1999年のF1世界選手権
1999年のF1世界選手権(1999ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第50回大会である。1999年3月7日にオーストラリアで開幕し、10月31日に日本で開催される最終戦まで、全16戦で争われた。 シーズン概要4人のチャンピオン候補開幕戦オーストラリアGPではフェラーリのエディ・アーバインが初優勝し、混戦のシーズンが幕を開けた。 マクラーレンの新車MP4-14は開幕から圧倒的なスピードを誇るものの、信頼性は今ひとつで、前年度チャンピオンのミカ・ハッキネンは5戦連続ポールポジションを獲得しながらその間に2勝しかできなかった。特に信頼性の問題はハッキネンの足を引っ張り、第8戦イギリスGP以外のリタイアはすべてメカニカルトラブル絡みであった。 フェラーリのミハエル・シューマッハも第4戦のモナコGPの勝利でポイントリーダーに一旦立つものの、第6戦カナダGPでトップ走行中にシケインで単独クラッシュするなど波に乗れず、このGPでハッキネンに逆転され、8ポイントリードされた状況でシーズン折り返しの第8戦イギリスGPを迎えた。だが、シューマッハのマシンはブレーキトラブルでクラッシュ。シューマッハ自身は右足を骨折して戦線から離れることになった。 最大のライバル・シューマッハの離脱でハッキネンが絶対有利かと思われたが、ここまでポイントを重ねていたアーバインがチャンピオン争いに名乗りを上げ、フェラーリの「代役エース」となった。第9戦オーストリアGPと第10戦ドイツGPを連勝し、その時点でポイントリーダーに立った。マクラーレンの失速やシューマッハの代わりに起用されたミカ・サロの好アシスト、コースによってはウィリアムズ、ジョーダン、スチュワートも上位争いに名前を連ねるようになり、タイトル争いは混乱の様相を呈する。 また、第3のチャンピオン候補として、ジョーダンのハインツ=ハラルド・フレンツェンが登場する。第7戦フランスGPでは雨中のタイヤ交換の好判断で優勝。その後もポイントを重ね、ハッキネンがリタイアした第13戦イタリアGPも勝利し、チャンピオン候補となった。さらに第4のチャンピオン候補として、第8戦イギリスGPで勝利したデビッド・クルサードが浮上した。こちらもポイントを重ね、フェラーリとは対照的にマクラーレンはチーム内の序列を決めなかったため、第12戦ベルギーGPでは2位にいたハッキネンに1位を譲らず、そのまま勝利。チャンピオンを射程に捕らえた。 3戦を残してハッキネンとアーバインが60点で並び、フレンツェン50点、クルサード48点という大接戦になった。第14戦ヨーロッパグランプリGPは大荒れのレースとなり、ハッキネンは表彰台には乗れなかったがポイントは獲得。アーバインはノーポイント、フレンツェンとクルサードはリタイア。ハッキネンがチャンピオン争いを一歩先行した。第15戦マレーシアGPでは戦線復帰したシューマッハがブランクの影響を感じさせぬ走りでアーバインをアシストし、チャンピオン候補はアーバイン(70点)とハッキネン(66点)の2名に絞り込まれた。レース後、フェラーリがエアロパーツの寸法違反で失格となり、ハッキネンのチャンピオンが決まるかと思われたが、国際自動車連盟 (FIA) が処分を撤回し、最終戦日本GPを迎えた。日本GPではハッキネンが予選2位からスタートでトップに立ち、他を寄せ付けぬペースで完勝。3位に終わったアーバインを逆転して、2年連続ドライバーズチャンピオンに輝いた。 コンストラクターズ部門は戦略が明確であり、チームの結束力をみせたフェラーリが獲得。1983年以来続いた無冠状態にようやく終止符を打った。ジョーダンがチーム史上最高となるランキング3位を獲得。2位のマクラーレンはコンストラクターズ部門の獲得も十分可能であったが、チーム戦略の不在やマシンの信頼性がこちらのタイトル争いにも影響し、あと一歩のところで逃すこととなった。 トピック
開催地及び勝者新たに追加された選手権の行事
開催されなくなった選手権の行事
名称が変更された選手権の行事
エントリーリスト
1999年のドライバーズランキング
† リタイアしたがレース距離の90%以上を走行していたため完走扱い 1999年のコンストラクターズランキング
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