藤井皓哉
藤井 皓哉(ふじい こうや、1996年7月29日 - )は、岡山県笠岡市出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。 経歴プロ入り前笠岡市立大井小学校3年生のときに『大井若草スポーツ少年団』でソフトボールを始め[2]、笠岡市立笠岡西中学校では軟式野球部に所属[3]。中学時代は主にショートを守っていた[4]。 おかやま山陽高校に進学すると、入学時は内野手であったが[5]、投手へ転向し[6]、2年秋からは投手に専念[5]してエースを務めた[6]。 3年夏は就実との初戦に敗れた[7]。甲子園出場経験はなし。 2014年10月23日に開催されたドラフト会議にて、広島東洋カープから4位指名を受け[8]、11月13日に契約金3800万円・年俸500万円(いずれも金額は推定)で仮契約を結んだ[9]。背番号は41[10]。 広島時代2015年はウエスタン・リーグで6試合に登板し、10回1/3を投げて防御率3.48を記録した[11]。 2016年は7月14日に開催されたフレッシュオールスターゲームに出場し、4回表に4番手として登板。1イニングを無失点に抑えた[12]。この年はウエスタン・リーグで17試合に登板し、0勝2敗・防御率4.63という成績であった[13]。 2017年はウエスタン・リーグで24登板・防御率8.26という成績ながら、8月以降は8試合の登板で計8回12奪三振2失点を記録し[14]、9月21日に出場選手登録[15]。同30日の横浜DeNAベイスターズ戦の7回裏、1-1の場面でプロ初登板を果たし、1イニングを3者凡退[16]に抑えてプロ初ホールドを挙げた[17]。この年は一軍で2試合に登板し、0勝0敗1ホールド・防御率0.00という成績であった[18]。 2018年は5月25日に出場選手登録され[19]、シーズン4試合目の登板となった6月6日の北海道日本ハムファイターズ戦[20]で1点ビハインドの9回表から登板し、3者凡退に抑えると、直後にチームが逆転サヨナラ勝ちを収め、藤井にプロ初勝利が記録された[21]。ただ、続く同13日のオリックス・バファローズ戦ではT-岡田に3点本塁打を打たれ[22]、2回3失点という結果[23]で翌14日に出場選手登録を抹消された[24]。その後は9月6日に再登録されるも[25]、10月5日に登録抹消となり[26]、この年は8試合の登板で1勝0敗・防御率6.14という成績であった[27]。 2019年は4月9日に出場選手登録され[28]、同日の東京ヤクルトスワローズ戦でシーズン初登板となるも、2回4安打4四球3奪三振3失点という内容で交代し[29]、翌10日に登録抹消[30]。4月30日に再登録されるも[31]、2試合連続で失点を喫し[32][33]、5月9日に出場選手登録を抹消された[34]。6月20日に再登録され[35]、同23日のオリックス戦で5点ビハインドの延長10回表、二死三塁という場面から登板したが、連続四球で満塁とすると[36]、後藤駿太と福田周平に適時三塁打[注 1]を打たれて4失点[注 2]。翌6月24日に出場選手登録を抹消されて[39]以降の一軍登板はなくシーズンを終えた。この年は二軍で26試合に登板して防御率0.33[40]を記録した一方、一軍では4試合の登板で防御率14.21という成績に終わった[41]。 2020年は新型コロナウイルスの影響で開幕延期・短縮シーズンとなったが、一軍登板は無く、ウエスタン・リーグでも27試合に登板して2勝2敗2セーブ・防御率4.61という成績に終わった[42]。11月4日に球団から戦力外通告を受け[43]、12月2日付で自由契約公示された[44]。「9、10月は自分の思った球を投げられていたので、まだ投げたい気持ちはある」と現役続行を目指して[42]12月7日のトライアウトを受験し、空振り三振・空振り三振・遊ゴロという結果であった[45]。 四国アイランドリーグplus時代2020年12月29日、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスと契約した[46]。背番号は広島時代と同じ41。トライアウト後は独立リーグ、台湾プロ野球、社会人野球から接触があった中、監督の吉田豊彦が直接出向いて「先の安定を求めるなら社会人。NPBへ戻る気持ちがまだあるならウチだと思う」という言葉をかけた高知に入団を決意したという[47]。 2021年5月9日に行われた福岡ソフトバンクホークス三軍との交流戦でノーヒットノーランを達成した[48][注 3]。続く同15日の愛媛マンダリンパイレーツ戦は、笠岡市出身の藤井の凱旋試合としてかさおか古代の丘スポーツ公園野球場で開催され、8回無失点の好投で勝利投手となった[3]。この年は22試合の登板で11勝3敗・防御率1.12、145イニングを投げて180奪三振[注 4]を記録し[51]、最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得した[50]。後述のソフトバンク入団のため、12月14日付で自由契約となった[51]。 ソフトバンク時代2021年12月14日、福岡ソフトバンクホークスと育成選手契約を締結し、1年でNPB復帰を果たした[52]。背番号は157[53]。 2022年は春季キャンプをB組でスタートするも[54]、2月17日からA組に合流[55]。実戦では計6試合にリリーフ登板し、計8イニングで6安打15奪三振4失点を記録すると、3月22日に支配下選手登録された[6]。背番号は48[56]、推定年俸は650万円[6]。開幕を一軍で迎え[57]、3月26日の日本ハム戦で移籍後初登板を果たすと[58]、翌27日の同カードでは1点ビハインドの5回表、一死満塁の場面から登板[2]。見逃し三振と三ゴロで無失点に切り抜けると[59]、直後に打線が逆転し、続投した6回表も3者凡退に抑えて移籍後初勝利[2]。NPBでは4年ぶりの白星を挙げた[59]。6月1日の読売ジャイアンツ戦では3点リードの8回裏から登板し、2回無失点でプロ初セーブも挙げた[60]。開幕から21試合連続無失点を記録するなど、ブルペンの一角として活躍していたが[61]、6月27日に新型コロナウイルス陽性判定を受け[62]、同日付で特例2022により出場選手登録を抹消された[63]。7月8日に筑後のリハビリ組に合流し、同15日の二軍戦で実戦復帰[64]。7月20日に一軍復帰を果たし[65]、前半戦終了時点では30試合に登板し、4勝0敗9ホールド1セーブ・防御率0.57を記録[61]。8月は10登板で4失点(自責点3)とやや調子を落としたが、9月は復調し[66]、後半戦は主に8回のセットアッパーを任された[67]。チームが優勝マジック1で迎えた10月1日の埼玉西武ライオンズ戦では、山川穂高にサヨナラ2点本塁打を打たれてプロ初黒星を喫し[68]、涙を流した[69]。この年は55試合に登板し、5勝1敗22ホールド3セーブ・防御率1.12と好成績を残した[67]。CSではファーストステージに1試合[70]、ファイナルステージに3試合に登板した[71]。オフに4350万円増となる推定年俸5000万円で契約を更改。809%アップは球団史上最高の昇給率であった[72]。また、エースの千賀滉大がニューヨーク・メッツに移籍したことを受け、翌シーズンは先発へ転向することが決定した[73]。 2023年は開幕ローテーション入りし、開幕2試合目の千葉ロッテマリーンズ戦でNPB初先発となり[74]、7回2安打2四球9奪三振無失点の好投で勝利投手となった[75]。開幕から16回2/3連続無失点を記録するなど[76]、先発ローテーションの一角を担っていたが、6月11日の巨人戦では3回53球で降板[77]。MRI検査の結果、左内腹斜筋の肉離れと診断され[78]、翌12日に出場選手登録を抹消された[79]。7月9日の四軍戦で実戦復帰するも[80]、セットアッパーのモイネロが左肘の手術を受けることが決まり、藤本博史監督からリリーフ再転向を打診され[81]、7月25日に一軍復帰[82]。9月には体調不良で特例2023による登録抹消が2度あったものの[83][84]、シーズン終盤は7回のセットアッパーを任された[85]。この年は先発としては8試合の登板で5勝3敗・防御率2.51[77]、シーズン全体では34試合(8先発)に登板して5勝3敗9ホールド・防御率2.33を記録[86]。CSファーストステージでは2試合に登板し[87]、シーズン終了後には翌シーズンのリリーフ起用が決定した[85][86]。オフに600万円増となる推定年俸5600万円で契約を更改した[88]。 2024年は春季キャンプ中盤に体調不良があったものの[89][90]、オープン戦では計4イニングを投げ、1安打1四球7奪三振1失点[91]と順調な調整を見せ、開幕を一軍で迎えた[92]。8回のセットアッパーを任されたが[93]、開幕から4登板で防御率6.75、計4イニングで7四球と不安定な投球が続き、4月7日に登録抹消[94]。同17日に再登録されて[95]以降はブルペンの一角を担い、7月終了時点では31試合に登板し、2勝0敗15ホールド1セーブ・防御率2.32を記録していたが[96]、8月17日のロッテ戦では味方の失策も絡み[97]、1回1安打2四球3失点(自責点0)でシーズン初黒星を喫した[98]。その後は4試合連続ホールドを記録していたが、9月1日に腰痛で登録抹消[99]。そのままシーズンを終えることとなり、この年は40試合の登板で2勝1敗19ホールド1セーブ・防御率1.80という成績であった。 選手としての特徴
“スライドしながら鋭く落ちる”という独特な軌道のフォークが最大の武器[100]。フォースラとも呼ばれ[101]、これはソフトバンク入団当初の監督であった藤本博史が“フォークとスライダーの中間”という意味で表現したことに由来する[102]。 持ち球はその他に最速156km/hのストレート[103]、四国IL時代に習得したスライダー[102]、ソフトバンク入団後に同僚のモイネロに教えを乞いて改良したカーブ[104]などがある。 球界では珍しい足袋型スパイクを使用している(詳細後述)。 人物・エピソード広島を戦力外になる2020年から交際していた一般女性と2022年6月に結婚した。ソフトバンク入団決定後、支配下契約になったら結婚してほしいと伝えていたという[72]。報道陣に結婚を報告した際に幸せの度合いを尋ねられ、「福岡タワーくらいじゃないですか」と笑顔で返した[105]。 自身の性格・人柄については「物静かな方だと思います。小さいころから人見知りはありました」と話している[106]。 足袋型スパイクソフトバンク時代から地元・岡山県の企業『岡本製甲株式会社』が製作した足袋型スパイクを使用している[103]。 2021年12月にソフトバンクとの育成契約が決まった際、NPB復帰にあたって用具の提供がなく、高校時代の恩師である堤尚彦監督[107]に電話で相談したところ、堤監督の隣に『岡本製甲株式会社』の守安弘樹がいた。2人は以前から繋がりがあり、たまたま守安が年末の挨拶のために高校を訪れていたという[108]。 もともと同社は足袋型の野球スパイクを受注生産しており[107]、「堤監督から『スパイクない?』と尋ねられたので『作りましょう』と」と守安が藤井への協力を快諾。その後、帰省した際にシューズとスパイクを受け取って自主トレ期間で試用した[108]。本人は「従来のスパイクだとグラグラしていたんですけど、この靴を履くようになってから立てるので、『地面を掴めている』感じもあるので、すごく立ち感はいいですね」と話し[103]、足指を広げて踏ん張りやすく、バランスを崩しにくい足袋型スパイクを愛用するようになった[107]。 2023年5月1日には同社とアドバイザリー契約を締結。企業が報酬を支払うのが一般的だが、藤井は無償で同社からの契約打診を引き受けた[107]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録NPB
独立リーグでの投手成績出典は「一球速報.com」[111]。
背番号
登場曲
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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