後藤次利
後藤 次利(ごとう つぐとし、1952年2月5日 - )は、日本のベーシスト・作曲家・編曲家・音楽プロデューサー。 東京都品川区西五反田出身[2]。青山学院高等部卒業・青山学院大学中退。妻は元・おニャン子クラブの河合その子。 略歴学生時代中学生の時に、姉が購入したビートルズ、ベンチャーズのレコードを聴き始める。その後、姉に連れて行かれたアストロノウツのコンサートで、前座で出ていた寺内タケシとブルージーンズの寺内タケシのギターテクニック、アストロノウツの「太陽の彼方に」に衝撃を受ける。それがきっかけでギターを弾きたくなり、母親にねだってエレキギターを武蔵小山(商店街)の楽器店で買ってもらい[2]、ギター教室に通い始める。譜面が読めなかった後藤は、耳コピーしたり先生の真似をして弾いていた[3]。 高校一年生の時、学校のイベントで、軽音楽部のスタンダードジャズ演奏を見物し、未知の分野に憧れて同部に入部する。その時のイベントでの演奏メンバーの中で、後藤が「上手いドラマーがいる」と思った人物が林立夫である。入部後、ジャズについて知るため、ギターを変えたりピックアップをギブソンに注文したりして形にこだわるようになる。短期間ではあるが恵比寿にあるヤマハ音楽教室に通い、そこの先生だった中牟礼貞則に学ぶ。同じクラスの小原礼、後輩の矢野顕子、違う学校だった鈴木茂と交流があった。みのもんたが司会をしていた文化放送のラジオ番組で、高校生バンドとして出演し、ハービー・マンの「メンフィス・アンダーグラウンド」を演奏したこともある[3]。 プロデビュー大学に進学するもろくに行かずにいたある日、林立夫から電話がかかってきて「ベースやって!」と頼まれる。ブレッド&バターと岸部シローのジョイントツアーでベーシストがいなかったためだった。ギター担当だった後藤は、ツアー開始の数日前に四谷のスタジオで、岸部シローの兄である岸部一徳についてベースを習得。ツアーでは岸部一徳に借りたフェンダー・ジャズベースを使用して演奏した。ツアー後、ブレッド&バターのレコーディングに呼ばれたことが、プロのベーシストとなるきっかけであった。なお、同時期にレコーディング参加した南正人のアルバム『回帰線』ではギタリストとして演奏している。その後、小坂忠のバックバンドへの参加からベーシストとしての自覚が芽生え、ちゃんとした楽器を持つべく、当時乗っていたカローラを売り払い、銀座の山野楽器にて10万円で売られていたテレキャスターベースを購入する[3]。 小坂忠とフォージョーハーフやよしだたくろうのセッションバンド新六文銭に参加。その後、トランザムやティン・パン・アレーのセッションにも参加する。 高橋幸宏に誘われサディスティック・ミカ・バンドの「HOT! MENU」のレコーディングに参加、直後のイギリス公演で絶賛される。サディスティック・ミカ・バンド解散後は高橋幸宏、高中正義、今井裕とサディスティックスを結成し活動、ソロになって初期の矢沢永吉をNOBODYの相沢行夫らとバックでサーポートしたりするが、サディステックスのメンバーそれぞれの活動が活発になり、後藤自身も他のアーティストのアレンジや作曲、スタジオミュージシャンなどの仕事が増え自然消滅となる。 作・編曲家としての活動フォーライフ・レコードのディレクターに声を掛けて貰ったことがきっかけで[3]、原田真二の「シャドー・ボクサー」で初めて編曲を担当する[注 1]。 その後、編曲家としての活動も開始し、八神純子、中島みゆきなどの楽曲を手がける。沢田研二の『TOKIO』で第22回日本レコード大賞編曲賞を受賞した[4]。 他アーティストへのサポートの傍ら、ソロアルバムを2枚リリース。 1980年代に入ると、作曲家としての活動を本格的に開始。ソフトクリーム、一世風靡セピアを始め、近藤真彦、シブがき隊、中森明菜、吉川晃司、とんねるず、おニャン子クラブとその関連ユニット、工藤静香などの作・編曲を多く手がけた。特にとんねるずやおニャン子クラブ関連では、作詞家の秋元康と組むことが多かった。また、テレビ番組や企業CMのBGMも多数製作する。 1983年、CBSソニーにアーティスト兼プロデューサーとして迎えられ、ミニアルバム専門のレーベル「FITZBEAT」を立ち上げる。レーベルプロデューサーとして、レベッカや聖飢魔IIなどを世に送り出す。その傍らソロ活動も行い、シンセサイザーを全面に取り入れたアルバム3作をFITZBEATよりリリースする。3作目の『CITY TRICKLES ―街の雫―』は12曲入りであるが、6曲入りミニアルバムを2枚パッケージした変則盤である。またレベッカの4枚目にして初の10曲入りフルアルバム『REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜』の帯には「FITZBEAT SPECIAL」と書かれていたが、事実上このアルバムを境に、ミニアルバム専門というレーベルコンセプトは崩壊する。 1994年、日本テレビ系「NNNきょうの出来事」テーマ曲「file」を提供。BGMも担当。 2003年、山木秀夫とインストゥルメンタルユニットgym結成。同年、大高清美のアルバム『Frames』のプロデュースを手がける[5]。 2004年8月、CROSSOVER JAPAN'04での共演を機に斉藤ノブ、藤井尚之とインストゥルメンタルグループNon Chords結成。名の由来はコード楽器が無いグループであることから。 2006年5月、klammyと新レーベル「TUTINOK(ツチノコ)」を立ち上げ、同レーベルより彼女とのユニットWAIPでデビュー。 2010年3月、『スッキリ!!』の企画で、スッキリ!!メンバーが歌う「あの頃からのラブレター」を作曲・編曲(作詞は松井五郎)。『胸キュン90's〜ひとりで聴きたい恋の唄〜』にボーナストラックとして収録された。 またTSMやOSMで講師を務めている。当校に通っている学生によるユニット(「team GO.ON」「GO WEST」)のプロデュースも手掛けている。 近年は、2019年11月にデビューした『B Pressure』でサウンドプロデューサーを務めたり、その他歌手への作曲、編曲等の楽曲提供も行っている。 1979年11月発売で、後藤がベースで参加していた松原みきの『真夜中のドア〜Stay With Me』が、70~90年代のシティポップの関心の高まりなどにより近年世界でリバイバルヒットして話題になっている。 人物とんねるずやおニャン子クラブのメンバー達、彼らのファン、とんねるずのオールナイトニッポンのリスナーから「ゴッキー」の愛称で呼ばれていた。 前述の通りとんねるず(特に石橋貴明)と非常に仲が良く、とんねるずのオールナイトニッポンにも度々登場し、「横浜までのドライブで女を落とすためのミュージックテープを作っている」など、その女癖・語録・子供のようなワガママさ・目立ちたがり・面白い恋愛観などを度々披露され、「天才ベーシスト・後藤次利」と尊敬と揶揄を合わせてリスナーの間でも人気者になった。ところが、とんねるずのオールナイトニッポンの中で、とんねるずが後藤絡みの下ネタを話し、一時後藤を「マッスルスティック」呼ばわりした。その後、後藤がバックを務める吉川晃司などのコンサートなどで、リスナーが「マッスルスティックー!」と叫ぶことがしばしばあり、後藤がとんねるずに「アイドルのコンサートでマッスルスティックだけは勘弁してくれ」と泣きを入れた。また、木梨憲武とも仲が良く、ソロアルバム『do not disturb』のジャケットイラストは木梨が製作した。 以前はタブー視されていたアイドルとの恋愛を繰り返したことでアイドルキラーとも呼ばれた。最初の妻はシモンズの玉井タエ、次の妻は木之内みどり。1994年にはおニャン子クラブの河合その子と3度目の結婚を果たし、河合との間に子供が一人いる。 演奏に関して「影響されたベーシストはフリーのアンディ・フレイザー」と発言した。フリーの前座をした時に、ステージ袖で彼のプレイを見て、衝撃を受けた。また、フレイザーの替わりに加入した山内テツを絶賛している[3]。 ベーシストとしてスタジオワークを開始した当初、レコーディングで譜面が全く読めず、何回も弾き直していると、別のベーシストと交代させられて帰されたことがあった。吉田拓郎のツアーに参加した際に知り合ったチト河内の紹介で、鈴木淳の自宅へウッドベースと譜面の勉強をしに通っていた[3]。 1975年発表のティン・パン・アレーのアルバム『キャラメル・ママ』に収録された「チョッパーズ・ブギ」で、後藤が披露したスラップ奏法が、日本において「チョッパー奏法」の名称として広まった。当時の後藤は、ラリー・グラハムのスラップ奏法を知っていたが、訳のわからない凄さに弾き方を解明できず、分かりやすい弾き方をしていたルイス・ジョンソンを真似していたと振り返っている[3]。 とんねるずのコンサートのオーラスになると「俺に弾かせろ」とステージに立つことも多かった。紹介されると黄色い声援を浴びて、ベースを弾き続けることから、それがまたとんねるずの怒りを買い、次のラジオで叱責されていたエピソードがある。 楽曲に関して1980年代、アイドルへの提供曲では楽曲のサビを最初の30秒以内に提示する技法(頭サビ)を多用した。サビが早ければ短時間でインパクトを与えられ[注 2]、また電波に乗る頻度を増やすことができ、リスナーの注意を喚起するとともに楽曲を強く印象付けることができる。おニャン子クラブで効果をあげたこの方法は、以後の作曲家に多用された。シンセサイザーなどのデジタルサウンドを多用し、コーラスなどにも工夫を凝らした楽曲は話題を呼び、アイドル歌謡の在り方を変えるまでの影響を及ぼした。特に作詞家の秋元康とは共に「ゴールデンコンビ」と言われ、多数のヒット曲を生み出した。 原田真二の「シャドー・ボクサー」で編曲家として手探り状態で活動し始めた時、「ストリングスを入れて欲しい」と注文を言われ、ヤマハのエレクトリックピアノと編曲本を買い込んで勉強した。だが、実際にオーケストラが自身の譜面通り演奏したところ、不協和音となってしまい、全員に休憩を取ってもらって、ピアノの前で慌てて書き直した逸話がある[3]。 中島みゆきの編曲を担当したことについて、「中島のデモはギターと歌だけで成立する世界があり、そこに音をつけていくにはプレッシャーがあり、エネルギーが必要だった」と述べている。ベースと歌だけで同時録音する曲があった際には、「レコーディング中のヘッドフォンから聞こえる中島の歌が凄くて、意味無く楽器を弾かせない怖さがあった」とも語っている[3]。一方で、中島から見た後藤評として、後藤の作曲を中島は、『引出しが多い』と、そのバリエーションの多さを評価している。 シングルを連続して手掛けた工藤静香の編曲について、曲ごとに雰囲気をガラッと変えるべきか、同じトーンを続けるかで悩んでいた。リスナー視点に立つと、曲ごとに雰囲気を大きく変えると節操がなく、ずっと似たようなサウンドだと「マンネリ」に陥ることもあり、あまり世間の評価を気にしすぎると最終的に方向性を打ち出すのは難しくなってくるため、自分の中の「判断基準=バランス感覚」を優先して組み立てていったと振り返っている。また、自分の中では同じようなサウンドばかり作っていると飽きてくることも述べている[6]。 一時期、工藤静香の編曲を「Draw4」名義で行っていた。Draw4は、後藤を中心とするミュージシャン及びエンジニアのユニットであり、メンバーは後藤の他に、キーボード奏者の門倉聡、シンセサイザープログラマーの藤井丈司と菅原弘明、エンジニアの村瀬範恭の5名で構成されていた。人気絶頂のとんねるずや工藤静香の作曲・編曲を担当していた当時、その作曲幅の広さはとんねるずに、「工藤の作曲はピアノで丁寧に作るが、とんねるずのアルバム曲は10分で作ってくる」「工藤の曲を作っている時はカリカリしていてナーバスなのに、とんねるずの曲は○○風という注文で寝る前に適当に作る」などと評されていた。 作詞を手がけた作品もまれにあり、河合その子のデビュー曲「涙の茉莉花LOVE」(T2[注 3]名義)、野猿のラストシングル「Fish Fight!」などがある。 ディスコグラフィソロスタジオ・アルバム
カバー・アルバム
CD-BOX
サウンドトラック
参加作品→新六文銭については「六文銭 (音楽ユニット) § 作品」を参照
→サディスティック・ミカ・バンドについては「サディスティック・ミカ・バンド § ディスコグラフィ」を参照
→トランザムについては「トランザム (バンド) § ディスコグラフィ」を参照
→オリエンタル・エクスプレスについては「Dr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス § ディスコグラフィー」を参照
提供作品あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行や行
ら行
わ行
音楽を手掛けた作品
など
出演脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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