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この項目では、「進め!電波少年」のタイトルで1992年から1998年1月1日まで放送された番組について説明しています。
- 1998年1月11日から2002年まで放送された番組については「進ぬ!電波少年」をご覧ください。
- 本番組を含むシリーズ全体については「電波少年シリーズ」をご覧ください。
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『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、1992年7月5日から1998年1月1日[注 1]まで、日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:55[注 2] (JST) に放送された、日本テレビ制作のバラエティ番組。電波少年シリーズの第1弾に当たる。
概要
「見たいものを見る、したい事をする、会いたい人に会う」という3つのコンセプト[4]の下、アポなし、突撃、ヒッチハイク、さまざまな無茶に挑戦した、テレビ史上類を見ない伝説的バラエティ番組として幅広く認知されている。およそ5年半におよぶ放送期間中、マフィアから暴力団、スラム街までも番組の題材にし、出演者の生命や番組自体の存続にも関わる危険なロケも多かった。そうした事情から、再放送の際には一部カットされている回や欠番になっている回もある。
CS放送では、CS★日テレにて1996年から2000年9月まで、地上波との同時放送が実施されていた他、2010年3月12日から2017年3月まで日テレプラスでも再放送が行われた(1997年6月15日放送分まで)。さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。これらの展開に合わせて、電波少年ホームページも2010年3月29日にリニューアルされた。
制作の経緯
当初、『笑撃的電影箱』の第1部としてスタートした本番組は、元々はウッチャンナンチャン主演の映画『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった[5][6]。同番組の出演者のうち、出川哲朗は本番組にもアポなしロケに出演していた他、ウッチャンナンチャンも不定期特番の『電波少年INTERNATIONAL』や『いけ年こい年』にゲスト出演している[注 3]。
日本テレビのとある人物が、1990年前後のある時『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)で松本明子と松村邦洋の絡みトークを見た際、「この2人の組み合わせは面白い」と感じたことで、本番組のMCとしてこの両名の起用が決まった[7]。一方で、当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、「視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろう」と考えたが、前述の通りMCとしての松本と松村の起用は編成ですでに決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と、後述の顔だけのCG合成を決めた。
構成作家の小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言(詳細は『中村敦夫の地球発22時』も参照)に由来した『怪傑電波芸者』を提案。しかし、これに対して製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』および『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。
「どうせ2ヵ月だけ」のつもりで放送し、社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また、改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年INTERNATIONAL』や、1997年以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年には1月1日に放送されたスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。
特徴・内容
スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた[4]。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である[4]。この映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時日本テレビを含めても全世界に数台しか無かったという。
また、VTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触♡」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもの[4]で、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。
形式上は松本と松村がMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。
- アポなしロケ
- 当初は「アポなしロケ」という、松本や松村、ゲストが事前許可(アポイント)を取らず多くの著名人に様々な依頼を敢行するという企画を中心に行われた。そのスリリングさから人気を博したが、たびたび「無礼だ」などと抗議の的となるお騒がせ番組でもあった。海外ロケでは、ホテルを予約せずに安い金額でホテル探しをするのが定番であった。
- アポなし企画は政治家をネタにすることも多かったため、松本と松村の2人は永田町周辺ではブラックリストに載っていたとされている。南アフリカ共和国でのロケでは実際に当時の大統領ネルソン・マンデラと対面し、わざわざ日本から来た松村に驚くどころか感心していた。他にもアポなしでマフィアのボスに会いに行ったり、暴力団の事務所に行ったり、夜のスラム街に行ったりと、生命に関わる危険なロケも多かったが(松村は拳銃で脅されたことすらある)、それが視聴者の興味をそそり高視聴率を記録した。またアポ無し取材で原水爆禁止日本協議会(原水協)に「核廃絶推進番組」のお墨付きをもらったこともある。
- 一方で、本番組が世間で徐々に有名になると、次第にアポなしロケで突撃しても相手から歓迎されるようになり、土屋はこの企画の限界を感じた[4]。ほどなくして「アポなしロケ」に変わる新企画を考えた結果、下記の通り海外を貧乏旅行する「ヒッチハイク企画」を思いついた[4]。
- ヒッチハイク企画
- 1996年4月に始まった猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、社会現象とまでなった。この企画を機に、以降無名のタレントを使ってまさに体を張った体験取材企画が中心となった。その結果、前出のアポなし取材は1997年以降ほとんど行われなくなり、立場の薄れた松村も後述の理由から降板を余儀なくされた。
出演者
司会
ナレーター
- 木村匡也
- 西本聖(1994年11月20日放送分での「西本投手にナレーターになってほしい!」というコーナーのあと、当日放送分の番組後半のみナレーターを担当)
その他の主な企画出演タレント
代表的なアポ無し企画
- 憧れの227cmの岡山さんに会いたい!
- 第1回目の企画。松本が会いたい人は、「羽田のモノレールで見かけた大きい人」ということでスタッフが調査したところ、住友金属工業に勤めている岡山恭崇さんということが判明した。会社に取材申請を入れたが、案の定拒否。しかし、土屋の「いっちゃえ」という独断でロケ敢行。4時間待った後、会社前で帰宅途中の岡山さんを発見。「ファンなんです」「日本一のタカイタカイをして下さい」とお願いし、見事してもらうことに成功。松本は岡山さんにお礼を言いながら見送り感涙し、この様子に土屋が「これだ!」とひらめき、「アポなしで突撃する」というのが番組のコンセプトになった[7]。この辺りについて、最初からアポなしを趣旨としていたわけではなかったが、「事前に打ち合わせをしていなかったことが逆に感動を呼んだ」ことに土屋が気付いたからだと、後年『人生が変わる1分間の深イイ話』で明かされた。
- 森英恵にスタッフジャンパーを作ってもらいたい
- 番組開始から3か月ほど経ち軌道に乗りだした頃、松本と土屋が食事をしている時に松本が、「番組のスタジャン欲しいですね」といったところ土屋が「よし、森英恵に頼もう!」と発案し、松本は「エーッ!」と仰天したという。土屋は「絶対無理だろう」と内心確信しており、そのまま後日松本によりこのロケが実行された。ところが森は「いいじゃないの。やりましょう」と逆に面白がり、本当にスタッフジャンパーを作ってくれた。土屋はまさかの快諾に一番驚き、「これが最初の大物ロケの成功だった」と後に語っている。
- 入れ墨バンドに「バウバウ」って刺青を入れてほしい!
- ライブ突入シリーズロケでの第1弾。盛り上がるパンクバンドのライブ会場に松村とスタッフが突入。松村は舞台に上がり入れ墨をお願いしようとするが、会場スタッフに取り押さえられ、舞台下に引きずり下ろされて、警備員や観客にもみくちゃにされる。スタッフが必死に謝ってロケは終了した。
- 松村は舞台下に下ろされた直後、乱入行為に怒った観客から「なんだテメーッ!」と蹴られた。蹴られて痛かったが短時間の突撃ロケだったため、この時の映像では松村の“今日はこれで帰れる”とホッとした顔が映った[4]。
- 突入から退散まで3分程度の非常に短いロケであったため、画面右上に秒数を表示させたうえノーカットで放送した。これ以降、ライブ突入はシリーズ化したが、各所で警戒されることが多くなり突入が難しくなっていった。
- 有名人の豪邸のトイレでウンコがしたい!シリーズ
- 1996年2月25日に初放送。松村がロケ弁を食べ、その後下剤を服用し便意を催したら有名人にトイレの利用を交渉。ロケ途中で失敗(脱糞)してしまうことの方が多かったが、峰竜太・海老名美どり夫妻宅では成功している。
- 土屋は当時(1996年)、アポ無しロケに限界を感じて始めていたが、このVTRに久々に手ごたえを感じたという。よって、撮りだめをして小出し小出しで世間の目を電波少年に引きつけておいて、猿岩石の企画をスタートさせる目論見だった。PART7までシリーズ化され、2010年に発売されたDVDにも特典映像等で収録されている。
- 村山富市の長い眉毛を切ってあげたい!
- 村山の眉毛を切ろうと、松村がハサミ持参で社会党本部に乗り込んだ。突然の申し出に最初は難色を示すが、松村の必死の願いに最終的には笑顔で対応。見事成功し[7]、数本の眉毛にハサミを入れるも切り落とした眉毛をなくしてしまう。このアポ無しロケの成功により、以降松村は国会議事堂や首相官邸にも行くことになる[7]。政治に対してナンセンスなこと(「大臣の椅子に座りたい」、「豪華な会議室で電波少年の会議がしたい」など)に挑戦していくこととなる。ある時、松本が国会議事堂を警備する警察官の額の汗を親切心で拭こうとしたが、危害を加えると思われて危うく公務執行妨害で捕まりかけたことがある[4]。このように怒られることもあったため、その後永田町は出入り禁止になった[7]。
- アラファト議長とデュエットしたい!
- ヤーセル・アラファートに会いに、松本はパレスチナからヒッチハイクを重ねて議長府に訪れた[7]。銃を持った警備員がいたためアポ無しで突撃はできず、建物の前で数時間待った。その後アラファトの関係者の若者が現れ、交渉の末[注 4]、5分だけの条件でアラファトとの面会を許可された[7]。裸で身体検査をした上で部屋に通された松本は、アラファトを目の前に携帯カラオケマイクを持って、「てんとう虫のサンバ」の冒頭を替え歌にして「アラファト私が夢の国」と歌った[7]。アラファトと一緒にデュエットで歌ってほしいという企画だったが、歌を知らないアラファトには歌ってもらえなかったものの、面会に通されて歓迎された。ちなみに松本は、会った時点で嬉しくて「アラファトさ~ん」とハグしようとしたが、警備員たちの銃の安全装置を外す音を聞いて、慌ててハグを辞めたという[7]。後年アラファトが逝去した際は、ナオト・インティライミとともに直接面会した数少ない日本人として松本に取材が殺到することになった。
- 一億円棋士、羽生善治と金銀飛車角桂馬香車歩落ちで戦いたい!
- 松村が羽生の自宅を突然訪問。「対決したい」との旨を伝えたところ了承してくれた。羽生は王しか使えないという最悪の条件だったが、松村は駒の動かし方さえわからず対局中に羽生に教えて貰っているような有様であり、それを覆して松村に勝利している。
- フリーメイソンに入会したい!
- 松村が芝公園にあるフリーメイソンの日本の本部に押しかけ、玄関のインターホンを鳴らして会員にしてくださいと繰り返した。年配の男性職員が対応したが会員にはしてもらえなかった。
- 吉本隆明に息継ぎの仕方を教えてあげたい!
- 海水浴場で溺死しかけてニュースにもなった吉本の自宅に、水を溜めた魚用の水槽をもって押しかけた。吉本は愉快に応じて水槽に顔をつけて息継ぎの練習をした(アポなし訪問の主旨がよく伝わっておらず、実際は息をとめて顔をつけただけだった)。
- 明石康代表に明石焼を食べさせたい!
- 出川哲朗が成功させたロケ。
- この高価なお茶碗で、ご飯が食べたい!
- 『人生が変わる1分間の深イイ話』2008年6月9日放送分で紹介。坂本瀧山(陶芸家)製作高級茶碗で松本がご飯を食べた。坂本曰く「用の美」(実際の使用時こそ、陶器の美しさそのものが最大限になる、という意味)。
- ドラクエのバレエにスライムで出演したい!
- 松村がバレエ「ドラゴン・クエスト」の初演(1995年、スターダンサーズ・バレエ団)にスライム姿での出演を依頼するというものだが、結果は即座に拒否。バレエ団関係者はこの時の松村の行為に怒り心頭だったという。
- 天才登山家・野口健が思わず登ってみたくなる大きな男になりたい!
- エベレストを残し、全ての登山成功で世間の注目を浴びていた野口に登ってほしいと松村が頼み込み、成功させたロケ。
上記以外にも、経営が危なくなった新宿末廣亭を「広末亭に改名すればいい!」と、勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、受付で門前払いされたり、フランスのポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功するなどの企画も放送された。
その他の企画
- 渋谷のチーマーを更生させたい!
- 番組初期の名物企画。放送当時、社会問題になっていたチーマーたちを立ち直らせたいと、松村がチーマーに変装し、渋谷のセンター街へ。更生した若者には更生証明書を渡す準備をしていた。だが近づくやいなや、あっという間に大勢のチーマーに囲まれ、路地の奥へと引っ張り込まれていく。カツラをはぎ取られ松村であることが判明、また隠しカメラも見つかりチーマーは激昂する。皮ジャンをはぎとられた松村は、チーマーたちに腕をつかまれどこかへ強引に連れ去られようとするもなんとか腕を振り切りロケバスへ逃げ込み、辛うじて最悪の事態は免れた。この企画の影響で、不良少年たちの間で松村の知名度が悪い意味で上がり、プライベートで住所や移動車のナンバープレートなどを割り出され、執拗な嫌がらせに苦しむこととなってしまう。
- 本当に強いのか体を張って確かめたい!シリーズ
- ユン・ピョウは本当に強いのか体を張って確かめたい
- 日本テレビ本社前、仕事を終え車に向かおうとしていたユン・ピョウ(元彪)を待ち伏せしていた松村がハリセンで「ユン・ピョウ覚悟〜」と襲いかかる。しかしハリセンは届かず、周りの数人のボディーガードに捕まった挙句本気で蹴られ、ユン・ピョウからも攻撃を喰らうなど散々な目に遭う。当時のプロデューサーの篠木は「これはテロだ」と、オンエアに反対したが、スタッフでもう一度見直したところウケが良かったのでオンエアした。このあとジャッキー・チェン(成龍)アーノルド・シュワルツェネッガー、宮沢喜一とシリーズ化する。
- 牛のゲップを吸い切りたい(地球温暖化を食い止めたい)!
- 温室効果が二酸化炭素の20倍もあるとされるメタンが多く含まれた牛のゲップを松村が吸い取る企画。さらには3年後、一人の力では温暖化が食い止められないとして、出川哲朗、山崎邦正、ウド鈴木の3人が加わった『牛のゲップを吸い切りたい(団体戦)』も行われた。
- 本番組以外でも、同様の企画が2008年6月8日放送の日本テレビ開局55年記念特番『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』のコーナーとして16年ぶりに復活し、松村と横山裕がこのロケに挑んだ。
- NHK紅白に出たい!
- 松本のはかない願いから、「紅白に出たい!」とNHKに猛アピール。頻繁にNHKに通っていた。紅白歌合戦の最中、NHK前で前述の「ネコなんだもん」を絶唱。紅白にも「入れてやれ」という意見が多く届いたという。2年後、遂に合唱団員として潜入し、その年の紅白のステージに立った。NHKのカメラに松本が映し出されたが、手には「紅白もらった」という幟があった[8]。後に松本がNHKのバラエティ番組のゲストとして出演時に、必ずと言っていいほどこの映像が紹介される他、「ネコなんだもん」は『天才てれびくん』のエンディングテーマとしてNHKの電波に流れることともなった。
- バツイチになりた〜い!
- 松村と実際に婚姻→離婚する女性を番組で募集、プレゼントとして指輪(婚約指輪扱い)が用意された。これに当時26歳の看護師(交際相手なし)が応募した。後日、松本が実際に中野区役所へ婚姻届を提出したが、当時25歳だった松村は“今夜この人とヤレるんだ”と勘違いして1人テンションが上がっていた[4]。しかし3日後に離婚届を提出した時は、本気で落ち込む松村の様子が放映された[4]。これにより、松村は戸籍上「バツイチ」となっている。約20年後、松村はこの企画の女性と伊丹空港で偶然再会した[9]。
- 松村の本名を変えたい!
- 放送当時はバルセロナオリンピックに沸く1992年。飛躍の年にすべく五輪にちなみ、「松村バルセロナ」に戸籍上の改名をしようと番組側が提案。実家に行き松村が父に「お父さん、ここでひとつ松村バルセロナという名前に改名しようと思うんです」と告げたところ、父は「そら、えかろうよ」「名前はお前のものだから」と何と了承。家庭裁判所に申請し、結果を待ったが家庭裁判所が却下したため、許可は下りなかった。この時の松村と裁判官のやり取りは、ニュースの裁判報道のようにイラストで表現された。
- 未成年の犯罪を防止したい!シリーズ
- 池袋西口公園(通称:池袋ナンパコロシアム)にたむろする若者たちを松村が注意するシリーズ。第一弾の「男子中高生のナンパを注意したい!」ではナンパを注意しようとしたところ大量の若者に取り囲まれて肩をパンチされるなど散々な目に遭い、続編の「エアMAX狩りをやめさせたい!」では当時人気のナイキエアMAX95を履いた松村が、(しかも靴が目立つようにとパンツ一枚で)西口公園に1人で突入するも、すぐに人がたかり蹴られるなどの暴行を受ける。さらに、エアMAXを履いていることをチーマーたちに気づかれて一気に襲われたためにロケバスに戻ったが、靴を盗まれてボロボロになっていた。だが、接着剤で靴下の裏にくっつけていた靴底だけは死守したと満足げだった。
- 青島東京都知事に会いたい!
- 何かと理由をつけては「青島さんに会いたい!」と、青島幸男に会うために東京都庁を突撃し、その度に断られ続けていたが、十数回に渡るアタックの末海外にてようやく対面。「電波少年迷惑でした?」という問いに青島は「いやいや、時間とってあげたいんだけど」と回答。一方で、都庁サイドからは「いい加減にしろ」と相当な圧力があったという。
- アポなしサンタ
- リースの掛かっている家に、サンタに扮した松本と松村がプレゼントを渡しに行く企画。プレゼントのおもちゃは松本・松村が玩具・ゲームメーカーに赴いて直接ゲットしたもの。電波少年にしては珍しく毒気の無い企画で「年に1度の心温まる企画」。1995年12月24日放送分ではこの企画の1時間スペシャルが放送されている。『進め』終了後は『雷波少年』に移行。また、『進ぬ』でも小池栄子がプレゼントを持って「アンコールワットへの道の舗装」の応援へ向かう『小池栄子のアポなしサンタ in カンボジア』が行われた。
- 無敵のセールスマン
- ふかわりょうがカラオケボックス専用ゲームソフト、『電波少年的ゲーム』[10](開発はハドソン。後にセガサターン・プレイステーションで全国発売)をセールスマンとして売り歩く企画。電波少年INTERNATIONALではマイクロソフトのビル・ゲイツ会長にも自宅に赴き売り込みを図ったが、敷地にも入れず、さらには不審人物扱いされ失敗に終わった。この企画は『進ぬ』初期でも引き続き放送された。
- 48時間テレビ
- 1992年8月に、本家の『24時間テレビ』に対抗して電波少年独自で『48時間テレビ』と題したイベントを行った。この功績が本家に認められたのか、1993年の『24時間テレビ16「愛の歌声は地球を救う」』に松本・松村がチャリティーパーソナリティとして参加した(正式には「お手伝い」という名目)。
- 行くバウ来るバウ
- 1992年の大晦日、受験生の合格祈願を願って、除夜の鐘に合わせて松村の持ちギャグ「バウバウ」を108回受験生と一緒に叫ぶ、という企画。集客人数の見込みを大きく上回る1万人もの受験生が集まり開催が危ぶまれるが、無事決行された。しかし、あまりに人が集まりすぎたため用意していた合格祈願のお守りや豚汁を配ることが出来ず、余興として企画されていたカラオケ大会は中止せざるをえなかった。
- 電波少年刑事
- ビビるが出演。ある事件の取材中に被害者女性宅をカメラで撮影し、110番通報されるトラブルが発生。取材は打ち切りとなり、警視庁からの抗議を受けた日本テレビから土屋が厳重注意処分を受けた。無敵のセールスマン同様、『進ぬ』初期に1回のみ放送された。後に『雷波少年』で『雷波少年刑事』という企画も放送された。
- 郁恵ちゃんの母乳が飲みた〜い
- 1996年の榊原郁恵が次男を出産して間もない頃、松本が郁恵・渡辺徹夫妻の自宅に突撃して彼女の母乳を飲ませてもらう、という企画[7]。アポ無し訪問では、応対した渡辺に自宅に上がらせてもらえたが、松本が企画内容を話した途端、彼に激怒されて失敗に終わった[7]。その際、渡辺からは「(体当たりのロケ番組であることは知っていたため)番組が企画を考えたこと自体は許すが、ここに来たお前の精神が許せない。いくらスタッフに言われても、『お二人(郁恵・渡辺夫妻)にはお世話になってるからできません』と、なんでその一言が言えなかったんだ」と説教されたという[7]。
- ジャイアント馬場さんに番組の感想を聞きたい
- とある放送分にて、ジャイアント馬場に本番組の感想を聞くため、電話をかけてくれるよう呼びかけ、放送中彼からの電話を待った。しかし、番組にかけてきたのは馬場のモノマネ口調で話す視聴者たちだけで、本人からはかかってこなかった[4]。
- 抗議の電話を受けたい
- 本番組に何人かの人から抗議の電話が来ていたことから、その中の1人に松村が直接謝罪に行くというもの。電話で抗議を入れてきた相手に「念のため」と言って、住所と名前を聞き出した。後日松村が相手の家に押しかけて土下座すると、この模様を放送した後その人物からは抗議の電話は来なくなった[4]。
上記以外にも、番組から電波子(現:滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2〜28号を登場させるという企画や、女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員に、「それはお漏らしとは言わない」と松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった企画も放送された。
電波少年INTERNATIONAL
ヒッチハイクシリーズ
お笑いコンビが海外をヒッチハイクしながらゴールを目指すという企画。
のちの番組の顔となり、『進ぬ!電波少年』でも『アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク』(便宜上本項に含める)、『80日間世界一周』などとシリーズ化された。
ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
1996年4月、番組オーディション[11]に参加した当時無名のお笑いコンビ猿岩石(有吉弘行、森脇和成)が、土屋に「電波少年INTERNATIONAL」の香港会場で前説をするように頼まれて連れていかれた。しかし、番組の放送中に突然呼び出されて、そこで「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール」という壮大な目的を果たすよう告げられる。もともとTake2が本命として企画されたものであったが、深沢邦之が当時新婚であったため断られ、代わりに半年間のスケジュールが全く白紙だった猿岩石が起用された[12]。
企画の推移
軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要であることを知らず、いきなり香港で数日足止めを食らうことになった[注 5]。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。
インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。結果、他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった(後述)。爆風スランプによる応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。
この企画において、猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールしたとされていたが、道中でタイ・バンコクからミャンマー・ヤンゴン間(約600キロ)、ヤンゴンからインド・コルカタ間(約1000キロ)、イラン・テヘランからトルコ・アンカラ間(約1600キロ)の3区間飛行機を使っていたことが判明した[13]
。ルートの途中には、国境での外国人入国禁止となった国や内戦や治安が悪いところがあり、安全上の理由から飛行機に乗ったものとしているが、番組内では判明するまで全く触れていなかった。日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)は「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし、各方面から非難を受けた。
また、番組中で猿岩石が「治安の悪い地域で野宿をする」「生水を飲む」といった、実際の旅行者なら絶対に行わない行動をしていることから、バックパッカー経験者からは「番組を真似した視聴者が実際にやれば命に関わる」との警告の声も出ている[14]。
一方で、2人の頑張っている姿に感銘を受けた俳優の渡哲也から石原プロモーションを通じて、日本テレビに猿岩石への「救援物資」提供の打診を行っていたことを、渡が逝去して間もない2020年8月に、有吉が自身のレギュラーラジオ番組『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』(ジャパンエフエムネットワーク)で明らかにしている。日本テレビ側が丁重に断ったため、物資の提供こそ実現しなかったが、猿岩石の帰国後に石原軍団開催のパーティーに招待されるなど、渡との交友関係が続いた[15]。
ゴール直後
幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年の10月にゴール。ゴールの模様は、日本テレビアナウンサー(当時)の船越雅史が実況レポートを担当し、当初は10月19日に生放送が予定されていたが、当日に読売ジャイアンツが出場する日本シリーズ第1戦の中継が入ったため、急遽10月22日の同時間帯での録画に切り替えられた。
ゴール直後、番組から「猿岩石をもっと応援したい」として「今度は南北アメリカ大陸縦断」と提案され、日本行きかスタート地点のマゼラン海峡行きのチケットのどちらか選択するよう迫られるが、二人は迷うことなくすぐに日本行きを選択。この件について、日本テレビへ抗議電話が殺到し回線がパンクする事態となった。結局猿岩石は帰国を選択するが、後年「帰りの飛行機の中、(日本行きを選んだことに)スタッフ全員が怒り狂って一切口を聞いてくれず、その顔は般若だった」と語っている。一方で、土屋は著書において「電波少年がお笑い番組なのに感動へ向かっていることに危機感を覚え、猿岩石は絶対に日本行きを選ぶと確信していたからこそ、予防注射をさせるなどの敢えてお馬鹿な演出をした」ことを明かしている。この時、猿岩石が選ばなかった「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」の企画はドロンズに受け継がれ(後述)、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。
猿岩石は帰国後、西武球場(現:西武ドーム)で凱旋帰国ライブを行ない(猿岩石本人には到着まで内緒)、超満員の客に迎えられた。『ゴッドタン』ドスベリサミットで有吉弘行が述懐したところによると、この時あくまで感動を味わいたかった客の前でネタを見せたが、スベるどころか怒りを買ってしまったという。
その後
本番組の終了後も、2007年よりシリーズ化されたDVD「我々は有吉を訴える」や、2009年の『24時間テレビ』内での企画[注 6]など、有吉をメインとしたヒッチハイク企画が度々行われた。
また本番組と同じく、日本テレビ系列にて放送されたバラエティ番組『有吉反省会』の2時間スペシャル(2014年3月31日放送分)に土屋が反省人として出演した際、土屋は同番組にて司会を務めていた有吉を巻き込もうとするが、この時は逆に有吉が土屋に対して「日本縦断ヒッチハイク」を言い渡し、土屋自身の禊として「日本縦断ヒッチハイク」を決行している[注 7]。
南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク
1996年10月末、電波少年の前説を担当していたドロンズ(大島直也、石本武士(現:ドロンズ石本))に突然カンペが出され、南北アメリカ大陸の縦断ヒッチハイクを命ぜられる。ヒッチハイクといえば猿岩石のイメージが強いが、実際のところ1997年大晦日にゴールするまでにかかった日数は、猿岩石の倍である1年2カ月に及んだ。
猿岩石の時と同様に、こちらも当初からドロンズがこの企画に挑戦する予定ではなく、当初は別のお笑いコンビの出演が内定していたことが、後年明らかにされている。詳細は#松村降板騒動の節も参照。
企画の推移
ドロンズの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。その後、入院した病院で同行ディレクターに行動を強制されたことをきっかけに一度ギブアップを宣言するが、協議の結果和解が成立し終了の危機から脱する。ブエノスアイレス州のドロレス(en:Dolores, Buenos Aires)という街では「電波少年番外編」の企画としてはねだえりかとともにドロンズを探していた両親との再会を果たし、突然の出発で顔も合わせる暇がなかった家族に対し改めて旅の出発の挨拶をする。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ、1カ月近くバラエティ番組『リサスイサルサ』(es:Risas y salsa)に出演し、アメリカではキャンピングカーで旅をしている男性に、体調不良になった大島の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった[注 8]。
同企画でも猿岩石の時と同様にテーマ曲が作られ、TUBEの前田亘輝による応援歌「君だけのTomorrow」がヒットを記録した。書籍としても、企画と並行して『ドロンズ日記』全5巻が、また旅の完結後にムック本「全ドロンズ―Whole lotta Dorons with comic」が発売された。
企画終了とその後
ゴールの模様は、1997年12月31日の大晦日にNHK紅白歌合戦の裏番組として生中継され、当時の紅白の裏番組としては最高視聴率である15.9%を記録。翌日1998年1月1日の元日には、特番『電波少年INTERNATIONAL14』がウッチャンナンチャンをゲストに迎えて放送されるが、ED時に「実は 進め!電波少年は本日をもって終了します」と書かれたボードを突然見せられ、ドロンズが呆然としたまま番組は終了する[注 9]。
帰国後、ドロンズは24時間凱旋帰国ライブを行なった(全24回だと知らされたのは1回目のライブ直後である)。その後同年4月より新たにスタートした『雷波少年』にて、ロバのロシナンテとともに日本をヒッチハイクして縦断する企画に参加した(雷波少年#ドロンズ関連を参照)。
これらの企画が終了したあと、ドロンズはフジテレビの『DAIBAッテキ!!』『DAIBAクシン!!GOLD』にていずれも司会を務めた。いずれの番組にも当時「チェキッ娘」として出演していた野崎恵は、その後「電波少年的15少女漂流記」に参加している。
アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク
ヒッチハイク完結編。シリーズとしては唯一お笑いタレント以外による企画であり、朋友(伊藤高史、チューヤン(謝昭仁))が務めた。ゴール時には、猿岩石・ドロンズがともにスタジオゲストとして出演し、ゴールの瞬間を見守った。
松村降板騒動
裏番組発言
1997年4月13日に朝日放送(ABC)制作・テレビ朝日系列で全国ネット放送された『ゴールデンナイター』阪神×巨人戦(甲子園)に松村がゲスト出演。阪神ファンである松村は、阪神が勝利した喜びに興奮して、「この後、『サンデージャングル』(テレビ朝日系列のニュース・スポーツ番組)を見て下さい!!」と発言。松村は、当時土曜日の『サタデージャングル』レギュラーであったことから、姉妹番組を応援する発言を行なった。
本来『サンデージャングル』は23:00からの放送で、本番組は22:30からの放送だが、当日は直前に放送されていた『おしゃれカンケイ』が60分スペシャルであったため、本番組も30分遅れで23:00からの開始となっていた。このため、『電波少年』の裏番組を宣伝する発言をしたという理由で、松村は強制的に番組出演を自粛させられてしまう。もっとも、当日はプロ野球中継の延長により、『サンデージャングル』も同じく30分遅れの23:30からの放送となっており、結果的に本番組とは放送時間が重複しなかった。
テレゴングによる処遇
その後、松本だけでスタジオ収録が行なわれ、松村のロケのVTRはもちろん、過去のVTRにおいても松村の顔にモザイク処理を施すなどして、松村を徹底的に排除した放送が続く。この仕打ちに松村もまいり、スタジオ収録中の松本に謝罪と復帰を懇願する電話を入れ、松村に悪気がなかったことは認められたが、自粛中に視聴者から「松ちゃんを辞めさせないで!」という意見と、「よくぞ松村を辞めさせてくれた!」という意見が2通ずつ届き、松村に対する世論が拮抗したため、テレゴングによる視聴者投票によって松村の処遇を決めることとなった。
その結果、「許してあげる」:1,340,946票(49.2%)、「許してあげない」:1,383,836票(50.8%)となり、42,890票(1.6%)の差で「許してあげない」に決定した。
その後、視聴者から「松ちゃんを許してあげて!」という意見が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが、今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到したとして、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけてんのか!」という苦情が寄せられるようになったとして、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます(笑)」と回答、結局松村は復帰する。これにより、松村の降板騒動は再度炎上することとなった。
この間は「レギュラー司会者争奪サバイバルシリーズ!」と称して松村と当時の若手芸人とのVTR対決が行われていた。
突然の降板
しかし、1997年大晦日のドロンズゴール特番には出演するものの、翌日の新年特番にはなぜか出演しなかった。以降『進ぬ!』での出演もなく、大晦日が結果的に最後の出演となった。この突然の降板について番組や本人からは何の挨拶も説明もなく、その後の番組内でも松村について一切触れていなかったことから、土屋は降板騒動について「実はマッちゃんがノイローゼになったとか周囲から言われて心配していた」と語ったが、何の挨拶もなかったことについては「電波少年に花束はいらねぇだろう」の一言しかコメントしなかった。この時、松村の降板に対する抗議電話は一本もなかったという。
『進め!』末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に『松村邦洋のひとり電波』という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。
松村降板の影響は、前出の「大陸横断ヒッチハイクシリーズ」第2弾にも波及する格好となった。当初、同企画の開始に先立って行われたオーディションにおいて、お笑いコンビ「スープレックス」(川島省吾、秋永和彦)が出演者として内定していた。ところが、スープレックスが松村(や猿岩石)と同じ太田プロダクション所属であったことから、松村降板の煽りを食らって彼らのヒッチハイク企画内定も取り消しとなり、その代替としてマセキ芸能社所属のお笑いコンビであるドロンズが、同企画に参加することになったのである[16][17]。
真相について
後年、土屋は自身の著書の中で「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。これは、以下の事情によるものである。
- 番組が有名になったことで、アポなしロケをしても相手が歓迎してしまうという、今までのケースが成立しないロケも出てくるようになった。
- 猿岩石の大成功から、「これからはヒッチハイクが主になる」と考えていた(前述も参照)。
- アポなしの顔である松村も「豪邸でウンコ」シリーズなどで奮闘したが、結局「自分の出番が無い!」ということ自体が一番ウケていた。
これらの事情から、「司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上(松村は)外さざるをえなかった」としており、すなわち、「アポなし企画をやめる以上、(立場的にも)松村の降板は避けられなかった」というのが真相であった。したがって、前述の「サンデージャングル発言」は全くの無関係であり、松村も実際はただ台本に従って発言しただけであった。そして、テレゴングによる視聴者投票は、実はスタッフによって意図的に行われた物で、松村の処遇に対しての視聴者からの意見及び苦情も、あらかじめスタッフに用意された物であり、ひっかけも何も無かったことが明らかにされた。
一方で、「『進め! 電波少年』といったら松村」と、土屋もその功績を認める発言をしている。
降板後の松村
本番組を降板後、松村は芸能人として一時期低迷し、当時レギュラー出演していた番組もいくつか降板している[注 10]。特に最低迷期には『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)と『アッコにおまかせ!』(TBS)の2本しか出演がない時期も存在した[注 11]。その反面、本業のモノマネ芸を磨くことができたとも語っている。
後年、朝日放送(ABC)の『ナンバ壱番館』に松村が出演した際は、「嫌がらせがなくなったが、自分が街に出ても相手にされなくなった」と紹介された。同番組では具体的な番組名は出していないものの、「松村の発言で降板を余儀なくされた」という解説があった。
2021年1月から民放衛星テレビ局のWOWOWにて放送を開始した『電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』では、松本と共に松村も同番組の司会に起用され、23年ぶりに電波少年シリーズに復帰することになった[18]。
問題となった事例
- 伊藤悟は、電波少年の企画で、松村が赤ちゃんの恰好で養子にしてくれと自宅に無理やり入ろうとした企画について、押し問答の末、その場でディレクターに抗議をし、映像化しないよう求めた。後に、伊藤は「ゲイのカップルは子供ができないからかわいそう」という思い込みでアポなしを行ったことに驚き、暴力的な感じさえしたと述べている[19]。
エピソード
- 一時、台東区上野に仕事がないイラン人が沢山いたことから[4]、本番組の初回の放送で、「イラン人AD募集」として日本語の流れないペルシャ語だけの映像を流した(映像の意図は後日判明する)。土屋は視聴率よりも視聴者を驚かせたい気持ちで流したらしい。実際に一人のADが採用された。
- 上記の後、元暴力団員のADを募集したこともあり、実際に採用された元暴力団員は後にプロデューサーに出世した[注 12]。
- アポなしのロケに急遽抗議が入って放送できなくなり、穴埋めとしてアルプスの美しい風景を1分ほど流したことがある。この手法は電波少年ヨーデル祭りなど、「進ぬ」以降も何度か行われた。
- ゲストに明石家さんまが来た際、照明がないことや雪山を歩きまわる、動物と闘うといった番組のスタイルに驚き、「なんぼギャラ積まれてもやらん。あかん」と語り言葉を失っていた。
- 番組初期には当時物議を醸していた悪魔ちゃんや、構成作家のおちまさとの妻(当時)がなぜかゲスト出演したこともある。また、ゲストが決まっておらず、急遽日テレ内にいるタレントにアポ無しで出演交渉をすることもあった。
- 松村は「我々が行くところは安全じゃないけど、景色はいい」と語り、松本や土屋も同調している。現にアラスカでオーロラを見たり、砂漠を彷徨ったりと、他番組では味わえないような貴重な景色に出くわしている。
- 土屋は女優・高橋ひとみが番組の熱烈なファンと聞き、ゲストに呼んだ回で「おっぱい見せて欲しい」と番組でお願いしたが(当然ながら)通じる訳も無く、当の高橋はこの言葉にショックを受け、泣いて帰ってしまったという。その模様は放送されなかった。
- 一方で番組スタッフはロケ後、謝罪を繰り返し、オンエアーにつなげた。長濱プロデューサーは「ディレクターや作家の力量もありますが、この番組成功のおおもとは人柄だと思います。僕らは何度も何度も広報の人に頭を下げてオンエアーできるようにがんばってきたんです」と語っている。
- 「松村が貴女のストーカー問題を解決します」として視聴者からの依頼を募集したことがあったが、結局その企画が放送されることはなかった。
- 松本が日本テレビの連続ドラマに出演している時期、そのドラマに出演している俳優がゲストの回では必ずと言っていいほど最後に「先週の電波少年見た?」もしくは、「先週の猿岩石見た?」というセリフを言ってほしいというアポ無し企画があった。
- 土屋は著書やDVDの中で、追いつめられる松村はチャーミングであると評し、この表情が見たいがために過酷なロケを繰り返したと語っている。このキャラクターだからこそ我々は大人のいじめっこにならずにすんだ、と松村の功績を高く評価している。
- 他局の番組でもある『志村けんはいかがでしょう』に出演していた桑野信義に、コント中に志村けんに対して台本にないセリフとして「このハゲ」と言うように命じたことがある(その命令は実行され、その模様は実際に番組内でオンエアされた)。
- 採用されなかったが、企画会議では「ナベツネをツネツネしたい(顔や身体をつねる)」、「ジャンボ尾崎のパットを足で止めたい」という案も出たという[4]。
- ある時松村から「以前、交番の前でウンコしたことがある」との話を聞いた土屋は「それは自首案件だな」と面白がり、番組の企画として警察署に向かわせた。しかし、警察官に自首の理由を説明した途端、「舐めてんのか!」と激怒されて大事になりかけ、土屋と共に謝罪してなんとか許してもらった[4](放送されたかは不明)。
放送リスト
1992年7月 - 1994年3月
- 放送時間:日曜 22:30 - 22:58(28分)
- 『笑撃的電影箱』前半枠
1994年4月 - 1996年3月
- 放送時間
- 1994年09月以前:日曜 22:30 - 22:58(28分)
- 1994年10月以降:日曜 22:30 - 22:55(25分)
1996年4月 - 1998年1月
- 放送時間:日曜 22:30 - 22:55(25分)
ネット局
- 系列、ネット形態は番組終了時点(途中打ち切り局は打ち切り時点)
- 放送枠がローカルセールス扱いとなっている関係上、系列局であっても自社制作のローカル番組の放送や他系列局番組の遅れネットなどを優先して同時ネットしない地方局が存在した[注 19][注 20]。
テーマ曲
オープニングテーマ
エンディングテーマ
- 「The Wall 〜長城〜」BEYOND(1992年7月5日 - 1993年3月28日)
- 「アポなしの恋」電波子・松村邦洋・松本明子(1993年4月4日 - 8月8日)
- 「ただ抱きしめるだけの愛で悲しませないつもりなんて」パーコパコ(1993年8月15日 - 1994年1月30日)
- 「ネコなんだもん」松本明子(1994年2月6日 - 3月20日)
- 「たとえば、ずっと…」松本明子(1994年3月27日 - )
スタッフ
- 構成:小山薫堂、海老克哉、そーたに、都築浩、田中直人、中野俊成、澤井康成、鮫肌文殊、おちまさと(中期以降から参加) 他
- チーフプロデューサー:棚次隆(途中から)
- 演出・プロデューサー:土屋敏男(1993年5月30日までは演出のみ、同年6月6日よりプロデューサー兼任)
- プロデューサー:篠木為八男(1992年7月5日 - 1993年5月30日)、長濱薫(当時・NTV映像センター 現・AX-ON)、小西寛(当時・THE WORKS 現・K-max)
- ディレクター:〆谷浩斗(当時・NTV映像センター)、香川春太郎、飯山直樹(現・K-max)、横井仁、川端基浩、塩野智章、飯島冬貴、中西太、中村元信(読売テレビ)、山下柚樹、小笠原豪、似鳥利行、北村英樹、古立善之、篠宮浩司 他
- TD (テクニカルディレクター):武藤慶一、寺西祥次、貫井克次郎
- SW (スイッチャー):若松忠彦、松村興、秋山真、高梨正利、新開宏、森本佳秀、村松明、江村多加司
- CAM (カメラマン):清田彦太郎、渡辺茂雄、神崎正斗、石井一雄、米田博之、鈴木博、山田祐一、中原和一、木村博靖
- MIX (オーディオミキサー):小池太郎、飯地浩美、坂本親保、大島康彦、掛川陽三郎、島田広行、鈴木英典、鈴木佳一、斎(斉)藤勝彦
- VE (ビデオエンジニア):浅田昌、岡靖、中鉢加奈子、小熊透、梅津孝一、吉田亘、熨斗賢司、牧野和侑、古川誠一、柴田康弘
- LD (ライティングディレクター):瀬尾泰宏(次)、谷田部恵美、大川俊行、細川登喜二、東城右二、阿久津敬一、蜂谷道雄、佐野利喜男、渡辺一成
- VTR:早川義人、小林一博
- 美術:石川啓一郎
- デザイン:小林俊輔
- 編集・MA (マルチオーディオ):SonyPCL(千葉元志・河内憲統(義続)・永井広幸・早澤淳一郎・石坂郁夫・桜井克昌・角谷隆介・髙田弘隆・木村俊一)/HAC ヒューマックスアルファチャンネル(村原太・木原裕司・東里聡・番匠康雄)/パークタワーウエスト(須藤康則・横山良一・中野栄滋・藤田博之・白井俊彦・小原洋一・角本憲一)
- CG:コスモスタジオ
- TK (タイムキーパー):山沢啓子
- 音響効果:花岡英夫(CUBIC)
- 広報:深堀恵美子、織田弘美、阿部真一郎、高木雪
- ロケ技術:NTV映像センター、スウィッシュ・ジャパン
- 技術協力:日放、ヌーベルバーグ
- スタイリスト:高尾万寿子(松村担当)、稲葉加奈子、佐藤ミサキ
- AP (アシスタントプロデューサー):中井信介、赤間佳彦
- 制作協力:THE WORKS、NTV映像センター、零CREATE
- 制作著作:日本テレビ
関連項目
脚注
注釈
- ^ レギュラー放送は1997年12月28日まで、1998年1月1日は『電波少年INTERNATIONAL』として放送、1月4日は知ってるつもり?!2時間スペシャルのため休止 [2]
- ^ 1994年9月25日までは22:30 - 22:58 [3]
- ^ ウッチャンナンチャン司会によるバラエティ番組はその後、『ウンナン世界征服宣言』→『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!!』→『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』と放送時間帯とタイトルを変えながら継続、こちらも1990年代の日本テレビを代表する人気番組となった。
- ^ 具体的には、男性から現地の言葉で「君、日本人なの?」と聞かれた松本は「ハイ」と答え、「中東を研究している大学生か何か?」との問いに「イエス」と答えた。
- ^ 当時の香港はイギリス領であり、中国への返還は翌年の1997年7月1日。
- ^ 同企画での主目的は、有吉がインドの恩人にヒッチハイクで会いに行くというものであった。
- ^ 有吉弘行いわく「20年越しの仕返し」。
- ^ 放送はされなかったが、アメリカでのヒッチハイクの最中通りすがりの車に銃で発砲されていたことを、石本が『情報ライブ ミヤネ屋』の2011年8月5日放送分に出演した際に証言している。このときの様子は、放送当時発売されたVHSソフトの第4巻「南北アメリカ大陸横断ヒッチハイク〜極北の夢 完結編」にも、テレビ未公開映像として収録されており、道路脇の小屋に逃げ込み恐怖で震えが止まらない2人の様子が映っており、2021年10月3日放送分のサンバリュ「1番持ち寄りバラエティ 我がMAX」でもその映像が放送された。
- ^ あくまでもこれは演出であり(当日の新聞番組欄でも最終回扱いとされておらず、[終]マークはついていなかった)、実際は11日より『進ぬ』としてリニューアル。後日談は『進ぬ』内で放送された。
- ^ その一つである『スーパーJOCKEY』は1999年3月28日に終了。
- ^ なお『アッコ〜』は準レギュラーであり毎週の出演ではないため、正式なレギュラーは『ビバリーヒルズ』の1本のみ。
- ^ その人物は法律に詳しかったため、AD時代の会議で法律の話になるとスラスラと答えてくれたため、スタッフから“電波少年の六法全書”と呼ばれ、頼りにされたという[4]
- ^ それまで放送していた『日高晤郎のスーパーサンデー』を打ち切る
- ^ 後番組である『進ぬ』がスタートしてからも、2000年4月に日本テレビ同時ネットとなるまで遅れネット状態が続いていた。
- ^ a b c 『ナショナル劇場』の遅れネットのため、特番を除いて同時ネット化はされていない。
- ^ a b c d e ローカル番組を同じ時間帯で放送している都合上、特番を除き同時ネット化はされておらず、日本テレビでの放送からの遅れネットで放送されており、地域により『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』も続いて放送されていた。
- ^ テレビ朝日日曜8時連続ドラマ→『世界とんでも!?ヒストリー』→『TVダイジェスト』
- ^ 当該枠は『たけし・所のドラキュラが狙ってる』→『世界ウルルン滞在記』を同時ネットで放送(当時)
- ^ 番組末期は地方の他系列局開局に伴う放送枠の移動やローカル番組の終了に伴い本番組を同時ネットに移行した系列局も存在した。
- ^ 現在当該枠で放送されている『日曜ドラマ』はNNN系列局全局同時ネットとなっている。
出典
参考文献
外部リンク
日本テレビ 日曜22:30 - 22:55 |
前番組 |
番組名 |
次番組 |
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進め!電波少年 (1992年7月5日 - 1998年1月1日)
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日本テレビ 日曜22:55 - 22:58 |
ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA. (1991年10月20日 - 1992年6月28日)
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進め!電波少年 (1992年7月5日 - 1994年9月25日)
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主なテレビ番組 | |
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