泉区 (仙台市)
1988年(昭和63年)に仙台市へ編入された泉市の市域を引き継ぐ。名前は、泉区の北西に位置する泉ヶ岳に由来する。 地理仙台市の北部にある。区の西半分が山地で西北に泉ヶ岳を擁し、そこから流れる七北田川(ななきたがわ)が区の中心を西から東に貫く。東半分は低い丘陵で、七北田川の北側は松島丘陵、南側は七北田丘陵と呼ばれる。この両丘陵の間を七北田川に沿って河岸段丘による平地が東西に広がる。 気候は西部仙台に区分され、仙台市宮城野区にある仙台管区気象台の観測値よりも内陸性気候の特色が強く冷涼、寒冷である。冬季は日本海側からの雪雲が流れ込みやすく積雪となることも少なくなく、冷え込みも厳しい。山間部は豪雪地帯(青葉区旧宮城町や太白区旧秋保町のような豪雪地帯には指定されていない)となっておりスキー場がある。 七北田川沿いの平地において市街化区域に指定されているのは、泉中央周辺(仙台市地下鉄南北線・泉中央駅 - 八乙女駅)から国道4号・仙台バイパス沿いの間くらいで、それ以外は田圃などとなっている。用途地域指定されている面積は、七北田川沿いの平地より両岸の丘陵上が数倍広く、泉区の市街地は「工」の字型となっている。 中心部は、江戸時代の奥州街道(仙台・松前道)の宿場町である七北田宿を基礎に発展した。泉市時代にその西側の田圃を造成し、泉市役所や仙台市泉文化創造センター(イズミティ21)などの施設が建設された。 山岳
河川歴史→「泉市」も参照
泉市は、高度成長期から丘陵部の宅地開発が徐々に進められ、仙台市のベッドタウンとして発展し、市の人口は石巻市を抜いて県内第2位まで到達した。1988年(昭和63年)、仙台市に編入合併され、1989年(平成元年)に仙台市の政令指定都市移行に伴い泉区となった。 仙台市との合併に際しその是非を問う会議が泉市内の各地域で開催され、マスメディアはその過熱ぶりを報道し、最終的には住民投票を行うほど市民の世論が二分した。初期の対立軸は、マイホームを求めて主に仙台市から移住してきた新住民と、地元商店街の商店主・旧奥州街道沿いの住民・営農者などの旧住民で、新住民は泉市への帰属意識は薄く通勤通学する仙台市との合併賛成、旧住民は泉市への帰属意識(地域コミュニティ)が強いために併合され泉市らしさが無くなることへの抵抗感による合併反対という対立構図であった。 しかし、その単純な対立構図はより理由が鮮明になり熱を帯びていった。当時、仙台市においてもバブル景気によって地価が上昇しており、泉市が合併で仙台市となればネームバリューで、さらに政令指定都市ともなればもっと地価が高騰するであろうという予見から不動産業のみならず利益を得たい企業側関係者は合併の強力推進派となった。他方、合併によって泉市よりも高い旧仙台市の基準の地方税や水道使用料金などを課せられると知った旧住民は、合併によるメリットよりもデメリットが大きいと町内会やビラで訴え新住民への浸透を図った。マスメディアの事前調査では、住民投票の行方は合併派と反対派は拮抗してまったく分からなくなった。 旧仙台市は東北の中心的役割を内外ともに誇示するため、政令指定都市の名目は絶対に必要な条件であった。これについては、仙台市のみがそれを欲していたわけでなく、21世紀を目前に東北各市からも関西・中部・九州の大都市圏に匹敵する東北都市圏を仙台市が牽引して作るべきだという意見が多かった。時節柄、首都機能移転構想にも多大な影響を受けている。しかし、当時の政令都市化の要件である人口80万人には満たなかったため、このままでは単独での政令指定都市化は難しいと判断され、隣接の泉市や宮城町、秋保町との合併を模索していた。 泉市は急激な人口増加により交通や下水道などの生活インフラが立ち遅れていた。仙台市は、当時水田が広がっていた現在の泉中央地区を中心に、仙台市地下鉄南北線の泉中央駅延伸、将監トンネル(県道仙台泉線)や都市計画道路・北四番丁大和町線(宮城県道264号大衡仙台線)の早期建設、七北田公園(仙台スタジアム)や泉運動公園(シェルコムせんだい)の整備、上下水道整備、コミュニティセンターの建設などのインフラ整備、さらに泉市で初の地方博覧会(グリーンフェア仙台)の開催を提案した。 熱を帯びた議論やビラ合戦の末、住民投票条例制定の直接請求において泉市の有権者の43%にあたる37,775人の署名が集まり[1]、「市民投票に関する条例案」が泉市議会に議員提案されたが、1987年(昭和62年)11月4日の昭和62年11月臨時会で否決された[2]。しかし、僅差だったことを理由に泉市長の職権で「市民意向投票実施規則」が制定され、同年11月29日に住民投票が実施された[3][2]。投票結果、投票率74%、賛成33,331票(得票率52.6%)、反対29,703票(同46.9%)、無効・その他354票(同0.6%)となった[3]。合併反対派は、市民の世論が半々であるのに拙速に合併協議を進めているとしてリコール運動を始めた。両市は3月末日としていた当初予定を前倒しし1988年(昭和63年)3月1日に泉市を仙台市に編入合併した[1]。そして1989年(平成元年)4月1日、仙台市の政令指定都市移行と同時に旧泉市が泉区となった。泉市が名称や範囲をそのままに泉区に変更されることは合併時の取り決めであり、新たな区名の公募や審議はなかった。このため、既存の政令市の区名称と重複しない名称を方針としていた他区[4]とは異なり、既存の横浜市泉区と区名が重複することが確定していた。 なお、この公共事業をバーターにした当時の仙台市長石井亨はゼネコン汚職事件で逮捕・起訴されて実刑判決を受けた。 泉区の特例合併経緯からか泉区は仙台市の他区と比べて特別的扱いが多いと見られている。
人口
経済仙台市と合併後の1992年(平成4年)、仙台市地下鉄南北線が泉中央駅まで延伸されたことで発展し、泉中央副都心計画によって商業施設が集約した。当初はロードサイド店舗の集積であったが、富谷市などさらなる郊外とのバスが発着する泉中央駅バスターミナルの存在によりターミナル化が進み、中小オフィスビルも建設されて、小都市圏を構成するに至っている。Jリーグのベガルタ仙台のホームスタジアムである仙台スタジアム(ユアテックスタジアム仙台)があり、試合開催日には観客が小都市圏外からも流入する。区内にある商業施設や企業の営業所などの名称では、商圏や企業体が大きい場合に「仙台泉」と「仙台」を付加する傾向がある。
町名→「仙台市の町・字一覧 § 泉区」も参照 泉区内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 泉区役所管内(64町丁)
郵便
南光台、黒松地区などは、青葉区にある仙台北郵便局の集配区となる。 金融機関県内の金融機関だけでなく山形や岩手などの銀行も泉区内に進出している。
イオン銀行と東北労働金庫(及びゆうちょ銀行)は、銀行代理店制度による有人窓口を区内に展開している。 地域昭和30年代前半から黒松団地が造成される。以後、国道4号仙台バイパス開通、東北自動車道開通、都市計画道路整備などによって住宅団地開発が促進された。大規模な団地は、黒松団地、南光台団地、将監団地(県住宅供給公社)、向陽台団地、鶴が丘ニュータウン、松森団地、泉パークタウン(三菱地所)、長命ケ丘ニュータウン(大和ハウス工業)、加茂団地、住吉台ニュータウン(オリックス不動産)、泉ビレジ(東急不動産)、いずみ中山ニュータウン(泉中山)、みずほ台などがある。人口も団地開発に伴い年々増加し、仙台市のベッドタウンとして発展する。 現在も泉パークタウン朝日、将監ニュータウン(将監殿一 - 五丁目)などの団地が造成されている。 コミュニティセンター市民センター・コミュニティセンターが多数設置されている。
主な医療機関
教育以下のとおり、児童館や児童センター、コミュニティセンター、集会所、学校などが多く充実している。 児童館・児童センター・保育所園
小学校→公立小学校一覧は、宮城県小学校一覧#泉区 を参照
中学校→高等学校を併設しない中学校一覧は、宮城県中学校一覧#泉区 を参照
高等学校→中学校を併設しない高等学校一覧は、宮城県高等学校一覧#泉区 を参照
大学・短期大学私立
特別支援学校交通鉄道バス
南東部および南西部で運行されている。 区内の大部分で運行されている。仙台市営バスからの移譲路線もある。 道路
泉インターチェンジ - 仙台宮城インターチェンジ(距離約13.7km)の中間地点(長命ヶ丘団地付近)に、一般道路の混雑緩和および仙台都市圏環状自動車専用道路(東北自動車道、仙台北部道路、仙台東部道路、仙台南部道路によって形成される外側環状道路)の利便性向上のため、従来よりIC設置を望む声があった。2006年4月より旧泉検札所を利用した泉パーキングエリア接続のスマートインターチェンジ社会実験がスタートし、2007年4月1日より恒久化された。
国道4号仙台バイパスの苦竹インターチェンジ(宮城野区)以北は4車線(片側2車線)であるが、特に将監トンネル入口(泉区七北田) - 苦竹インターチェンジは朝夕の慢性的な渋滞発生区間である。そのため渋滞の緩和・バイパス機能の回復のため片側3車線への拡幅を望む声があり、1989年に苦竹インターチェンジ - 鶴ヶ谷交差点間(4.6km)は事業化された。その後2007年3月20日には苦竹インターチェンジ - 山崎交差点間(2.2km)が3車線化され開通したが、2010年現在、鶴ヶ谷交差点までの3車線化工事は未完成である。それ以北についても事業化されていない。
マスメディア名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
出身人物→詳細は「仙台の著名人一覧」を参照
脚注関連項目外部リンク |