宮部みゆき
1960年〈昭和35年〉12月23日[1] - )は、日本の小説家。東京都[1]江東区生まれ。日本推理作家協会会員[1]。 (みやべ みゆき、2001年時点で日本SF作家クラブ会員だったが[2]、2024年10月時点では会員名簿に名前がない。 OL、法律事務所[1]、東京ガス集金課勤務[3]の後、小説家になる。1987年(昭和62年)、「我らが隣人の犯罪」でデビューする。以後、『龍は眠る』(日本推理作家協会賞受賞)『火車』(山本周五郎賞受賞)『理由』(直木賞受賞)『模倣犯』(毎日出版文化賞特別賞受賞)などのミステリー小説や、『本所深川ふしぎ草紙』(吉川英治文学新人賞受賞)『ぼんくら』などの時代小説で人気作家となる。ファンタジーやジュブナイルものの作品も執筆している。雑誌幻影城ファンクラブ「怪の会」元会員[4]。 経歴生い立ち1960年(昭和35年)12月23日、東京都江東区深川のサラリーマン家庭に生まれる。母方の祖父は木場の川並職人、父親も職人的な仕事に就いていた[5]。深川の下町で代を重ねてきた母方で数えると、宮部の代で4代目に当たる[6]。宮部は、小説家デビューを果たした後もこの町で部屋を借りて仕事場にしている(※少なくとも1998年頃まで[7])。 小学校2年生の時、父が買ってくれた『杜子春』を1日で読み終えてしまった[5]。その後は移動図書館で様々な本を借りて読むようになり、『人形の家』ルーマー・ゴッデンや『ドリトル先生』シリーズは愛読書になった[8]。 また、父から落語や講談の怪談噺を聞かされて育っている。父はテレビ時代劇も大好きで、一家にはNHK大河ドラマを観る習慣があったので、みゆき自身もファンになり、特に中学校1年生の時(1973年/昭和48年)は戦国時代を舞台にした『国盗り物語』に夢中になった。本放送だけでなく週末の再放送まで観たのはもちろんで、この番組を通して複雑な人間関係や時代背景、そして戦国時代の基礎知識を学習した。1979年(昭和54年)のNHK大河ドラマ『草燃える』では、鎌倉時代について学習する機会を得た。また、父に倣って原作の時代小説を読み、永井路子のファンになって、永井の他作品も読んでいる。山本周五郎の『赤ひげ診療譚』と他の小説も同様の経緯で読んだ[9][注 1]。一方、母は映画好きで、ハリウッドの黄金期の映画、例えば『恐怖の報酬』『鳥』『サイコ』などの話を、子供の頃のみゆきに語り聞かせてきた[5][10]という。ビデオテープレコーダが一般家庭に普及する以前の話である。 学校図書館で借りた『世界の名作怪奇館シリーズ』[11]に夢中になったのも、中学生の頃であった。また、中学時代から高校時代にかけて、英米の怪奇小説にはまり、『幻想と怪奇』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、『怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)、アンソロジー『怪奇と幻想』(角川文庫)、荒俣宏・紀田順一郎監修の『怪奇幻想の文学』シリーズ(新人物往来社)などを、公立図書館で借りて読んだ[12]。 小・中学校ではずっと、作文で褒められたことがなかった。小学校4年生の時など、読書感想文を「感想でなく本の宣伝文だ」として手直しするよう先生から指示されてしまっている。しかし、高校3年生の時の担任であった国語教師からは、「宮部は人に読ませようとして書いているから、小説家やライターになれるかも知れない。」と、初めて褒められた[13][14][15]という。 就職後、小説を書く1976年(昭和51年)、江東区立深川第四中学校を卒業。1979年(昭和54年)、東京都立墨田川高等学校を卒業[16]。高校卒業後は、OLとして2年間勤めている。このOL時代に裁判所速記官試験(現在は養成中止)に挑むも不合格となり、中根速記学校で速記を学び、速記検定1級を取得している。 1981年(昭和56年)・21歳の時から法律事務所に5年間勤務し、和文タイプライターのタイピストを担当した。事務所は新宿歌舞伎町にあり、顧問になっている店も風俗店が多かった。5回の破産企業の管財人就任の時以外は空き時間が多く、留守番時には速記のアルバイトも許されて、『判例時報』などを読んでいた[5]。 10歳代からの海外ミステリに続き、当時日本のミステリも読むようになる。映画の影響もあり、自分も何かを書いてみたいという気持ちが湧くものの、うまくいかなかった。参考に買った本は、ヒッチコックとトリュフォーの共著『映画術』であった。初歩習作『最初の依頼人』36枚を書く[17]。 1983年(昭和58年)・23歳の時、発売されたワープロ(ワードプロセッサ)を、仕事に必要になると買った宮部は、勤務後に自宅で文字打ちの練習を始めたが、突然、長文を作り始めて止められなくなった。そのうち、自分が打っているのは「小説」だと気付いた。毎晩、睡眠時間を削って深夜まで打ち続け、腕まで痛くなってもやめない宮部は、親に叱られても聞かず、生涯初の小説を完成させてしまった。のちに宮部は『朝日新聞』夕刊連載コラムの中で「ミヤベミユキという小説家はワープロ様抜きでは生まれなかった」と振り返っている[18]。なお、この小説は発表されていない。 1984年(昭和59年)、講談社フェーマススクール・エンタテイメント小説作法教室を雑誌広告で知った[5]宮部は、1年半、教室に通った[注 2]。高額授業料のため、期末まで残り半年は各回の打ち上げにのみ参加していたという。ここで、山村正夫、南原幹雄、多岐川恭の講師と石川喬司、阿刀田高のゲスト講師に学んだ[19]。ただ、この頃はまだ、プロになれるなどとは思っていなかった[20]。 作家へ小説教室の仲間に勧められ、試しにオール讀物推理小説新人賞に応募し、3回目の1986年(昭和61年)候補になり[21]、夏樹静子に励ましの評価を貰って、小説家への道が見え、意欲が初めて湧く。翌1987年(昭和62年)にオール讀物推理小説新人賞を受賞し[注 3]、短編「我らが隣人の犯罪」でデビューする。多岐川恭に「仕事を辞めないこと、次作が載らず、なかなか本が出なくても書き続ける、健康に注意」と助言される[23]。長編依頼をもらい、時間拘束のきつい法律事務所を辞め、自由のきく東京ガスの集金人を2年間務める[3]。2年半かけて[3]1989年(平成元年)2月に東京創元社『鮎川哲也と十三の謎』の第5回配本『パーフェクト・ブルー』が初出版される。同年に専業作家となり、『魔術はささやく』を書き、1989年日本推理サスペンス大賞を受賞する[5]。『龍は眠る』(綾辻行人と日本推理作家協会賞を同時受賞)などの超能力を扱った作品が多かったが、1992年(平成4年)に発表した『火車』は、クレジットカードローンによる多重債務問題を描き出し、山本周五郎賞を受賞した。 ミステリーではその後、『理由』で直木三十五賞、『模倣犯』で毎日出版文化賞特別賞、『名もなき毒』で吉川英治文学賞を受賞した。宮崎勤事件に触発されて書いた[24]『模倣犯』の後で現代の闇を描くことに疲れて、時代小説やファンタジーを重点に書く[25]。 時代小説では、江戸に住む人々の人情を描き、吉川英治文学新人賞を受賞した『本所深川ふしぎ草紙』や、超能力ものの『霊験お初捕物控』、深川を舞台にしたミステリー『ぼんくら』『日暮らし』などがある。 趣味としてコンシューマーゲーム(家庭用ゲーム)を楽しむ宮部は、2001年(平成13年)発売のアクションアドベンチャーゲーム『ICO』では、こちら側から申し出て小説化している[26]。『ドリームバスター』(2001年刊行)やアニメ映画化された『ブレイブ・ストーリー』(2003年刊行)などのファンタジー小説もある。大量殺人を忌避する気持ちから、2010年(平成22年)、初めて恋愛も登場するノンミステリーの青春小説『小暮写真館』を書く[27][25]。2012年(平成24年)、『ソロモンの偽証』が3部作、原稿用紙4700枚という超大作として話題になった。 大沢在昌の主宰する事務所の大沢オフィスに京極夏彦とともに参加し3人の共同出資の「株式会社大沢オフィス」を設立している[28](現・株式会社ラクーンエージェンシー[29])。オフィスの公式サイト名は3人の姓から1字ずつとって「大極宮」と命名した。コードネームは「安寿」。また、2005年(平成17年)夏公開の映画『妖怪大戦争』のプロデュースチーム「怪」の一員にもなった。 執筆1995年(平成7年)に自身が語ったところによると、書き始めたころからの、どこからかストーリーが下りてきてワープロが書いているような感覚が続いていた。知人に、「いつもワープロにしめ縄を張って拝んでいるのでは」と言われた。人物設定でも、『火車』の「休職中の刑事」でも、考えたわけではなくて、そういう人として出てきた。でも、最後に犯人が出てくる小説を書くという基本設定や大阪球場内の住宅展示場を舞台になど自分で考えた。小説の世界が別にあって、そこから人物だけ引っ張ってきているから、背景が自分のものになっていなくて当時はシリーズが書けないと思った。いろいろ私事や体調などでアンテナの感度が悪くなると、何もキャッチできなくなりたちまちスランプになった[5]。初期の1992年(平成4年)から2001年(平成13年)にかけて、多くの連載が中断され、未完のままとなっている。他の作家のように、連載で問題があっても後で加筆修正し、完成させることができないでいる。 全体的に作品の多くは、タイトルとラストの3行、時には2ページくらいは決まっている。そういうラストストックが数本コルクボードに貼ったり、データや頭の中の画像としてある。タイトルが決まらないと書けない。冒頭から書いていき、途中考えたことが何か所か浮かんでいて、その間とラストまでを作り書いていく。これも、重要な部分だけ決定している時と、タイトルを決めた段階で細部まで設定している場合の2パターンある[27]。人物の顔は、空想を限定するので書かない。誰から見ているのか視点を大切にする。説明は極力せず会話で表す。「視点にブレがなく、だれが本当のことを言って、誰が嘘ついているか、調べてみなくちゃわからないというルール。」なら私にはミステリーだと定義している[21]。 2002年(平成14年)の段階では、執筆に対して一定の自己コントロールができるようになった。取材は簡略な方である。警察や日本銀行本店本館の取材にも行ったが、ロッカーの名札の順番や湯呑みを置く順序、日銀も給湯室や掃除道具置き場など日常を表す場所を注意して見る。そういう場所を書いて作品に親しみやすくする。普通の人は書けるが、周りにいないスターなど書けないでいる[注 4]。国会議員や秘書、中央官僚などは取材しても書けないであろうとのこと[21]。 最初に、人目を引く謎を提出して、それから多視点で光を当てて謎と全体像を浮かび上がらせる手法をよく使用する[注 5]。他の作家は事前に詳細なプロットを作るが、宮部は一切設計図無しで書いてしまう[30]。 “普通の人”を被害者にする悪質なカルト宗教やマルチ商法に激しく怒りを感じ、20世紀に書いた現代ミステリは、自分が怒りや不安を感じた事件が、譬えれば綾織りのように出たと感じている。「社会派」と言われると大いに戸惑う。常に「自分がこうだったら怖い」「世の中のこういう所がすごく不安だ」ということを書く。女性の主人公にしたりする描き方は、ずっと意識している。一時期までは「女性なのに刑事や検事だ」と特別な位置づけが必要であった[24]。 杉村三郎シリーズの短編集『希望荘』で、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災当日の様子を書いたのは放射能の数値が花粉情報のように流され、怯え気にしていた姿を残したかったとのことで、同シリーズの『昨日がなければ明日もない』「絶対零度」で、体育会系の同調圧力を書いたのは、不明な組織に入れられて「お前がいちばん下だから」と命令されるのが怖いと感じたからとのこと。ナチス・ドイツがどんな仕組みで、当時の人たちがどう暮らしたのかにも興味がある。第二次世界大戦の戦前・戦中における日本で異状が日常になったのに普通に過ごした意外性にも怖さを感じている。ファンタジーで、全体主義的なものが個々の人間にどう働きかけるのか書きたい気持ちがある[24]。 時代小説では、年代を固定化したくないので有名人を出さない。特に『三島屋変調百物語シリーズ』は、江戸時代後期の設定であるが、幕末になると不得意なので、長年にわたる話であるが、時代を進めないように努めている[10]。江戸時代の前期・中紀・後期では、それぞれ物価が違うので、物の値段は出さないようにしている。『鬼滅の刃』のテレビアニメを観て、舞台は大正時代であるが、時代劇的要素が強いイメージに「出し方や見せ方で時代小説はまだ広がる」と希望を持った[31]。 アイデアは仕事場で机に向って考え思いつく。他の人と違い、息抜きの場では何も浮かばない。仕事場以外では作業できない。パソコンでは原稿用紙縦型レイアウトを使用して1枚分しか表示せずプリントアウトして赤入れして直す。パソコンはインターネットに接続しておらず、調査に使わず、メールアドレスも持たず、ワープロ専用機として使用している[21]。 最後の勤務2年間の東京ガス集金課の、料金の取り立てで社会の各層を見聞きしたことが、直接に参考になっている[3]。 人物インタビューで「小説教室で作家になって、"だったら私もなれる" と誤解させる罪作りな作家だ」と言われて少し愕然とする。文芸部にも入ったことがなく、同人誌もしていない。経験も伝(つて)も無く、小説教室に行くしかなかった。年配のプロを目指す人の中で、自分は初めてで最初はダメだったが、感想を言ってもらっただけでうれしかった。大極宮での「作家になる方法」の質問には、まず書くしかないし、「人が書いていないものを書く」、後は運任せの厳しい世界だ、と答えている[21]。 ゲーム無類のコンシューマーゲーム(家庭用ゲーム)好きとしても知られている。ゲーム好きになったきっかけは、1994年(平成6年)、体調が悪く、仕事も遅れて落ち込んでいる時に、「気が晴れるから」と綾辻行人にファミコン・ゲームを勧められ、夢中になったことによる。その後、パソコンも購入してゲーム範囲が広がった[32]という。宮部にとってのコンシューマーゲームは、読書と同様にひとりで楽しむものであり、他のプレイヤーと交流するオンラインゲームはやる気にならない[33]という。 2002年(平成14年)に発売されたRPG『幻想水滸伝III』では、発売前、公式ウェブサイト内にて先行プレイ日記(公開は終了)を8回にわたって公開していた。2005年(平成17年)発売のRPG『ローグギャラクシー』については、シナリオを酷評している[34]。また、コーエー(現・コーエーテクモゲームス)が運営するMMORPG『大航海時代Online』(2005年〈平成17年〉発売)では、2006年(平成18年)3月に公式イベント「宮部みゆき『ドリームバスター』in『大航海時代 Online』」を行い、宮部はシナリオを監修した[35][36]。このゲームでは、宮部のSF小説『ドリームバスター』のキャラクターが登場して活躍している[35][36]。『タクティクスオウガ』の熱烈なファンで、地下100階の広大なマップであるエクストラステージ「死者の宮殿」を15周するぐらいにやりこんでいる。 交友宮部みゆき(1960年12月23日、東京生まれ)と綾辻行人(1960年12月23日、京都生まれ)は、生年月日とデビューの年月(1987年?月)が同じであり、デビュー作が推理小説であった[注 6]という点まで共通している。宮部は、先に単行本を出版した綾辻をミステリ作家として尊敬の対象としつつも、交流が増えるに連れて「仲の良い友人でライバルだ」と語るようになった。 宮部には、1993年(平成5年)の事務所開設以来20年あまりの付き合いで、最も「宮部みゆき」を知る2歳下の担当編集者がいた。その人が病気で余命3か月と宣告された折、病室に見舞いに行っても宮部は、ただ泣くばかりだったが、彼女から「私が先にいって、宮部さんの作家として重荷になっている事を全部持って行くから、身軽になってほしい。」と言われた。その女性が2014年(平成26年)に亡くなった後、宮部は喪失感で自分が半分失くなったように感じたが、しばらくして彼女の遺した言葉を思い出して気が楽になり、「亡くなって自分といつも一緒にいて自分のこれからの仕事を見守ってくれている」と感じられるようになって、以来、彼女の思い出が仕事の原動力になっている[37][38]とのことである。 文学賞受賞歴・候補歴
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文学賞選考委員歴
作品リスト現代小説(ファンタジー・SF含む)元警察犬「マサ」シリーズ
親友「島崎君」シリーズ
ドリームバスター・シリーズ
杉村三郎シリーズ→詳細は「杉村三郎シリーズ」を参照
ここはボツコニアンシリーズ
シリーズ外作品
時代小説お初シリーズ→詳細は「霊験お初捕物控」を参照
「ぼんくら」シリーズ→詳細は「ぼんくら」を参照
「三島屋変調百物語」シリーズ→詳細は「三島屋変調百物語」を参照
「きたきた捕物帖」シリーズ
シリーズ外作品
エッセイ他・紀行文
絵本
共著・その他
アンソロジー(編纂)
アンソロジー(収録)「」内が宮部みゆきの作品 日本推理作家協会・編
日本文藝家協会・編
日本ペンクラブ・編
その他
連載
単行本未収録作品
連載中断・未完
解説
推薦文外国語訳
メディア・ミックステレビドラマ
ラジオドラマ
舞台
映画
漫画
メディア出演テレビドラマ
映画
テレビ番組ラジオ番組
注釈
出典
参考文献
関連文献
関連項目外部リンク
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