江﨑鐵磨
江﨑 鐵磨(えさき てつま、1943年〈昭和18年〉9月17日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(8期)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、消費者及び食品安全、海洋政策)、領土問題担当大臣、自由民主党総務会長代理を歴任した。姓は「江崎」とも、名は「鉄磨」とも表記される[2]。 父は元通商産業大臣の江﨑真澄[3]。異母弟は元衆議院議員の江﨑洋一郎。 来歴愛知県一宮市に生まれる(現在は一宮市時之島に在住)[4][5]。一宮市立向山小学校、一宮市立南部中学校、愛知県立一宮高等学校卒業。1967年3月、立教大学文学部教育学科卒業。同年4月、少林寺拳法の開祖である宗道臣の秘書となる[2]。1971年1月から衆議院議員の父・江﨑真澄の秘書を務める[2][6]。1986年、一宮サッカー連盟会長に就任。 1992年10月28日、経世会の会長が小渕恵三に選ばれると、これを不服とする派内の小沢一郎のグループは羽田孜を代表とする政策集団「改革フォーラム21」(羽田派)を結成すると発表した[7]。 同年12月初め、父親の江﨑真澄は次期衆院選には出馬せず、地盤を三男の鐵磨に譲る意向を表明した[8]。このとき真澄は「鐵磨は羽田派から出る(羽田派から出馬する)」と言い切った[9]。 1993年、学校法人一宮女学園(現:修文学院)理事に就任[要出典]。 衆議院議員1993年6月18日、野党が提出した内閣不信任決議案は自民党羽田派が賛成したことから可決し、衆議院が解散。当時、愛知県には羽田派に属する議員がいなかったため、父の江﨑真澄は旧岐阜1区の松田岩夫を窓口に羽田派と接触を行っていた。 6月22日、鐵磨は一宮市、江南市、丹羽郡選出の江﨑真澄系県議5人とともに上京。砂防会館の真澄の事務所を訪れた。5人の県議はそれぞれの選挙区の事情を踏まえ、羽田派が設立しようとしている新党に行くか自民党公認で行くかについて意見を述べ、鐵磨は父親に向かって「羽田派とともに新しい時代の政治改革に取り組みたい」と言った。真澄が「君の選択を尊重する」と「裁可」を下し、行くべき道が決まった。父子はその後、紀尾井町の羽田孜の事務所を訪問。羽田代表から「お互いに同士としてがんばりましょう」と激励を受けた[10][11]。6月22日に自民党を離党した羽田派は6月23日に新生党を設立した。 7月18日に行われた第40回衆議院議員総選挙に新生党(羽田派)の公認で当時の愛知3区より立候補し、初当選を果たした。7月31日、衆院選にからみ一宮市議の古田弘が公選法違反容疑で逮捕された[12]。1994年、新生党(羽田派)や他の政党が合流する新進党の結成に参加[13]。 小選挙区比例代表並立制が導入された1996年の第41回衆議院議員総選挙では愛知10区から新進党公認で立候補し、再選される。羽田孜と小沢一郎の対立のあとの新進党解党後の1998年には小沢一郎を党首とする自由党の結党に参加し、財団法人日本武道館の評議員も務めた。 2000年4月3日、自由党の中で自自公連立政権の連立解消を望む小沢一郎らのグループと連立維持を望むグループとが対立し、連立維持を望むグループが離党し、新たな政党「保守党」を設立。江﨑も同党に参加した[14]。4月5日に発足した第1次森内閣で外務総括政務次官に就任。6月の第42回衆議院議員総選挙に保守党公認で出馬するも、自民党公認で出馬した鈴木雅博[注 1]との間で連立与党支持層や保守層の票が分散し民主党の元職・佐藤観樹に敗れ現職の外務統括政務次官ながら落選した。保守党は比例重複立候補をしなかったため、比例復活もなかった。 2003年の第43回衆議院議員総選挙に保守党の後継政党である保守新党公認で立候補し僅差で佐藤を破り、国政に返り咲く。選挙後、保守新党の解党により自由民主党に入党。 2005年の第44回衆議院議員総選挙で4期目の当選。第3次小泉内閣で国土交通副大臣(災害対策関係施策、国土関係施策及び社会資本整備関係施策の総括[15])に就任する。 2009年の第45回衆議院議員総選挙で民主党の杉本和巳に敗れ落選。 2012年の第46回衆議院議員総選挙で4候補を破り、5期目の当選を果たす[1]。みんなの党に移った杉本は比例復活で当選。落選中に所属派閥の旧二階派が志帥会(当時:伊吹派)に併合されたため、江﨑の新たな所属先も二階俊博らと同じ志帥会となった。ほどなくして伊吹が衆議院議長に就任するため離党し派閥を離脱したため、二階が新しい志帥会の会長に就き、同派の通称は以前の所属派閥と同じく「二階派」となった。 2014年の第47回衆議院議員総選挙で6選。 2015年2月の一宮市長選挙では当初、元総務官僚の中野正康の支持を決めていたが、一転、元市議の神戸健太郎を支持[16][17]、結果、神戸は次点で中野に敗れた。同年4月の江南市長選では現職の堀元を支援したが[18][19]、堀は元市議で新人の沢田和延に敗れ落選。一宮市と江南市は愛知10区の大部分を占める主要都市で、江﨑の看板が地元選挙区で通用しなくなってきていることが露呈する形となった。 2016年1月4日に衆議院消費者問題に関する特別委員長に就任した。 内閣府特命担当大臣2017年8月3日、第3次安倍第3次改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・消費者及び食品安全・海洋政策)、領土問題担当大臣に任命され初入閣した。 同年10月の第48回衆議院議員総選挙は自民党の比例定年制のため重複立候補せず愛知10区のみで立候補し、希望の党の安井美沙子、日本維新の会の杉本和巳、日本共産党の新人ら3人の候補者を破り、7選を果たした[20]。 2018年2月19日、周囲から体調不良を指摘され夜になって自らの足で病院へ向かい、そのまま入院。翌20日に菅義偉官房長官が入院の事実と、軽度の脳梗塞の疑いがあることを明らかにした[21]。同日より公務も取りやめとなった。入院の結果、一過性脳虚血発作と診断され、24日にはいったん退院したが[22]、26日になって再入院[23]。翌27日に特命担当大臣を辞任した。後任には福井照が同日付で就任した[24]。 大臣辞任後2019年10月31日に発生した火災による首里城の消失をうけ、自民党の都市公園緑地対策特別委員長として早期復元着手など9項目で構成する「都市公園整備の促進に関する緊急決議」を行い、国土交通省と党に申し入れた。対応した赤羽一嘉国土交通大臣は「首里城は国営公園で、大切な文化財。国交省を先頭に政府を挙げてしっかり取り組む」と答え、首里城を再建する意向を示した[25]。 2020年7月2日、二階俊博自民党幹事長と岸田文雄自民党政調会長が東京・紀尾井町の日本料理店で会食した際、同じ二階派の林幹雄元経済産業大臣や岸田派の根本匠元厚生労働大臣、小野寺五典元防衛大臣らと共に同席した。岸田、小野寺、江﨑らはかつて国対委員長を務めていた二階のもとで野党対策に汗を流した仲で、当時の思い出話に花を咲かせたという[26]。 2021年9月29日に行われた自由民主党総裁選挙において、1回目投票と決選投票いずれも、ただ一人白票を投じた[27]。 同年10月の第49回衆議院議員総選挙では、愛知県下の多くの選挙区で野党共闘が実現した中、愛知10区では立憲民主党、日本共産党、れいわ新選組、日本維新の会から4人の候補者が出て乱立[28]。さらに、無所属での出馬を表明していた今村洋史も直前で東京15区に移るなど、終始江﨑に有利な情勢が続いた。この結果、与野党の大物候補や高齢候補が落選する中、愛知県下で最高齢の候補者でありながら8選を果たした。 2022年1月から6月まで衆議院で33回、参議院で32回開かれた第208回国会本会議における欠席回数は5回で、衆議院議員では北村誠吾、河野太郎に次いで3番目に多かった[30]。 同年9月27日に行われた故安倍晋三国葬儀には体調不良を理由に欠席した[31]。 同年12月23日、衆院小選挙区の定数を「10増10減」する改正公選法が28日に施行されるのを前に、自民党は第50回衆議院議員総選挙の公認予定者となる支部長を決定。愛知10区のうち江南市、岩倉市、丹羽郡扶桑町、大口町が新設の愛知16区に移ったが、江崎は出身地であり、父・真澄から受け継いだ地盤を有する一宮市がある愛知10区の支部長に就任した[32]。 2024年9月27日に行われた自民党総裁選挙において小林鷹之の推薦人に名を連ねた[33]。1回目の投票では小林に投じ[34]、得票数1位の高市早苗と2位の石破茂が進んだ決選投票は白票を投じた[34]。 総裁選挙後の同年10月5日、次期総選挙に出馬しない意向であることが明らかにされた[35]。10月6日、自民党愛知県連は後任候補として、江崎の政策秘書を務める若山慎司を選定した[36]。 閣僚として
人物、エピソード
統一教会との関係
→「世界平和統一家庭連合と政界との関係」も参照
家族・親族江崎家細貝家略系図主張・政策
選挙歴
所属団体・議員連盟役職歴内閣
衆議院政党
その他員
秘書
脚注注釈出典
外部リンク
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