パトリック・デパイユ
パトリック・アンドレ・ウジェーヌ・ジョゼフ・デパイユ (Patrick André Eugène Joseph Depailler、1944年8月9日 - 1980年8月1日)は、フランスのレーシングドライバー。1971年フランス・フォーミュラ3選手権、1974年ヨーロッパF2選手権チャンピオン。 名前はデパイエ、ドゥパイエ、ドゥパイユ、ドパイエとも表記されるが、発音記号[dəpaje]に基づいた場合ドゥパイエが最も近い発音となる。 経歴1973年以前元々は2輪でレース活動を行っていたが、その後4輪レースに転向。1967年よりフランスF3に参戦すると、1971年にはチャンピオンを獲得。 翌1972年にはティレルのサードドライバーとして、F1に2度スポット参戦。デビュー戦である第6戦フランスGPでは、周回不足により完走として扱われなかったが、最終戦アメリカGPでは11位で完走している。 1973年はヨーロッパF2にスポット参戦。前年同様ティレルからF1スポット参戦の予定もあったが、オートバイ事故で負傷し断念する。 1974年1974年より、ティレルよりF1にフル参戦を開始。開幕戦のアルゼンチンGPで6位に入り、初入賞。第7戦スウェーデンGPでは、予選でポールポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも2位に入り初の表彰台を経験。また、ファステストラップ(以下:FL)も記録している。 この他にも数回の入賞を記録したが、チームメイトのジョディー・シェクターは2勝を含む9度の入賞(表彰台6回)を記録しており、やや見劣りする結果となる。獲得ポイントでも、シェクターに31ポイント差をつけられることとなった。 この年はF1と平行しヨーロッパF2に参戦、4勝を挙げチャンピオンを獲得している。 1975年この年は前年と比較するとチームは不調となるが、そんな中でも第3戦南アフリカGPでの3位表彰台を含む5度の入賞を記録、入賞の総回数ではシェクターを上回った(シェクターは4度)。 しかし年間獲得ポイントでは、1勝を含む3度の表彰台を記録していたシェクターを、この年も下回ることとなった。 1976年1976年もティレルから参戦。2位5回、3位2回、6位1回、FL1回という成績を残し、ランキング4位を獲得。結果的にこの4位は、自身最高の年間記録となった。 しかし、この年も1勝を含めデパイユを上回る入賞数を記録したシェクターに対し、獲得ポイントで後塵を拝すこととなった。また、何度も2位に入りながら優勝は出来なかったことから、「万年2位」との声も挙がるようになる。 この年は、チームが6輪車として知られるP34を途中投入した年でもある。まず第4戦スペインGPにて、デパイユ車のみに投入されることとなったため、デパイユは6輪マシンでF1に参戦した最初のドライバーとなった。 1977年1977年もP34で参戦するが、前年から一転、不調に陥り、シェクターに代わってティレルに加入したロニー・ピーターソン共々、苦しいシーズンを送ることとなる。 そんな中、3度表彰台に上がり、年間獲得ポイントでもピーターソンの7に対し20と、初めてチームメイトを上回った。 1978年1978年は開幕から好調であり、4戦中3戦で表彰台を記録すると、第5戦モナコGPで予選5位から初優勝。フル参戦5年目のことだった。 その後はリタイアが多くなり、開幕当初ほどの活躍は無かったが、5度の表彰台を含む7度の入賞で、チームメイトのディディエ・ピローニを圧倒している(ピローニは入賞5回であり、うち2度の5位が最高位だった)。 1979年1979年はリジェから参戦。この年のマシン・JS11は開幕から好調、デパイユはチームメイトのジャック・ラフィットと共に活躍。予選では開幕から7戦中3回フロントローにマシンを並べるほか、第5戦スペインGPで自身2勝目を記録。第7戦モナコGP終了の時点で、ジル・ヴィルヌーヴと並んでランキング3位につけていた。 しかしその矢先、ハンググライダーで事故を起こし、両足を骨折。残りのレースを全てキャンセルすることとなり、シーズンを棒に振った。 結果的に15戦中7戦のみの出走となったが、最終的にランキング6位となっている。 1980年開幕直後はマシンの戦闘力が低く、アルゼンチンGP予選23位/ブラジルGP21位と下位に沈む。 その後、デパイユのテストと提案により軽量化を含む大幅な改良を行った結果、第3戦南アフリカGPでは予選7位、第4戦アメリカ西GPでは予選3位を獲得し、高い開発能力を発揮した。しかし、マシンの信頼性が低く第8戦イギリスGPを終了した時点で、一度も完走を果たせずにいた。 事故死8月1日、デパイユとアルファロメオチームはドイツGPを9日後に控えたホッケンハイムリンクにて、マシンテストを行うことになった。しかし、テスト開始から間もなく、オストカーブ(後にシケインとなり、現在は廃止)でコースアウトしてクラッシュ。病院へと搬送されたが、救急車の中で死亡が確認された。即死の状態だったという。 テスト中の事故ということもあって目撃者がおらず、正確な事故原因は特定されていないが、空力パーツのトラブルによる可能性が高いとされている。 人物
レース戦績ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
F1
ル・マン24時間レース
脚注
関連項目外部リンク
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