袖飛車
袖飛車(そでびしゃ)は、将棋の戦法の一種であり、居飛車に分類される。英語名は、Sleeve Rook。 先手ならば飛車を3筋に、後手ならば飛車を7筋に振る。通常振り飛車には含めないが、振り飛車からの変化でこの戦法へとつながることも多い。狙いは対居飛車と対振り飛車で全く異なる。 創案者は阪田三吉であると言われており、飛車の定位置から左に一つ動かした構えを袖に例えた命名である。 分類・応用対居飛車坂田流の袖飛車では、相手の玉頭から攻めるのに用いられる。飛車を3筋に動かすが、振り飛車ではなく居飛車に分類される。奇襲の一つとされており、初手から飛車を振るか、3筋の歩を突くことが多い。 戦法の狙いは第1-1a図のように▲5七銀型の陣形にしておき、そこから相手が対振り飛車模様の陣形に組んできたら▲3六歩-4六銀の形に組み、△3三銀ならば以下は▲3五歩 △同歩 ▲同銀と仕掛ける。△3一角ならば▲3四歩 △2二銀 ▲6五歩 △8五歩に ▲3七桂とし、△8六歩ならば▲4五桂と跳ね(第1-1b図)、以下△8七歩成ならば▲3三歩成 △同桂 ▲同桂成 △同銀に ▲2四銀(第1-1c図)で決まる。
かつて坂田の孫弟子であった内藤国雄が、1982年に将棋マガジン誌上で阪田流をベースとした袖飛車戦法の講座を連載しており、雁木の構えから右銀を繰り出すスタイルを採用していた[注 1]。その際には角交換をされると指しにくくなるので、飛車先(8筋)は▲7七角と上がって受けないことを推奨していた。進め方は一例として、第1-2図から▲3八飛以下△4四歩▲4六銀△4三金▲3五歩△同歩▲同銀△3三銀▲3四歩に△2四銀が受けの手筋であるが▲同銀△同歩▲3五銀△2三銀▲7九角といった手順で進められていく。また内藤は1971年8月10日十段戦予選 対桐山清澄戦や1975年2月7日NHK杯将棋トーナメント 対加藤一二三戦など、プロ公式戦でも戦法を採用している。この他先崎学や渡辺明、井上慶太等もNHK杯に於いて用いており、結果は先崎、渡辺は敗北したが、井上は勝利している。実戦例が少ないため、定跡としては未完成の部分が多く、この仕掛けが成立するかどうかは現在プロ棋士の間でも議論が続いている。 近藤正和は振り飛車党であるが、このタイプの袖飛車の採用もある。3筋(後手なら7筋)の歩を伸ばした後に、他の筋に飛車を振り直す(左玉中飛車など)使い方もしている。
2手目△7四歩戦法初手に▲3六歩と指して、後手が△3四歩ならば袖飛車に移行する、もしくは先手▲7六歩に2手目に△7四歩と指して、袖飛車に移行する戦術がある。後手番2手目△7四歩戦法は中村修によって初めて指された[注 2]。それに対し、▲5五角といきなり飛車取りに出るのは、△3四歩▲8二角成△同銀となり、先手は次の△9九角成を受けなければならないので、▲8八銀と指す。それに対し後手は△9五角と打つと、先手は飛車を間駒しなければならず、後手良しとなるため、成立しない。上述の井上はそれを改良した4手目△7四歩を何度か公式戦で指しており、著書も出している。 羽生式袖飛車後手番の戦法で、初手▲2六歩に△3二金、以下▲2五歩であれば△7二飛という出だし。羽生善治対豊島将之(2018年棋聖戦第3局)で初出。
その後、図のように7筋の位を取って飛車を浮き飛車に構える。先手の角道が開けられていないので、先手の角行がすでに使いづらくなっているのがわかる。 対振り飛車(対抗型)これには加藤流袖飛車(対中飛車戦法)と、山田道美らが研究を進めていた対中飛車戦法で、加藤一二三も自著で紹介している▲3八飛戦法(▲4七銀型、▲4七金型)とがある。 対後手ツノ銀中飛車に対する有力な対策として、加藤一二三の「加藤流袖飛車」(5七銀右戦法袖飛車型)は実戦例も多く、対ツノ銀中飛車における主流戦法であった。形自体は江戸時代に赤縣敦菴が寶永4年(1707年)に刊行した『象戯綱目』に掲載された、題名「対馬駒組先手後手」の局面でみられる。 1981年12月から1982年11月末日までの統計で居飛車対振飛車対抗系のうち、中飛車のは総計144局あった [1]。このレポート時点では 4六金戦法は7局に対しこの戦法の方が10局で、4六金戦法より指されており、スマートな形が受けていたのではないかとしているが、その反面攻めが細く振り飛車側に押さえ込まれる危険性があるとしている。 近年は居飛車穴熊戦法がツノ銀中飛車を壊滅に追いやったために、ツノ銀中飛車自体が採用されず、殆ど見ることが無い。
図は袖飛車から3筋の交換を行ったところ。以下、△3四歩ならば先手は右図のように組んでから▲2四歩△同歩(又は△同角)▲4五歩などの攻めが生じる。このため左図で後手は△4五歩や△3一金~△3二飛[注 3]などで直ちに反撃する変化をみせることがある。 △4五歩の反撃は先手が▲3八飛と寄った瞬間や、左図で△3四歩▲3六飛と構えた瞬間に指すケースもある。また1981年3月 オールスター勝ち抜き戦の▲小林健二 vs.△桐山清澄戦では、先手の小林は4八銀型で▲3八飛から▲3五歩を決行。以下後手の△同歩 ▲同飛 △4五歩に 先手は▲3三飛成とした。以下 △同桂 ▲4五歩 △4二飛 ▲4四歩 △3四銀 ▲1六角 △2四飛 ▲3五歩と進む。 また、急戦持久戦を問わず、定跡中の変化で角頭を狙うために袖飛車になることも多い。 ツノ銀中飛車における有力な変化として、大山康晴が得意とした、居飛車の左翼への攻撃を軽く受け流しつつ、次項にある袖飛車の形にして居飛車の船囲いの玉頭を直撃するものもある[注 3]。 振り飛車としての袖飛車
上記のように、袖飛車の形にして居飛車急戦船囲いの玉頭を直撃する手段は中飛車以外にも採用される場合がある。第2-1図のように△3二金型振り飛車の場合にこうした手段をとって反撃する指し方が生じる。 振り飛車穴熊で相手が居飛車急戦できた場合、早稲田大学将棋部『史上最強!ワセダ将棋』(講談社、1982年)では、上図例などのように袖飛車にして戦う方法を教えていた。これは逆に居飛車穴熊側の場合には7筋(後手なら3筋)に飛車を振って玉頭を狙う戦い方も知られている。 振り飛車党の棋士やオールラウンド・プレイヤーの棋士が袖飛車を採用する場合、右玉にして振り飛車のような使い方をする場合がある。 窪田義行(二段目にいる飛車の下を玉が通り袖飛車の右に移動)、土佐浩司(飛車を下段に落とし玉をさらに右に移動)や中田功(右玉の壁となった飛車を相手に狙わせ捌く)などに実戦例がある[2]。 「耀龍(ようりゅう)四間飛車」[注 4]の大橋貴洸や、十八番のひねり飛車を持つ斎藤明日斗[3]は居玉のまま袖飛車を使う。対局の進行上、居玉から右玉に変化する場合もある。力戦調のダイレクト向かい飛車が得意な大石直嗣は終局まで、袖飛車も居玉も全く固定した位置のまま勝利した(居玉の周囲5マスには自駒が全くなかった)[4]。 棒玉袖飛車森安秀光はかつて袖飛車を二段目のまま、玉がその上を越えていき(一時的に飛車の直前に玉がいる状態になる)右穴熊に囲う妙技を見せた。この戦法の初出は1988年5月の王位リーグ、森安秀光-真部一男戦で、当時話題になった。袖飛車の指し方は▲3八飛-3六歩型で▲4八玉~▲3七玉~▲2八玉~▲1八香~▲1九玉と、飛車の頭を経由して穴熊に潜っていく。先手の狙いとしては、まず袖飛車にして後手の動きを牽制する。居飛車穴熊にするようなら3筋から速攻を仕掛ける。相手が穴熊をあきらめたらこちらが穴熊に組み、堅さ勝ちを目指す、というもの。 その後プロ棋士の公式戦でも森安の他にもこの戦形が幾つかみられた。図面は1992年の女流王将戦第1局の先手林葉直子-後手清水市代戦。
脚注注釈出典
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