横歩取り (対中飛車)持駒 歩
対中飛車での横歩取り(たいなかびしゃでのよこふとり、英:Central Rook vs Side Pawn)は、古くから指されていた定跡で、後手番の飛車先交換型中飛車によって先手居飛車に3四の歩を取らせる戦術(相掛かり横歩取り戦法を参照。)。 1980年代まで見られていたが、ゴキゲン中飛車の出現以降、この指し方よりもノーガード戦法のように角交換を利用し反撃する急戦が利用されるようになり、また先手もこの戦型となっても横歩を取らない指し方を選択することが多く、現在の棋戦ではあまり生じない[1]。 この戦術の例は、天野宗歩ら江戸時代の棋士も指しており、戦後は1947年6月6日の名人戦、塚田正夫対木村義雄 戦で現れた[2] 手順その1
1...▲7六歩△3四歩 ▲2六歩△5四歩, 2...▲2五歩。戦法は、両者の角道が開いた状態で、後手のゴキゲン中飛車(この指し方が成された時期にはまだ発明されていない)に似た手順から開始される。両者の角道が開いている状態で、先手は居飛車位置を選択、後手は5筋の歩を突いていく。 3...△5五歩。しかし、5筋での動きで定跡は中飛車へ移行。後手は中央の歩を位取り、いったん角道を閉じて角交換を防ぐ。 4...▲2四歩△同歩角道が閉じているので、先手は2筋歩交換が可能。
5...▲同飛。ここで後手は△3二金と上がり、2筋の飛車の成りこみを防ぐ。 ゴキゲン中飛車出現後には、この瞬間に△5六歩と角道を通しつつ、敵陣の中央攻撃を図る。以下、先手▲5六同歩には△8八角成▲同銀△3三角、▲2二角成には△同飛とぶつけるなどで、難解な乱戦に持ち込まれる指し方がもっぱら指されるようになる。その後、この順を先手居飛車側は嫌い始め、藤井猛によっていったん▲5八金右とタイミングを計りつつ中央をケアし、△5二飛を待ってから▲2四歩とする指し方も、後に広く用いられていった。 6...△3二金。7...▲3四飛△5二飛。先手は後手の3四の横歩を取り、後手は飛車を中央に振る。
7...▲2四飛△5六歩。8...▲同歩△8八角成。先手は飛車を2四と2筋に戻した後、ここで後手は5筋の歩を突いて、角交換を図る。ここでは△8八角成の他に、後述のその2に示した△同飛もある。 9...▲8八同銀△3三角。
10...▲2一飛成△8八角成。11...▲7七角△8九馬。12...▲1一角成
13...△5七桂▲5八金左。14...△5六飛▲6八桂、で難解な将棋が展開する。 その2
1988年王位戦第4局、▲谷川浩司王位vs△森けい二九段戦で、後手番となった森はこの5五歩位取り横歩取らせ型戦を選択。先手の谷川は▲3四飛とし、以下△5二飛に▲3六飛とした。この指し方は江戸時代からある手で、1845年の▲大橋宗民vs△天野宗歩戦が知られている。宗歩は△4四角として飛車を2六に戻さない手段を選んでいる。 王位戦では森は△6二玉としている。一方宗歩は居玉で進めている。以下先手が2六に飛車を戻すと、以下△5六歩▲同歩△8八角成▲同銀に今度は△4四角があり、このときには前述その1と違い、後手が△6二玉がはいっている。 その他の展開は、5筋位取り中飛車#超急戦なども参照。 森は他棋戦では対局者に▲2四飛とされた場合には△5六歩とし、以下▲同歩に△同飛としている。それまでは前述のその1の順が指されていた。しかし1960年代から70年代にかけて柿沼がアマ棋戦で単に△同飛とする指し方で連勝を重ね始めた。もとは1936年に平野信助が坂口允彦相手に指している。その後プロ棋戦では1977年に真部一男が加藤一二三戦で試み、木村嘉孝もこの戦型を多く指していた。当初居飛車は△同飛に▲5八歩と控え歩で対処していた。ところが後に柿沼は居飛車側をもって、▲5八歩にかえて▲5八金右を指し、△5七歩に▲6八金右、△5八銀に▲4八玉以下、居飛車が指せることを示した[1]。森も王位戦と同年の全日本プロトーナメント(現朝日杯)で森内俊之に同手を指されて敗北している。森内自身もこの中飛車を阿部隆相手に棋戦で指したところにこう指されて困ったので、試してみたと述べている。このため、▲2四飛に穏やかに△2三歩として治める将棋も指されていた。 翌年1989年王位戦も同じ谷川vs森となって、第3局で同戦型となり、今度は先手谷川は横歩取りに3六飛ではなく▲2四飛とし、△5六歩▲同歩△同飛に▲5八金右を選び、後手森は△6二玉で以下▲2八飛△7二玉となった。 関連項目出典
参考文献
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