ダン・ガーニー
ダニエル・"ダン"・セクストン・ガーニー(Daniel "Dan" Sexton Gurney 、1931年4月13日 - 2018年1月14日)は、アメリカ合衆国出身の元レーシングドライバー。レーシングコンストラクター「オール・アメリカン・レーサーズ」の創設者。 同国を代表する古豪レーサーの一人。F1で4勝、1967年のル・マン24時間レース制覇などの実績がある。 概要オペラ歌手の家庭に生まれたが、1955年にカリフォルニア州南部でトライアンフ・TR2に乗りレースキャリアをスタートした。 同年代のドライバーの中でも名を広く知られた1人で、F1、インディカー・シリーズ、NASCAR、ル・マン24時間レース等フォーミュラ・ハコを問わず様々なレースで優勝を飾っている。 またオール・アメリカン・レーサーズ(AAR)の創設者であり、コンストラクターとして自分のドライブするマシンを開発した。1970年にドライバーを引退した後もAARのオーナーとしてモータースポーツに携わった。 ガーニーフラップを開発したことで知られる他、初めてフルフェイスヘルメットを被った[1]、シャンパンファイトをスポーツ史上初めてやったなどの功績もある。 2018年1月14日、肺炎に伴う合併症により死去。86歳没[2]。 ドライバーとしての活躍F1F1へは、スポーツカーレースでの縁がきっかけとなり、1959年にフェラーリからデビュー[3]。参戦した4戦中デビュー戦はリタイアとなったが残る3戦で入賞し、そのうち2度表彰台に上がっている。 1960年はBRMで不本意な成績に終わったが1961年はポルシェに移籍。3度の2位などでランキング3位となった。この年、オランダGPで観客を死亡させてしまう事故をおこしてしまっている。1962年にはポルシェ・804に乗り第4戦フランスGPにて初優勝、これはポルシェチームにとっても初優勝であり、結果的にポルシェF1唯一の優勝となった。 1963年より新鋭チームのブラバムに移籍。2年目の1964年には第2戦オランダGPで初のポールポジションを獲得。第4戦フランスGPでは移籍後初勝利を挙げ、チームに初優勝をもたらした。最終戦のメキシコGPでも、シーズン2勝目を挙げている。 1966年より自らが立ち上げたアングロ・アメリカン・レーサーズ(コンストラクター名は「イーグル」。後にオール・アメリカン・レーサーズに改称)に在籍。2年目の1967年に第4戦ベルギーGPでチーム初勝利を飾る(アメリカ系コンストラクターとしてもF1初勝利)。その後様々なチームから散発的な参戦を行うも1970年をもってドライバー業そのものを終えることとなった。 ル・マン1967年のル・マン24時間レースにおいてA.J.フォイトとともにフォード・GT40Mk.IVに乗り総合優勝している。なおこのとき表彰台でシャンパンを振りまいたのが、スポーツ史における最初のシャンパンファイトとなっている。 チャンプカー1962年から1970年のインディ500にスペースフレームの自製シャーシを用いて参戦。優勝こそなかったものの、2度の2位と1度の3位を記録した。1969年にはF1に参戦する代わりにUSACチャンプカーに参戦、28レースで7度の勝利を挙げた。 NASCARNASCARグランドナショナル(現カップ戦)には1962年からロードコースのリバーサイド・インターナショナル・レースウェイを中心にスポット参戦。1963年から1966年にかけてリバーサイドで4連覇を記録した。1968年にも勝ち、通算5勝を挙げた。1960年代前半にはデイトナ500にも参戦しており、1963年の5位が最高順位となっている。 チームオーナーとしての活躍→詳細は「オール・アメリカン・レーサーズ」を参照
1970年から2011年までチームオーナーを務め、インディ500、デイトナ24時間、セブリング12時間を含む通算78レースに勝利した。また80年代以降はトヨタのセミワークスとしてIMSAやデイトナ24時間で総合優勝した。 1990年にガーニーはそれまでの多大な功績を讃えられ、国際モータースポーツ殿堂入りした。 エピソード
レース戦績F1
ル・マン24時間レース
脚注
関連項目
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