野坂昭如
野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年〈昭和5年〉10月10日 - 2015年〈平成27年〉12月9日[2])は、日本の小説家、歌手、作詞家、タレント、政治家。参議院議員(1期、任期途中で退職)を歴任した。 神奈川県鎌倉市で生まれる。程なく生母が亡くなり、兵庫県神戸市の親戚宅の養子に。空襲で養父を失い、疎開先で妹を栄養失調で亡くし放浪した。こうした体験から、「焼跡闇市派」を自称する。 早大仏文科中退。在学中からコント・テレビの台本、CMソングの作詞などで活躍。 『エロ事師たち』(1963年)で小説家デビュー。妹への贖罪から書いた『火垂るの墓』(1967年)、占領下の世相を描いた『アメリカひじき』(1967年)で直木賞受賞。コラムニストやコメンテーターとしても活躍した。 放送作家としての別名は阿木 由起夫(あき ゆきお)[注釈 1]、シャンソン歌手としての別名はクロード 野坂(クロード のさか)、落語家としての高座名は立川 天皇[3](たてかわ てんのう)。 経歴生い立ち父は土木技師で戦後に新潟県副知事を務めた野坂相如(すけゆき)[4]。当時野坂家の住いは東京市麹町区隼町だったが、産み月近くなって両親が別居。昭如は神奈川県鎌倉市小町で誕生した。実母ぬいは自身を産んだ2月後に死別。生後半年で神戸の張満谷(はりまや)家へ養子に出される。 11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が養子であることを知り、後には妹2人も別々に養子として入る。 その後、上の妹を病気で、1945年の神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県春江町(現坂井市)で栄養失調で亡くした[5]。後に福井県で妹を亡くした経験から贖罪のつもりで『火垂るの墓』を記した。終戦時から大阪府守口市などを2年間転々とする。 なお、『火垂るの墓』の後、「空襲で父母をなくした」と長らく詐称していたが、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は大怪我をしながら生きており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった。(1973年発表の「アドリブ自叙伝」で告白)。 学生時代養祖母と養母と昭如は、守口市の親戚宅に頼ってくらしていた。 旧制大阪市立中学校在学中の17歳の1947年10月、養母の実家を頼り上京。しかし、11月に窃盗をはたらき、多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、野坂姓に戻る。旧制新潟高等学校文乙(ドイツ語クラス)に編入。なお、旧制高校文甲(英語クラス)の上級生に丸谷才一がいた。 旧制高校在学中に学制改革が起き、1949年に新制新潟大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、シャンソン歌手を志して早稲田大学第一文学部仏文科に入学。早稲田大学時代の友人には中島敏行(詩人、皆生温泉の旅宿「海潮園」主人)、斎藤保(のち新聞記者)らがいた。新潟の禅寺・大栄寺で修行した後、父の参議院出馬にスタッフとして参加。 業界入り1955年に再上京し、友人の紹介で写譜屋を開始。暮れに三木鶏郎音楽事務所の事務員となる[6]。寺での修行もあり、掃除が得意だったことが鶏郎に気に入られたという[7]。 1956年、鶏郎が有限会社冗談工房を発足(社長・永六輔)。専務職に就くが実質業務は鶏郎のマネージャーだった。経理ミスが発覚し、マネージャーをクビとなる(永六輔は「野坂の使い込みがひどくて会社が傾いた」と発言しており[8]、野坂自身も使い込みの事実を認め、警察の追及を恐れて使い込みの公訴時効を六法全書で調べたことがあると述べている[9])。この年、大学を中退する[6][注釈 2]。 1957年、27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由起夫[注釈 1]の筆名で放送作家としてコントを量産。いずみたくと組んでCMソング作詞家として活躍[6]。作詞家としては「おもちゃのチャチャチャ」の第5回日本レコード大賞童謡賞の受賞、放送局初のPRソング「OBCソング」を作詞している。 小林信彦編集の雑誌『ヒッチコック・マガジン』の表紙のモデルもつとめた。この作家デビュー前の時期、雑誌『奇譚クラブ』に「戸山一彦」名義で寄稿していたことが、元編集者・飯田豊一により証言されている[10]。 60年安保闘争当時、野末陳平と漫才師コンビ「ワセダ中退・落第(わせだちゅうたい・らくだい)」を組んで一時期活動していた[11][12]。 作家、歌手、タレント、政治家として一方、雑誌等でコラムも発表し、1962年に刊行した『プレイボーイ入門』で「元祖プレイボーイ」として脚光を浴びる。また、ブルーフィルムを集めて自宅で上映することも、趣味兼副業として行っており、その体験から書いた小説『エロ事師たち』で1963年に作家デビューする。 1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗り、その体験から既存の右翼・左翼それぞれを批判していく評論活動を行う。 1970年には言論出版妨害事件の表面化に伴い、他の作家とともに創価学会系の出版物への執筆拒否を表明。「潮」に連載していた小説の連載を打ち切った[13]。 また、講談社の編集者・大村彦次郎と「酔狂連」というグループを結成。メンバーは、当時の若手作家である筒井康隆、田中小実昌、長部日出雄、小中陽太郎、泉大八、滝田ゆう、後藤明生、佐木隆三、阿部牧郎、華房良輔、黒田征太郎、吉村平吉、揚野浩、村松博雄、安達瞳子(華道家)、金井美恵子ら。「中華そばの屋台の引き方」や「チャルメラの吹き方」を習うなど、まさに酔狂な遊びをした。 作家としてはその後、1985年『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞受賞、1997年に『同心円』で吉川英治文学賞受賞、2002年に『文壇』およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。 1972年、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』7月号に「四畳半襖の下張」(永井荷風著)を掲載。同年8月21日、刑法175条「猥褻文書の販売」違反で書類送検された[14]。 1973年2月21日に起訴。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。 この頃、今東光を会長とする無頼派作家の集まり「野良犬会」のメンバーとなる。副会長柴田錬三郎、メンバーに、黒岩重吾、戸川昌子、吉行淳之介、井上ひさし、梶山季之など[15]。 また、1970年代、ラグビー日本代表だった原進との親交があり、近鉄ラグビー部社員を退職後、野坂が主宰した草ラグビーチームのコーチを務めた[16] のち、プロレスラーとして国際プロレスに入団・デビューするにあたり、「阿修羅・原」のリングネームを命名したこともあった[17]。 1983年6月の第13回参議院議員通常選挙に、第二院クラブの比例代表名簿1位として立候補し[注釈 3]、同党が1議席を得たことで参議院議員に当選した。 この間、野坂が国会で発言した会議は内閣委員会が1度、災害対策特別委員会が2度である[18]。このうち、8月11日の災害対策特別委員会では、質問の順番が最後だったこと[注釈 4]と、そこまでの質問に対する政府答弁への不満(「天才的要領を得ないお返事」と表現している)から、「いまさら僕が質問を重複してみても、新しい見解とか具体的な方策を引き出すことはとても無理だと思いますので、僕自身は質問を取りやめます」と質問をしなかった。また、10月19日の同委員会では国土庁長官の加藤六月の答弁中に「建設省に伺いたい」と発言、答弁が終わるまで待つように委員長から求められると「延々とあんなこと聞いていたってしようがない。だから僕は建設省に伺いたいわけです」と答えた。この質問では、野坂は火山噴火のあった三宅島の議員視察に同行したことに言及し、視察が形式的なものだったことを批判して「やめた方がいい」と述べている。 しかし参議院議員当選から約半年後、元首相の田中角栄がロッキード事件の1審公判において実刑判決を受けたことが契機となり衆議院が解散された(「田中判決解散」)。野坂は同年12月3日公示の第37回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から立候補したことにより、同日付で公職選挙法の規定により、在職約5か月ほどで参議院議員を退職(自動失職)となった[注釈 5]。野坂は、田中角栄に挑む形で同じ新潟3区から無所属で立候補し、全国的な注目を集めたが、遊説中に暴漢に斬りつけられるアクシデントにも見舞われ、22万票余りを獲得した田中を脅かすには至らず、約2万8千票を獲得したものの、他の改選候補の議席も奪えずに次点で落選した。 2009年、新潟市が主催する安吾賞の新潟市特別賞を受賞した[19]。 政治活動
晩年2003年5月26日、72歳のときに脳梗塞で倒れてからはリハビリを続けながら[20] 執筆活動を行ない、テレビ・ラジオには出演しなかった[要出典]テレビ・ラジオには出演しなかったが、TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』『六輔七転八倒九十分』の「野坂昭如さんからの手紙」というコーナー[21] で12年間、毎週近況を報告し、月刊誌『新潮45』に「だまし庵日記」(2016年1月号まで、絶筆となる)[22]、『毎日新聞』に隔週で「七転び八起き」(2015年3月まで)[23]、『週刊プレイボーイ』に「ニッポンへの遺言」(2009年7月13日号まで)を執筆した。妻が撮影した写真が掲載されていた。 2015年12月9日、自宅で意識が無い状態にあったのを発見され都内の病院に搬送されたが、同日午後10時37分ごろに心不全による死亡が確認された。85歳没[2][23]。 人物像文壇界きっての犬猫好き、酒好きである。酒に関しては、高校時代に酔っ払って真っ裸で深夜の街を歩いたり、また大学時代に酔っ払って教室の窓から入ったり、などの武勇伝を残している。その後、1952年に自主的に精神病院に入院して治療をしてからは、酒乱の癖はおさまったという。また、「趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号」の付録「文壇酒徒番附」において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみに、東方大関三浦哲郎、池波正太郎、西方横綱梶山季之、黒岩重吾、大関吉行淳之介、瀬戸内晴美などがいる。 1990年10月23日、映画監督大島渚の真珠婚式パーティーで挨拶を行う予定であったが、野坂が帰ったと勘違いした大島が野坂の順番を飛ばして進行したために、当初の予定より出番が大幅に遅れてしまい、その間に大量に飲酒し酩酊してしまった。ようやく登壇し祝辞を終えると同時に、左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島の顎にきれいに入る右フックを食らわすが、大島も負けじとマイクで野坂の顔面を2発殴った。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪して和解した。また野坂も大島へ謝罪文を送り、大島の妻である小山明子にはお詫びの品としてブラウスが野坂から贈られた[24]。 農業の重要さを訴え、自身で米を作る活動も実施。「ゴルフのような軟弱なスポーツは嫌いだ」と、中年になってからラグビーやキックボクシングを始めている。 2000年から東京・阿佐ヶ谷で「野坂塾」を開塾し、戦争体験などを語っていた。だが、2003年に脳梗塞で倒れて以来、闘病生活を送っていた。 麺類、特に蕎麦が好きで、鴨南蛮が好物である。宝島の『VOW』に投稿経験あり。 サングラスと煙草がトレードマークであった[25]。 放送作家・野坂昭如日本のテレビ黎明期(1950年代から1960年代)において放送作家として活躍した。放送作家としての筆名は阿木由起夫[注釈 1]。一度だけ『シャボン玉ホリデー』の台本を書いたが、いくつかの歌の曲名と「板がズラッと並んでいる。これがホントのイタズラ」といったつまらない駄洒落を3つ4つ並べただけで全く使い物にならないため、仕方なく青島幸男が書き直したという。 歌手・野坂昭如作家・野坂昭如は1950年代から歌手活動もしている。歌手名はクロード野坂。歌手名の「クロード」は「玄人」をもじったものであり、「シロウトではないという意味」[26] だとされる。1969年にレコードデビュー。「マリリン・モンロー・ノーリターン」「黒の舟唄」「バージン・ブルース」や、本人出演の「サントリーゴールド」CM曲である「ソ・ソ・ソクラテス(ソクラテスの唄)」が代表曲。 「黒の舟唄」は元はヴァージン・レコードから3000枚限定でプレスされた自主制作盤『鬱と躁』の収録曲で、その後1971年2月10日、日本コロムビアからシングルとして発売されヒットした[27]。後に多くの歌手にカバーされており、中でも長谷川きよしのカバーがよく知られている[27]。「黒の舟唄」は1980年放送の桃屋「ごはんですよ!」のテレビCM「思い出のフォーク篇」においても使用された[28]。 「バージン・ブルース」は戸川純のカバーでも知られる。また「バージン・ブルース」はその曲をモチーフに、藤田敏八監督により同題の映画化がされており、野坂もゲスト出演して歌を歌っている。また、野坂と同じく作家・音楽家として活動する中原昌也も暴力温泉芸者名義のアルバムで「黒の舟唄」と「サメに喰われた娘」の2曲をカバーしている。 1970年代には大学の学園祭の人気ゲストであり、女子大で四文字言葉を連発するなど挑発的なステージであった。その模様は大森一樹監督の自主映画『暗くなるまで待てない!』(1975年)にも収録されている。永六輔・小沢昭一と「中年御三家」を名乗り、1974年には日本武道館でコンサートをするなど不定期で舞台に立った。クレイジーケンバンドのライヴにもゲスト出演し共演を果たしている。その様子はライヴ盤『CKBライヴ 青山246深夜族の夜 ~ Special Guest 野坂昭如』にも収録されている。 また、時折ちりばめられる冗談なのか本気なのか紙一重の野坂独特のユーモアは、時にシュールなものとして、1990年代以降、珍曲マニアなどの好事家に注目・支持された。1999年には幻の名盤解放同盟編纂の『幻の名盤解放歌集 絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リターン』がPヴァインより発売された。 CMソング「ダニアースの唄」(1998年2月21日発売)ではCM中の衝撃的な野坂本人による畳のコスプレもさることながら、極めてインパクトの強烈な歌詞と歌唱がカルト的な人気を呼んだ。オリジナルバージョンとリミックスバージョンの二種類がリリースされたが、今では既に廃盤となったこれらのCDシングル盤は、ネットオークションに出品された際には数千円から数万円程度のプレミアム価格で取り引きされている。 西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が大ヒットした時、それに対抗して「Y.W.C.A.」なるカバー曲を発表。しかしライブ版(『野坂昭如 昭和ヒトケタ二度目の敗戦コンサート』収録)にもかかわらず泥酔状態で歌詞を間違えるわ、歌を女性コーラスに任せっぱなしにするわ、本人はただ喚いているだけなどやりたい放題。その上歌詞の途中「Y.M.C.A.」に対抗した曲にもかかわらず合いの手として「わい、えむ、しー、えい!(YMCA)」と発言している。後にこの歌がラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(TBSラジオ)で紹介され、リスナーの爆笑を誘う。 作詞家・野坂昭如作詞活動の実績もある。特に1950年代後半から1960年代前半にかけてCMソングを多く作詞した。
タレント・野坂昭如
『おはよう!ナイスデイ金曜日』(フジテレビ)、『EXテレビ木曜日』(よみうりテレビ)、『ビートたけしのTVタックル』、『朝まで生テレビ!』(共にテレビ朝日系)などのテレビ番組へ出演。もっとも、酩酊状態で登場することが多かった。 1986年、『オールナイトフジ』(フジテレビ)の生放送中のスタジオに突然現れ(正規のゲスト出演ではない)、レギュラー出演していたとんねるずら若年世代の出演者に「浮かれた気分でいると世相が悪化する」などと説教をしたあげく、とんねるずのメンバーである石橋貴明を軽く平手打ちしたことがある。石橋ら出演者は野坂の言動に黙って耐えていた。後にとんねるずは「先生(野坂)の得意なラグビーで勝負しましょう」と野坂に挑戦状を叩き付けたが、野坂が「あの時は酒に酔っていた。君たちのような若者(当時野坂は50代半ば、とんねるずは20代半ば)とやりあって勝てるはずもない」と陳謝する形になり騒動は終結した。一説には、とんねるずのブレーンとして知られた秋元康らが間に入り、両方の顔が立つ形で手打ちになったと言われる。挑戦状は一種のジョークという説が根強い。 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)内で、「野坂昭如が人生を語る」という主旨のコーナーに出演したが、実際は、「チキチキ野坂昭如たたいてさぁ何点!?」というダウンタウンが野坂に対して何発ツッコミ等を入れられるかという企画であった。これを知らされていない野坂は、頭や腹を叩く・殴るなどした浜田雅功を睨みつけ、頭を叩き返し、番組内で殴り合いに発展した。それを見ていた松本は茫然としたが、お互いにちゃんと交互に殴るというルールが殴り合いの中で発生し、番組として成立していることが可笑しくてしかたがないと、後に自身のラジオで語る。そして「清太(=野坂)が、何十年後かに浜田と殴り合いすると思うと、あれから火垂るの墓観ても笑てまうねん」とラジオで語っていた。 『鶴瓶上岡パペポTV』の構成作家である疋田哲夫によれば、当初の案では笑福亭鶴瓶と野坂のコンビを考えていた。詳細は番組の「概要・エピソード」、「ルーツ」を参照。 家族・親族野坂家曽祖父は越前福井藩主松平慶永の家臣だった[29]。身分は不明だが、御一新以後、東京で逼塞[29]。 祖父は警視庁邏卒(後の巡査)だったが、酒で失敗して中年以後は骨董を扱った[29]。 父野坂相如(1899年(明治32年)1月生 - 1978年(昭和53年)没)は四男一女の末子[29]。東京府立第一中学校、旧制第一高等学校、東京大学を出た典型的秀才だったが、父のすぐ上の兄はさらに秀才だったという[29]。次兄は陸軍大学校出身[29]。父の兄弟は画家、軍人、実業家、役人になった[29]。姉妹は軍人に嫁いでいる[29]。 生母ぬいは二男一女を生み、昭如の出産後ほどなくして亡くなった[30]。母方の祖父は明治末年に熊本から台湾へ渡った山師である[29]。植民地で金貸しを営み、かたわら興行を手がけて、たいへん羽振りが良かった[29]。 父・相如の後妻・笑子は活動弁士西村楽天の長女。 継母の父は漫談家、母は小唄の師匠[31]。継母は娘時代、天才的三味線の演奏者といわれ、二代目稀音家浄観の息子四代目稀音家六四郎の嫁に望まれていた[31]。 兄の野坂恒如はジャズ評論家。 妻は元宝塚歌劇団娘役で、シャンソン歌手の野坂暘子(宝塚での芸名:藍葉子)、長女はエッセイストの野坂麻央(芸名:花景美妃)、次女は女優の愛耀子と、そろって元宝塚歌劇団娘役。次女の夫は歌舞伎囃子方の十三代目田中傳左衛門。 張満谷(はりまや)家養父善三もまた養子だった。善三は、明治32年(1899年)東京に生まれ、母とよの次妹ことの嫁ぎ先張満谷家の養子となった[32]。善三は、金貸しの未亡人かねの次女愛子と結婚、かねの長女ぬいの次男、つまり甥の昭如を養子とした[32]。 なお、作家三島由紀夫(平岡公威)の5代前の太左衛門まで平岡家は印南郡神吉村に住んでいた[33]。その南4km弱の地点が善三の養父の生家だった[33]。善三は石油製品を扱った貿易商だった。張満谷家は昭如が野坂家へ戻ったことによって断絶した。 親戚叔母の久子は、一生日陰の身、つまり妾だった[30]。面倒をみたのは著名な弁護士[30]。久子は、八王子の精神病院で死んだ[34]。 系譜藍葉子━┓ ┃ ┣━┳花景美妃 野坂豁━━野坂相如━┓ ┃ ┃ ┃ ┏━野坂昭如━┛ ┗愛耀子 ┣━┫ ┃ ┗━野坂恒如 ┏ぬい━┛ ┃ ┣久子 ┃ ┗愛子━┓ ┃ ┣………野坂昭如 ┃ 張満谷善三━┛ 著書小説
エッセイ・雑纂他
共著・対談・編
翻訳
回想・評伝
音楽作品シングル
アルバムオリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
など多数。 映画原作
出演
監督
出演番組
CM出演
関連人物脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |