚あったと記されており、1枚は失われたようである。大きい方[15]は石上神宮保管、小さい方[16]は東京国立博物館に寄託されている。盾の模様は、一部の木盾や革盾で用いられる鍵手文を踏襲している[17]。一見すると両者はそっくりだが、石上神宮保管品は鍵手文をよく理解しており、制作手順が規則的で、鋲の直径が5mmと3mmのものが混在し、鉄板の厚さは2.4mmである一方で、東博寄託品は鍵手文の理解が不足しており、制作手順に規則性が見られず、鋲の直径は5〜6mmで一定し、厚さは約3mmと前者より2割ほど厚い。そのため、東博寄託品の方が少し後に作られたと考えられる。また、中世の石上神宮では、強訴などで鉄盾を持ち出すこともあったことから、当時、強訴での使用により破損・破棄された盾を補うため、古墳時代に作られた神宮保管品を手本として東博寄託品が製作されたとする説がある[18]。昭和24年5月30日指定[19]。
- 石上神宮禁足地出土品(考古資料) - 明細は以下。奈良国立博物館に寄託。1897年(明治30年)12月28日「勾玉類11箇」として指定[20]、昭和33年2月8日追加指定[21]。
- 硬玉勾玉 11箇
- 碧玉管玉 一括
- 硬玉棗玉等 10箇
- 碧玉琴柱形石製品 1箇
- 金銅鐶 3箇
- 金銅垂飾品 1箇
- 環頭大刀柄頭 1箇
- 銅鏃 2本
- (附指定)金銅球形製品 1箇
- (附指定)銅鏡 2面
- (附指定)鏡形銅製品 2面
奈良県指定有形文化財
- 太刀「銘義憲作」(工芸品) - 「小狐丸」の号がある。1953年(昭和28年)3月23日指定[22]。
- 彩絵羯鼓胴・黒漆鼓胴(工芸品)
- 須恵大甕(考古資料) - 1959年(昭和34年)7月23日指定[22]。
奈良県指定天然記念物
奈良県指定有形民俗文化財
その他
- 朱札紅糸素懸威鉄腹巻
- 黒塗練革星兜鉢 - 鎌倉時代前期の作とみられる。兜鉢の素材は原則として鉄であったが、革で作られることもあり、本品はその現存最古の例である[23]。2枚以上の牛革を膠水に浸した後に打ち固めた「練革」を半球状に成形し、かつ表面に鉄線や鉄鋲を取り付けて黒漆を塗り、8枚張の鉄製星兜鉢のように見せている[23]。頭頂部に4センチメートルの穴が開けられるのは烏帽子を被せた髻を引き出して着用する手法のためで、このことと飾金具を設けない点から鎌倉時代前期の下級武士の品と推測されている[23]。
- 十六間筋兜鉢
忌火職
皇室・出雲国造と同じく、世襲の忌火(いんび)職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として、代々森家が務めた。現在[いつ?]の宮司も森家出身。[要出典]
忌火とは、本来神饌を煮炊きする、火鑽(ひきり)によって得た神聖な火の意味。石上神宮の長官職を意味し、皇室の大嘗祭、出雲国造の火継式(神火相続式)に似た、神主の忌火成り神事が行われた。
酒殿社(現存せず。柿本人麻呂の碑の西にあった。[要出典]同地より、胴径160cmの巨大な古墳時代の須恵器大甕が発掘されている。[要出典])に臨時の清浄殿が設けられ、神主はそこに籠もり、忌火が鑽り出され、その火によって神聖な食事をし、現人神となった神主は、比礼(千早?)を肩に掛け、布留山の榊・梅の楚(すわえ:若枝のこと)を持って行進し、忌火になったことを示した[要出典]。
前後の札所
- 神仏霊場巡拝の道
- 18 帯解寺 - 19 石上神宮 - 20 大和神社
現地情報
所在地
交通アクセス
- 天理駅(近鉄・JR)から
- 徒歩:約30分
- バス:奈良交通バス 苣原(ちしゃわら)経由 国道針行きまたは針インター行きで「石上神宮前」バス停下車 (下車後徒歩5分) - 1日3~4往復の運行。
脚注
- ^ 日本書紀巻12、履中天皇代に拠る
- ^ 天理教の初期資料[要出典]より。
- ^ 鶏始乳の意味
- ^ ニワトリ
- ^ 天理市のパワースポット石上神宮~武具と鶏に彩られた不思議な空間
- ^ 天神社は西面に、七座社は北面に向き建立され、古来より神宮の鎮魂祭に関係が深く創建時より現存地に鎮座するとされる[要出典]。
- ^ 石上神宮拝殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 七支刀 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 石上神宮楼門 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b 色々威腹巻〈兜、壺袖付/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b c 山上八郎『日本甲冑100選』p. 114 - 115(秋田書店、1974年)
- ^ a b 『石上神宮宝物誌』p. 58 - 64、2020年4月25日閲覧。
- ^ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 197 - 198(秋田書店、1974年)、山岸素夫執筆分を含む。
- ^ 縦143.0cm、上幅73.6cm、中央幅67.6cm、下幅79.7cm。鉄鋲数約900個。
- ^ 縦140.4cm、上幅70.5cm、中央幅65.0cm、下幅77.4cm。鉄鋲数約650個。
- ^ 櫻井久之 「鍵手文の盾 ―文様から見た石上神宮鉄盾の出現背景―」『大阪歴史博物館 研究紀要 第5号』 2006年10月30日、pp.41-62。
- ^ 伊藤純 「石上神宮鉄盾観察記 ―適切な展示で判ったこと―」『大阪歴史博物館 研究紀要 第4号』 2005年10月30日、pp.13-21。同 『歴史探索の面白さ―近世の人々と歴史観―』 和泉書院〈和泉選書185〉、2017年4月1日、pp.186-197。
- ^ 鉄盾 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 文部省宗教局保存課編・刊行『国宝(宝物類)目録』、1940、p.370(参照:[1])
- ^ 昭和33年2月8日文化財保護委員会告示第9号
- ^ a b c d e 『天理市文化財・遺跡分布地図 天理市内の指定文化財』 天理市教育委員会、2016年、pp. 46-47。
- ^ a b c 山上八郎『日本甲冑100選』p. 162 - 163(秋田書店、1974年)、山岸素夫執筆分を含む。
参考文献
- 『日本「神社」総覧最新版』(1996年、新人物往来社)
- 『石上神宮』(1999年、石上神宮社務所)
- 和田萃編『古代を考える 山辺の道 古墳・氏族・寺社』(石上神宮禰宜白井伊佐牟、1999年、吉川弘文館)
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』8号(石上神宮 天理大学)、朝日新聞社、1997
関連項目
外部サイト
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