甲斐生海
甲斐 生海(かい いくみ、2000年7月11日 - )は、福岡県北九州市小倉北区出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。右投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。登録名は生海(いくみ)。 経歴プロ入り前北九州市立足原小学校で3年生のときに野球を始める[2]。当初は右打者だったが、元野球選手である父が左打者だったこともあり、自身も左打者に転向した[2]。北九州市立霧丘中学校では軟式野球部に所属した[3]。 九州国際大学付属高等学校に進学後、1年夏にチームは第98回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、自身はベンチ外だった。2年春から4番を務めたが、1年夏以降甲子園大会への出場はなく、3年夏は北福岡大会2回戦で若松に敗れた[4]。高校通算36本塁打[2]。 高校卒業後、東北福祉大学へ進学。1年時からベンチ入りしていたが、入学直後の2019年6月に祖父、翌2020年3月に父、曽祖母を相次いで亡くす[2]。ショックを受けてふさぎ込んでしまい、2年時からは練習を休むことが増え、マネージャーには毎日のように退部届が欲しいと頼み込んでいた[2]。その後2021年のドラフト会議を見て、あと1年間だけ野球へ取り組むことを決意[2]。約20kgの増量に成功し、4年秋のリーグ戦では3本塁打、16打点を記録して本塁打と打点の二冠王、一塁手のベストナインを受賞した[2]。 「ドラフト会議で指名がなければ現役を引退する」という決意のもと、プロ志望届を提出[5][6]。迎えた2022年のドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから3位指名を受けた[7]。11月24日に契約金6000万円、年俸1000万円で仮契約し[8]、12月5日、BOSS E・ZO FUKUOKAで入団発表会見が行われた[9]。背番号は37。ソフトバンクには同姓の甲斐拓也に加え、当時は甲斐野央も在籍していた[10]ことから、自身の登録名は下の名前の「生海」とした[8]。 ソフトバンク時代2023年の春季キャンプはA組スタートとなったが[11]、2月13日にシートノックをしていた際に右肩を負傷し、右肩関節炎の診断を受け離脱[12]。その後は二軍での調整を続け、6月13日のウエスタン・リーグの阪神タイガース戦では9回にサヨナラ本塁打を放つ[13]。7月22日に一軍初昇格を果たすと、同日の千葉ロッテマリーンズ戦(ZOZOマリンスタジアム)で7番・右翼でスタメン起用され、プロ初出場[14]。2打席目の5回に西野勇士から右前打を放ち、プロ初安打を記録した[15]。しかし、その2日後の7月24日に発熱症状があり、感染拡大防止特例2023で登録抹消された[16]。10月7日のファーム日本選手権では4打数4安打で優秀選手賞に受賞[17]。11月23日には一般女性との結婚を発表した[17]。 2024年は、自主トレーニング中の1月3日に左頬に打球が直撃する事故が発生。頬骨の陥没骨折等があり、患部の形成術を受けたが、脳震盪様の症状もみられ、さらに検査を受けたところ、同月26日に左側頭葉脳挫傷と診断された。競技復帰は事故発生の1月から1年 - 1年半かかる見込みである。これらの内容は主治医の総合的判断を経て、NPB医事委員会の正式な見解を受けたため、5月31日になって球団から発表された。発表時点は、有酸素運動を中心にリハビリを実施しており、球団施設を週2回ほど訪れて歩行などを行っている[18][19]。この年は一軍・二軍ともに公式戦出場はなく、10月28日、育成選手として再契約することを前提とした戦力外通告を受けた[20]。当初は「今は怒りが勝っていて、納得はできていない」と退団をほのめかすようなコメントを残していたが、後に「イライラしていてもしょうがない。プレーして結果を出すしかないと自分に言い聞かせた」と話し、11月17日、育成再契約に合意した[21]。背番号は後日発表される。 選手としての特徴・人物豪快なスイングから広角に長打を打てる左のスラッガー候補[10][22]。 遠投100m、50m走のタイム6秒6を記録[23]。 幼少期から大のソフトバンクファンで、何度も球場に足を運んでおり、帽子や応援グッズも持っているという[24]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
登録名
登場曲
脚注出典
関連項目外部リンク
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