高木虎之介
高木 虎之介(たかぎ とらのすけ、1974年2月12日 - )は、日本のレーシングドライバー。静岡県静岡市出身。愛称は「虎」「虎之介」など。海外メディアからは「TORA TAKAGI(トラ・タカギ)」と紹介されることが多い。 プロフィール生い立ち1974年に静岡県静岡市の裕福な家庭に生まれた。中学在学中にカートデビューし、東海大学工業高等学校(現・東海大学静岡翔洋高校)を卒業した。 デビューカートデビュー後の1989年に、全日本ナショナルカートA2クラスでシリーズ優勝し注目を浴びた。翌1990年には全日本カート選手権A2クラスで優勝した。1992年にフォーミュラ・トヨタに参戦した。 全日本F31993年より全日本F3選手権に参戦。1993年は2度の入賞(最高位は4位)により5ポイントを挙げ、その後同じくF1ドライバーとなる井上隆智穂に次ぐランキング10位となる。1994年は3度の表彰台を含め5度の入賞(最高位は3位)。15ポイントを挙げランキング6位となる。 全日本F3000〜フォーミュラ・ニッポン1994年に中嶋企画から全日本F3000選手権の3戦にスポット参戦、翌1995年より中嶋企画からフル参戦を果たす。シーズン序盤は振るわなかったものの、第5戦のスポーツランドSUGOで初優勝。第8戦の富士スピードウェイでは「日本一速い男」星野一義をホームストレートでかわして優勝。レース後の記者会見では、星野が中嶋悟監督に「もうティレルでもどこでもいいから向こう(F1)にやっちゃってよ」と漏らす一幕もあった。 最終戦はポイントランキングトップで迎えたもののリタイアに終わり、チャンピオンは逃したが3勝してランキング2位でシーズンを終了。若手有望株として一躍脚光を浴びた。また1995年には「優勝したら俺のNSXあげる」と中嶋から言われ、約束どおりNSXを手に入れるというエピソードもあった。 1996年と1997年は、全日本F3000を引き継いだフォーミュラ・ニッポンにチャンピオン候補として参戦するも安定した成績を残せずチャンピオン獲得はならなかった。しかし、中嶋の支援もあり翌1998年からティレルでのF1参戦が決まる。なお、1997年はティレルのテストドライバーを兼任するとともに、翌年からのF1参戦を見据えてのサーキット習熟を目的にF1と併催のポルシェカップへも参戦した。ただ、精神面にかかるプレッシャーや移動による身体的疲労も大きく、「国内のF3000と掛け持ちだったから、けっこうキツかった。日曜日にポルシェカップやって、水曜日に日本に着いて金曜日から走るから、時差ボケが全然直っていない」と当時の事を語っている[1]。 F1
1998年、師匠である中嶋悟と片山右京がかつて所属していた中堅チームのティレルから、前年のテストドライバーを経てレギュラードライバーに昇格してデビューした。開幕前からティレルのマシンのポテンシャルは決して高い評価を得てはいなかったものの、開幕戦では予選13位を獲得するなど上々の滑り出しをみせている。しかし、この年のティレル026はXウイングの使用を前提として開発されたマシンであったため、Xウイングの使用自体がシーズン前半(第5戦スペインGPにて禁止)にてレギュレーションで禁止されるに至り、厳しいシーズンとなってしまった。チームメイトのリカルド・ロセットが度々予選落ちする中、全てのレースで予選に通過し、時折上位を得ることもあったが、入賞はなく最高位は9位に留まっている(チームとしてのベストはロセットのカナダGPでの8位。高木自身もイタリアGPのウォームアップランで4位に入るのがやっとであった)。凱旋レースとなった日本GPではレース中盤にシケインでミナルディのエスティバン・トゥエロに激突されてリタイアするなど、最後まで苦難の一年となった。さらにチームはすでにB・A・Rに買収されており翌年以降は新体制で参加することを表明したため、この年をもってティレルは解散した。
鈴木亜久里と井上隆智穂が所属していたアロウズへ移籍し、ペドロ・デ・ラ・ロサとコンビを組んだ。この年も全てのレースで予選に通過したが、完走は4回で入賞はなし。最高位は開幕戦オーストラリアGPの7位。デ・ラ・ロサも完走4回と、マシンの信頼性にも苦しめられた。チームとしてのベストはオーストラリアGPの6位入賞(デ・ラ・ロサ)。 フォーミュラ・ニッポン復帰翌2000年はF1レギュラーシートを失い、やむなく国内レースに復帰。中嶋企画からフォーミュラ・ニッポンに参戦し、シリーズ10戦中8勝という圧倒的な強さでシリーズチャンピオンに輝く。前年、中嶋企画はトム・コロネルがシリーズチャンピオンを獲得したことから、本来はカーナンバー1をつけることができたが、高木はカーナンバー0をつけている。高木は「1番をつけるところを無理にお願いしてカーナンバー0をつけることになりました。ゼロからの出発の意味も込めて新人のように走りたい」とその決意を語っている[2]。国内トップフォーミュラでカーナンバー0をつけたのは、2024年現在、高木のみである。この時の高木の速さの要因を土屋圭市は「彼はシフトダウンが他のドライバーと比べてとても速い。他人が“ブーンブーン”と落とすところを“ブンブン”で済ましちゃう。だから奥まで突っ込めるし、アクセルを開けるのも早くできる」と分析している。その後、日本GPではB・A・Rからリカルド・ゾンタに代わってスポット参戦する予定だったが、既にトヨタとの契約を交わしていたこともあり、結局走ることはなかった。 CART〜IRL2001年からのF1復帰を模索するがシートを得ることができず、トヨタからの誘いを受けチャンプカー・ワールド・シリーズ(CART)に参戦。同時に中嶋企画を離れ、自身のマネージメント会社・高木企画を設立し独立した。 2003年にレギュレーションの問題からトヨタがエンジンの供給先をインディカー・シリーズ(IRL)に変更したことに伴い同シリーズへ移籍するが、結局2004年シーズンを最後にアメリカから撤退。 CARTとIRLへの参戦は、トヨタF1からのF1復帰を見据えたものだったが、2003年のインディ500では当時の日本人最高となる5位を獲得し、第5戦テキサスでは日本人初の3位表彰台を獲得するなど時折活躍は見せたものの、シーズンを通しては高いパフォーマンスを見せることができず成績は低迷。この原因としては、多くの関係者が「F1時代を含めて長期間海外のレースを戦っているにもかかわらず、なかなか語学力が向上せず、最後までエンジニアとの間のコミュニケーションに問題を抱えていた」ことを指摘している。 再度の国内復帰〜現在2005年より再び国内レースに復帰し、自らのチーム(TAKAGI PLANNING with CERUMO)でフォーミュラ・ニッポン、セルモからSUPER GT(GT500クラス)の両シリーズに参戦。フォーミュラ・ニッポンでは、かつての圧倒的なパフォーマンスは見られず、本人の「CART/IRLはオーバルコースが多いため、ロードコースでのドライビングが下手になってしまった」という言葉通り精彩を欠いた。一方のSUPER GTでは、これまで本格的なツーリングカーレースへの参戦は無かったものの立川祐路とのコンビでシリーズチャンピオンを獲得した。 以降、フォーミュラニッポンには2006年と2007年にチームルマンから参戦したが、結果を残すことはできなかった。SUPER GTには引き続きセルモから2007年まで参戦(通算4勝)し、2008年はサードから参戦したが未勝利に終わった。 2009年より自身のレース活動を休止しカートショップ及びカートチームのオーナーとして後進の育成に力を注ぐ他、2010年から2016年までかつて在籍しチャンピオンを獲得したSUPER GTのセルモの監督を務めた。2020年からSUPER GTに初参戦するTGR TEAM WAKO'S ROOKIEの監督を務め、2021年も引き続きTGR TEAM ENEOS ROOKIEの監督を務める。 参戦歴
レース戦績全日本フォーミュラ3選手権
全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン
F1
(key) アメリカン・オープンホイールCART
(key) インディカー・シリーズ
(key) SUPER GT
脚注関連項目外部リンク
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