戸川幸夫
戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年(明治45年)4月15日 - 2004年(平成16年)5月1日[1])は、日本の小説家、児童文学作家。動物に関する正しい観察・知識を元にして動物文学を確立させ、日本においては椋鳩十と並ぶ第一人者(特に闘犬に関する作品が多い)。 それまでは噂のみの存在だったイリオモテヤマネコの標本を今泉吉典にもたらし、新種発見に大きく貢献したことでも知られる。ルポルタージュ、戦記物語などの作品もある。漫画原作を手がけたこともある。 生涯佐賀市に生まれ、1歳の時に、医師で、またハンターでもあった戸川益勇の養子となる。10歳までは福岡県若松市及び八幡市(いずれも現・北九州市)で育つ。幼少から動物好きで、動物学者になることを志し、動物に関する本を耽読した。父の仕事の都合で東京に移り、私立高千穂中学を卒業。東北大学古生物学科を目指して、旧制山形高等学校に入学、この頃に独自に山犬について調査、その後健康を害して中退。1937年(昭和12年)に東京日日新聞(現・毎日新聞)に入社し社会部記者となり、中国特派員、海軍報道班員として各地に従軍する。報道班員当時、大西瀧治郎に「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか」と問うと「勝てないまでも負けないということだ」という返答したという話[2]や、「二千万人死ななきゃダメだ」と答えたという話が伝わる[3]。大西が戸川にこのようなことを言っていたのは、「徹底抗戦」のメッセージを発信しアメリカに向けて「和平」を求めようとしたからではないかという見方がある[4]。 戦後はサン写真新聞社に出向、その後東京日日新聞社会部長、毎日グラフ編集次長を務める。 1953年(昭和28年)に長谷川伸の主催する新鷹会に参加し小説執筆を学び、翌1954年(昭和29年)にかつて飼育していた高安犬との交流を描いた動物小説「高安犬物語」で直木賞を受賞、わが国初の本格的な動物文学と呼ばれた[5]。次いで新聞社を退職して作家生活に入り、動物に関する深い造詣と取材による『牙王物語』(1956年(昭和31年))、『諸国猟人伝』(1959年(昭和34年))、『動物風土記』(1961年(昭和36年))などを発表する。他に軍記もの、社会小説、時代小説、記録文学、児童文学などの作品を執筆。1961年(昭和36年)にオーストリアのパウル・ネフ社の動物短編アンソロジーに、鷹と鷹匠を描く「爪王」が収録された。 1962年(昭和37年)『子どものための動物物語』で、サンケイ児童出版文化賞を受賞。また実地調査に基づくノンフィクションとして『野性への旅』(1961年(昭和36年) - 1966年(昭和41年))、『すばらしい動物の世界』(1972年(昭和47年))なども刊行。1965年(昭和40年)3月、本土復帰前の沖縄でイリオモテヤマネコの標本を入手。イリオモテヤマネコ発見のきっかけとなった。 1977年(昭和52年)『戸川幸夫動物文学全集』で「日本文学に動物文学という新しいジャンルを開き、独自の高峰をうちたてた」として芸術選奨文部大臣賞受賞。1980年(昭和55年)紫綬褒章受章。1985年(昭和60年)児童文化功労者。1986年(昭和61年)勲三等瑞宝章を受章。 また日本動物愛護協会、世界野生生物保護基金日本委員会、エルザ自然保護の会、サバンナ・クラブ(東アフリカ友の会)の役員を勤めた。 次女戸川久美は特定非営利活動法人トラ・ゾウ保護基金(JTEF)理事長[6]、野生のトラ、アジアゾウ、アフリカゾウ、イリオモテヤマネコを保護する活動を行っている。従弟に多岐川恭がいる[7]。 1971年(昭和46年)、戸川の弟子の平岩弓枝が脚本を担当していた「肝っ玉かあさん・第3シリーズ」にゲスト出演(本人を思わせる戸並先生役で特別出演)。1978年(昭和53年)9月、「牙王物語」が「大雪山の勇者 牙王」のタイトルでテレビアニメ化され、フジテレビ系で放送された。 著書
全集
共著翻訳映像化作品
論文脚注
関連項目外部リンク
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