NASCAR
NASCAR(ナスカー、National Association for Stock Car Auto Racing, 全米自動車競走協会)はフロリダ州 デイトナビーチに本部を置くアメリカ合衆国で最大のモータースポーツ統括団体であり、同団体が統括するストックカーレースの総称でもある。 統括団体としてのNASCARは、1948年にビル・フランス・シニアとエド・オットーによって設立された。 概要NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。 カテゴリーはNASCARカップ・シリーズ[注 1]を頂点とするピラミッド構造となっている。NASCARカップ、そしてNASCARカップの年式落ちの車を使用するエクスフィニティ・シリーズ(Xfinity Series[注 2])、ピックアップトラックベースの車で争われるガンダー・アウトドアーズ・トラック・シリーズ[注 3]の3カテゴリーは“三大シリーズ(Three Largest Series)”で全米のレース場を転戦し、全てのレースでテレビ中継がある。「三大カップ戦」という呼び方がファン・ジャーナリストの間で定着しているが、本来「カップ戦」というのは頂点の現モンスターエナジーカップのみに与えられる称号であり、英語でもそのような表現は存在しないので誤りである。 その下にはRegional Series(リージョナル シリーズ)として、昔のBuschシリーズマシンを使用するレギュレーションから始まったNASCAR K&N PRO SERIESがEastシリーズ(東海岸エリア)とWestシリーズ(西海岸エリア)の2つの地域に分かれて開催されており、7月のアイオワ・スピードウェイと8月のGateway Motorsports Park でEastシリーズとWestシリーズの合同レースが年に2度 開催される。Whelen Modified Tour(ウェレン モディファイド ツアー)も北シリーズと南シリーズとして開催されている。またインターナショナルシリーズとして、Pinty's Series(ピンティーズ)、PEAK MEXICO Series(ピーク・メキシコ)そしてWhelen Euro Series(ウェレン・ユーロ)までが、NASCAR Regional Seriesとして北米外で開催されている。 「Whelen All-American Series」と呼ばれるカテゴリー[注 4]、Local Racing と総称される2005年現在は地域ごとの8カテゴリーが存在する。使用される車の細かいレギュレーションはカテゴリーによって異なることが多い。またARCA等NASCAR以外の競技団体が主催するストックカーレースも、その多くが実質的に3大シリーズ戦へのステップアップカテゴリーとして機能している。 通常NASCARに参戦するドライバーは各地域カテゴリーから徐々にステップアップするのが通例だが、中にはIRLやチャンプカー(旧CART)など、フォーミュラカーレースからの転身組も存在する。F1ドライバーではファン・パブロ・モントーヤ、ジャック・ヴィルヌーヴ、キミ・ライコネン、ナレイン・カーティケヤン、ネルソン・ピケJr.、インディカーからはダリオ・フランキッティ、ダニカ・パトリックが有名である。このうちモントーヤはネクステルカップ、ピケJr.はトラックシリーズのロードコースで勝利を挙げる成功を収めている。 歴史NASCARの誕生NASCARのルーツは20世紀前半、主に広大な平地を有するアメリカ中部以南で行われていたアマチュアの自動車レースであり、さらにルーツを辿れば禁酒法時代に取り締まる警察車両から逃れるため、速い車を必要とした当時の "ならず者" に行き着くという説もある[注 5]。直接の発祥となったのはフロリダ州のデイトナ・ビーチにて互いの腕とマシンを競い合うため、各地の実力者達が集って催されたストックカー・レースであった。やがて競技ルールの平定が求められるようになり、1947年に同地で全米自動車競争協会(NASCAR)が発足。翌年には早速公式レースが開催され、数日後には同協会の法人化への手続きも完了して、その後は同地域を中心に競技が行われ続けた。 シーズンの形成と車体の進化1959年のデイトナ500初開催に多数の観客が詰め掛け、続く1960年代にはきわめて局所的ではあるがライブ中継が試みられていた。そして1969年 - 1970年にかけて競技車両はストックボディ(市販車)からパイプフレームへと移った。これによって軽量・高剛性になったことはもちろん、大きな安全性も得られた。1970年代初頭には煙草ブランドのウィンストンがNASCARの冠スポンサーへ付き、シリーズも近代的な形へと改編され、レース数の縮小、ショートトラックレースの排除などが行なわれた[1]。レギュレーションの範囲内で車体も進化を重ね、よりパワフルなマシンが登場している。そして、そのモンスターマシンを駆るリチャード・ペティ達にいつしかアメリカ南部の若者は夢中となった。 デイトナ・ビーチからお茶の間へ1980年代へ入ってもNASCARは "カントリー" なイメージを払拭できずにいたが、それでも惹かれたファン達はデイル・アーンハートらのレースを観客席、あるいはリビングで固唾を呑み見守った。その後1979年にはウィンストン・カップ全戦のテレビ放映が開始、完全に興業の主体がテレビ放映へと移行する。それに伴って以後は都市部での視聴者拡大に対して運営側の強い意識が向けられた。ドライバー達にも幾度目かの世代交代が起こり、"都会っ子" ドライバーは伝統的な開催地にて度々熱心な親子のファンからブーイングを浴びつつも、テレビカメラを通して視聴する者達の応援を期待しながら走行を続けた。 エンターテイメント性の追求近年は同シリーズにとって目下のライバルであったオープンホイール競技団体の分裂もあり、最高峰シリーズの看板スポンサーが通信企業(スプリント)に変わった現代でもNASCARの人気は増加傾向である。そして南部を沸かせた英雄の息子はメディアの発達もあり全米の子供達のアイドルとなって、さらには3世代のファンとドライバー達も登場した。しかし今日では数千万人の視聴者を満足させ続けるレギュレーションが必要不可欠となり、2004年からはファンの納得できるチャンピオンの誕生と、シーズン後半の消化試合をなくす目的でチェイス(2017年からプレーオフに名称変更)が導入されている。また安全面では2001年のデイトナ500以後、対策が積極的に思案されるようになった。 規格コースNASCARはインディカーと同じようにアメリカ独自のレースであり、ヨーロッパや日本のレースとは大きく異なっている。その主な理由は、多くのサーキットが、ヨーロピアンスタイルのロードコースではなく、アメリカンスタイルの楕円型をしたオーバルトラックであることに由来し、ロードコースでの開催は年間わずか2レースのみとなる。1周0.5マイル(約0.8 km)のショートオーバルから、2.66マイル(約4.3 km)のスーパースピードウェイのコースをひたすら超高速で周回する。オーバルサーキットの場合、その速度は各マシンのドラフティング効果も相まって時速300 km以上にも達する世界でも稀にみる超高速レースである。 車体誤解されがちであるが、NASCARマシンはマルチメイクである。メーカー・チームごと車両は組み立て・開発をするか、他チームから購入する。ただしレースの成り立ちがアマチュアによる市販車レースであったため、NASCARは車体製造のコスト高騰を極端に嫌う。そのため高価なチタンやカーボンファイバーの使用を禁止している。競技用四輪車としては非常に重く、レギュレーションによって最低重量は3,450ポンド (≒1,560 kg) と規定されており、そもそも前述のような特殊材料を使ってまで軽量化をするメリットがない[注 6]。これはレースのイコールコンディション化に大きく貢献している。 しかし〝ストックカー〟という名前が付いているものの、それ以外の実態については、ワンオフのパイプフレームに金属外板を貼りつけ市販車を模した外観で、燈火類は無く、それに当たる部分はステッカーや塗装で表現、ドアも無く乗り降りはガラスは無く、乗車後保護ネットを張った窓部分から行うなど、市販車とは全く異なるレーシングマシンである。1950年代から1960年代にかけて、アメリカ車にはどの車種にも非常に高出力なエンジンを搭載したスポーツモデルが設定され、頂点のモデルとしてファストバックスタイルのマッスルカーが若者の人気を集めていた時代には、メーカーの販促の意味もあり市販車ほぼそのままの形態で参戦していたが、より高度なエアロダイナミクスを求めて大型の空力付加物の装着が試みられた1969年から1970年シーズンのエアロ・ウォーリアと呼ばれる特殊モデルの台頭により、レース速度の高速化と車両価格の高騰が顕著となった事から、1971年シーズンからは空力付加物の制限とホモロゲーション取得のための最低販売台数が大幅に引き上げられたため、膨大な開発費用が掛かるエアロカーは僅か2シーズンで姿を消した。同時期に発生した第一次石油危機の影響と自動車排出ガス規制の強化、若者向け自動車保険の懲罰的高騰などにより、1960年代のような有鉛ガソリンの使用を前提とするフルパワーエンジンのマッスルカーの市販が次第に難しくなった事情なども重なり、その後はパイプフレームに金属製カウルを架装し、レース専用エンジンを積む現在のような車体が主流となった。 タイヤはそれほどでもなく、アルミホイールやマグネシウムホイール等の軽量ホイールを使用せず、一般のアルミホイールよりも軽量に作られているNASCAR用スチールホイールを使用し、なおかつレーシングカーによく見られるセンターロックホイールではなく、装着を容易にするためにナットはあらかじめホイールに接着された昔ながらの5穴ホイールであったが、2022年シーズンから実装されたGen7carではセンターロックホイールが採用された。 リアサスペンションは長らく車軸式が一般的であったが、2022年以降カップ戦では独立懸架式が採用されるようになっている。 車検の際には「テンプレート」を使用して空力チェックを行うユニークな場面が見られる。これはかつてスモーキー・ユニック(1923年5月25日 - 2001年5月9日)という規定違反すれすれの行為を繰り返していた悪名高いエンジニアが、他のマシンより空力的に勝る一回り小さいマシンを走らせ失格となったというエピソードから始まっている。車輌ごとに決められたテンプレートをあてがうことにより、空力的な違反が無いか細かくチェックされる。 エンジンエンジンは近年では珍しい存在となりつつあるOHVを使用している。しかし、358立方インチ (≒約5,866 cc) のOHVエンジンは軽く10,000 rpm近くまで回り、840馬力以上を搾り出す。これはDOHCエンジンを20,000 rpm近くまで回したNAエンジン時代のF1エンジンと同様に、最先端の技術によって作られたレーシングエンジンであることを窺い知ることができる。設計の自由度についてはむしろF1よりも大きいという[2]。 ギアボックスはG-Force製Hパターン4速MTが組み合わされ、コースごとにギアレシオの変更を行う。 供給はGM、フォードに加え、2000年代に入ってトヨタが積極的な参入姿勢を示しており、2001年からNASCARマシンであるにもかかわらずDOHCエンジン搭載車であるセリカで下位カテゴリーへの参入を開始したのを皮切りに、2004年からはクラフツマン・トラック・シリーズにタンドラで参戦している。タンドラについては本来4カムSOHCのV型エンジンを、わざわざOHVに改造して参戦している。2007年からはカムリでスプリントカップ・シリーズ、ネイションワイド・シリーズの両シリーズに参戦している。 2011年までは燃料供給にキャブレターを使用していたが、環境保護アピール等の要因から、スプリントカップシリーズでは2012年よりフリースケール・セミコンダクタとF1のマクラーレンの関連会社であるマクラーレン・エレクトロニック・システムズが開発した電子制御式の燃料噴射装置が導入された。ただしレース中にエンジンマッピングを書き換えるような行為は禁止されており、ドライバーの腕による燃費制御等の余地を残している[3]。 2012年までは米ビッグスリーの一角であるクライスラーもダッジブランドで供給を行ってきたが、有力チームのペンスキーを同年限りで失うなど近年勢力の衰退が著しく、結果的に同年限りでスプリントカップ・シリーズ及びネイションワイド・シリーズから撤退することになった[4]。 ホイール2021年から長年の5穴仕様から変更され、次世代カップカーでセンターロックホイール[5]が採用される。 安全対策現在ではオーバルコースの外側やトラックによっては内側にも緩衝帯が設置されている。2001年デイトナ500でのデイル・アーンハートの死亡事故の後にはHANSの着用も義務付けられた。さらに2007年からは、カー・オブ・トゥモロー(CoT)と呼ばれる新型車がスプリントカップシリーズにおいて採用され2008年より全面移行、より安全性が強化された。 平均時速が高いデイトナ、タラデガの二箇所でレースが行われる場合、リストリクタープレートが装着される。これによって馬力は500馬力前後、レブリミットは7000rpm程度までに落ちる。 屋根にルーフフラップと言う空力ブレーキの設置が義務付けられている。これはスピンの際マシンが後ろ向きになると後ろ向きの空気の流れで立ち上がる小型の板で、この板が屋根から立つことにより車体上方の空気の流れを乱流にして揚力を小さくさせ、車体が浮き上がらないようにすることで、転倒やそれ以上の大事故となることを防ぐものである。 用語、レース上の特徴
その他
日本勢日本メーカー過去から現在まで、トヨタがほぼ唯一日本メーカーとして参戦している。トヨタは2000年にV6エンジンのセリカでグッディーズダッシュシリーズからNASCARデビューし、2003年にドライバーズタイトルを獲得。2004年に日本メーカーとして初めて3大シリーズ戦の一つクラフツマン・トラックシリーズにタンドラでステップアップし、2006年には初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。以降同シリーズでは2016年までの11年間に全メーカー中最多の9度のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。 2007年からは最高峰のネクステルカップ・シリーズ、加えてネイションワイド・シリーズにもカムリで参戦を開始。ネイションワイド・シリーズでは2009年にドライバー・マニュファクチャラーズ、そして最高峰のスプリントカップ・シリーズでは2015年にドライバーズチャンピオン(カイル・ブッシュ)、2016年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。2016年はデイトナ500優勝(デニー・ハムリン)、エクスフィニティ・シリーズ及びキャンピング・ワールド・トラック・シリーズのマニュファクチャラーズタイトルも勝ちとったため、三大シリーズ同年制覇の快挙を達成した。 2019年はカップ戦で最終戦前にマニュファクチャラーズタイトルを決める圧倒的な速さで、最終戦を制したブッシュがトヨタの3度目のドライバーズタイトルも獲得した。 カイル・ブッシュのNASCAR史上初の2度の同一週末での3大シリーズ制覇は全てトヨタ車によって成し遂げられている[16]。また、2016年にマーティン・トゥルーレックスJr.がコカ・コーラ600で全400周中392周、588マイルに渡ってラップリードを記録して勝利した[17]時のマシンもトヨタ・カムリであった。 エクスフィニティは2019年にベース車両をカムリからGRスープラへと切り替えた。 日本人ドライバー日本人としては過去に鈴木誠一が1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)に掛けて、スポット参戦ながらもNASCAR Grand Americanシリーズのデイトナ戦に3年連続で参戦。1995年(平成7年)には桃田健史が NASCAR SuperTruck Series(現:キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)のシリーズ発足年にPhoenixで1戦参戦している。2000年(平成12年)には古賀琢麻がNASCAR Weekly Racing Series に参戦、シリーズ参戦選手の中でもっともアグレッシブだったドライバーに与えられるハードチャージャーアワードを受賞している。2002年(平成14年)からNASCAR K&N Pro Series-Westに参戦し、2017年よりフルシーズン参戦をしている。 2002年(平成14年)には福山英朗がウインストン・カップ(現・モンスターエナジー Cup シリーズ)にDover戦でデビューし、翌2003年(平成15年)にはLas Vegas、Sonoma戦で決勝進出し、日本人として計4戦のNASCAR カップ シリーズ レースキャリアを持っている。 現在は2003年(平成15年)から Whelen All-American Series に参戦を開始した尾形明紀が、NASCAR K&N PRO SERIES-EASTの経験を経て、2014年(平成26年)からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにスポット参戦している。また2017年から、欧州で開催されるNASCAR・ウィレン・ユーロシリーズに三浦健光がカムリで参戦している。 日本人チームオーナークラフツマン・トラック・シリーズなどにドライバーとして参戦していた服部茂章が、2008年からHRE(ハットリ・レーシング・エンタープライズ)を組織してチームとして参戦。2009年にはトヨタと日本政府観光局がスポンサーになってキャンピング・ワールド・トラックシリーズにスポット参戦した。 その後HREはNASCAR K&N PRO SERIES-EASTで優勝を取ったあと、2017年からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにフル参戦を開始。2018年にアトランタで初優勝を挙げると、同年日本人オーナーとして初となる3大シリーズチャンピオン獲得を達成した。 日本開催1996年・1997年に鈴鹿サーキット東側コース、1998年にツインリンクもてぎのオーバルコースでエキシビション戦の「NASCARサンダースペシャル」、1999年にツインリンクもてぎのオーバルで「NASCARウィンストンウェストシリーズ(NASCAR K&Nプロシリーズの前身)・コカコーラ500」が開催された。ジェフ・ゴードンやデイル・アーンハート、ダレル・ウォルトリップ、デイル・ジャレットといったスーパースターが来日した他、日本からも土屋圭市、織戸学、福山英朗、中谷明彦、脇田一輝、中路基敬が参戦した[18][19]。 放送局(メディア)
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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