岩田光央
岩田 光央(いわた みつお、1967年7月31日[3][12][14] - )は、日本の声優、俳優、歌手、ラジオパーソナリティ[15]。埼玉県所沢市出身[3][4][5]。青二プロダクション所属[7]。 来歴キャリア俳優として小学4年生の頃によい映画を見る会という団体が企画した、埼玉県在住の小学生をメインキャストにした教育映画『あすも夕やけ』という作品に、通っていた小学校の代表としてオーディションに参加し、運良く準主役で受かり初出演を果たす[4][5]。その映画には先生役で風間杜夫や、お母さん役で樹木希林が出演していたりと、教育映画にしてはかなり本格的な作品であった。夏休みいっぱいロケに参加し、雨の中で泥まみれになるシーンや、ケンカをするシーンがあったりと結構大変ではあったが、子供心にすごく楽しかったという。同作品には小学生が十数人ほど出演していたが、その出演者の中に劇団こまどりに所属していた当時子役だった熊谷誠二がおり、岩田がロケの間、事あるごとに熊谷に「面白いね、面白いね」と言っていると、熊谷から「じゃあ、うちの劇団に来れば?」と勧められる。それを機に、親に「半年くらい劇団に通わせてくれ」と頼み込む[4]。 最初は反対されたものの、岩田の粘り強さにとうとう根負けし「そんなにやりたいなら、レッスンにも、仮に仕事が決まったとしても、親は一切ついていかない」という条件付きで許可を貰う。そして、小学5年生の5月14日に劇団こまどりに入団、表現の道へと入る。それ以前は特に役者志望だったというわけではなく、映画に興味があったり演技をしてみたいといったことはまったく考えていなかったため、現在までこの世界に居させてもらっているというのは不思議な感じがするとのこと[4]。 劇団こまどりのレッスンは、鏡の前で喜怒哀楽の表現をするなど、一つひとつが新鮮で、2011年でも印象に残るほど楽しかったという。劇団こまどりに入団後1週間で、東京都製作の教育番組の小学生が水道施設に行きレポートするという企画で返事をするときに元気が良かったことからオーディションに合格する、という劇団最短記録を打ち立てた[4][5]。その後も、樋口可南子のデビュー作の『こおろぎ橋』や『がしんたれ』などのテレビドラマに出演。『がしんたれ』の時は撮影が深夜2時まで続くこともあり、劇団から親に電話がいき父がしぶしぶ迎えに来てくれた。最初の約束があったため、電車があるうちは絶対に迎えに来ることはなく、レッスンや仕事帰りに電車の中で寝てしまい、終点まで行ってしまうこともあったが、家に電話をすると「まだ電車もあるし、帰って来られる時間だよね」と言われたこともあった。このことについては、「親はすごく勇気があったな」と語っている[4]。かなり小さいうちから兄弟だけで長野県の祖父の家に行かされたりもしていたことから、自立心を養うということに重点を置いていたという。出演していたドラマドラマについても、観ているのか観ていないのか、一切何も言われなかったが、「ただでさえ目立つ仕事をしているんだから、普段の生活をきちんとしなさい」とよく言われたという[4]。当時はとにかくお調子者で元気だけがとりえで、必ず通信簿に「落ち着きが足りません」と書かれるタイプであったという[5]。 生徒役で出演した『1年B組新八先生』で人気者になり、放送当時は雑誌で特集が組まれたり、月にファンレターが1万通届くほどだったという。その一方、学校で先輩に呼び出されたりと怖い経験もしていた。そんな経験もあり、親に言われたように日常生活を大切にしようと、クラスの委員を引き受けたり、学校行事にも積極的に参加するようになったという[4]。 中学2年生の時に「Checker's」というバンドを結成。ビートルズ、ヴァン・ヘイレン、イーグルス、ジャーニー、オフコースなどの幅広いジャンルのコピーバンドで、ボーカルを担当。スタジオ練習時のデモテープが一本のみ存在するが、現在所在は不明。埼玉県立所沢西高等学校出身者で、高校時代は美術部に所属していた。 職業としての役者を意識したのは高校3年生の時で「許されるのであれば役者を続けたい」と思ったが、当時自分でも「役者で食べていくことは相当難しいことだ」とはわかっていた。そこで、「役者を続けていくために手に職をつけよう」と、東洋美術学校造形科グラフィックデザイン[7]に進学。父が休日のたびにどこかに出かけていっては油絵で風景画を描いているような環境で育ったため、自身も絵を描くことが好きであったため、中高と6年間美術部に所属し、役者の次に自分のやりたいことや興味のあることを考えていた時に「だったら絵はどうだろう」と思った[4]。その後、同美術学校を中退している[7]。同美術学校ではグラフィックデザインを学び、デザイン事務所に就職し、25歳くらいまでデザイナーの仕事を続けていた。しかし役者のほうだけで食べていけるという手応えがあったため、表現の道1本に絞った[4]。当時働いていたデザイン事務所の社長から「デザイナーか声優のどちらかを選べ」と言われていた時に、千葉繁に相談したのが、大きなターニングポイントだったと語る[16]。あの時、もし相談相手が千葉でなかったらそのままデザイナーになっていたかもしれないといい、真っ先にお世話になっていた千葉に答えを求めたのが、岩田のセンスだったと語る[16]。 自分では、好きな道を自分で選んで歩いてきたつもりだが、このことは父の影響が大きく、父は過去に東映に勤めていた時期もあったため、夏休みや冬休みに公開されていた『東映まんがまつり』は必ず観せられていた[4]。そのほかにも、父自身が映画好きというのもあり、まだ発売されたばかりのビデオデッキを買い、テレビ放映されていた映画を録画しては観るというのを繰り返していた。初めての映画に出演して、「演技の勉強をしたい」と思うようになる以前から、無意識のうちにそういう環境に置かれていたことが、2011年時点の岩田を作っているのかもしれず、2011年時点で初めてそう思ったという[4]。 18歳の時に冨永みーなが「舞台がやりたい」と言っていたため、冨永と矢尾一樹と小劇場出身の人物たちと岩田、その時の演出をしていた佐山泰三で後に劇団を結成することになり、19歳の時に劇団タイゾー倶楽部(のちの「遊牧民-NOMADE-」)を旗揚げをしていた[5][17]。舞台は引き出し作りの勉強の場で、年に2回、多くて4回くらい芝居が入っていた[5]。ほとんど芝居漬けの10年間であったが、1996年5月に劇団は解散し、1997年時点では芝居をやめてから寂しいという[5]。 2011年時点では仕事のジャンルが完全に声優オンリーになっているが、顔出しのテレビドラマに出演したくないわけではなく、劇団こまどり退団後も、酒井法子主演のドラマ新銀河『帰ってきちゃった』で新聞記者役、テレビ時代劇『宝引の辰捕者帳』で下っ引き役を演じたりしていたが、そこまでで「縁が切れた」という感じであったという[13]。 声優として小学生の時に『大草原の小さな家』で声優デビュー[13]。高校生の頃に『キャプテン』や角川アニメ映画『時空の旅人』にも出演[13]。 『風の谷のナウシカ』のオーディションに呼ばれてアスベル役を受けたが、最後の2人まで残ったもののアスベル役は松田洋治に決定し落選したという。また『テニスの王子様』のオーディションに5回呼ばれたが、5回とも落ちたと語っている。 高校時代で印象に残っているのはディズニー映画『ピーターパン』の吹き替えで、岩田自身は、ピーターパンを演じるとは思っていなかったため、オーディションに合格した時は驚いていた。最終オーディションはアメリカからディズニー社の人物が来日して行われたが、2011年時点では、何故岩田に決まったのかわからないという[13]。 1988年アニメ映画版『AKIRA』のオーディションの話が来た時は『週刊ヤングマガジン』で原作漫画の『AKIRA』をリアルタイムで読んでいた[17]。『気分はもう戦争』、『童夢』など大友克洋の作品は好きだったことから、「ひょっとしたらオーディションで原作者の大友さんに会えるかも」ぐらいの気持ちで受けていた[17]。主人公・金田正太郎の役が決まったあとに驚いたのは、収録の前に「資料です」と分厚い絵コンテと台本が来たことで、「すごい!」と思いながら読みつつ、収録に臨んでいたという[17]。金田正太郎は岩田の転機となった役となり[13]、『AKIRA』の出演で、声優としての岩田のネームバリューは上がったが、当時所属していた劇団こまどりは声優に特化した事務所ではなかったため営業をしてもらえず、『AKIRA』でのキャリアは「淡々と1本映画をやった」という形だけだった。そのため、声優の仕事が増えず、数年間仕事が来なくて辛かったという。その後、『AKIRA』の音響監督だった明田川進が音響監督を務めたテレビアニメ『わがまま☆フェアリー ミルモでポン!シリーズ』ではインチョ役で出演した[16]。 『ここはグリーン・ウッド』6巻(白泉社文庫版)の巻末解説で、声優活動初期には、声優として未熟だったためよく叱られたと語っている。また自分を一人前の声優として育ててくれたのは『ここはグリーン・ウッド』だったとも語っている。 テレビドラマの仕事と声優の両立はとても難しいため、岩田自身は、「声優として積み上げてきたものをいったん保留にしてドラマを選ぶのか、声優としての仕事だけに本気で向き合っていくのか」というジレンマを感じていた時期があった。結局は、職業としての声優を選んだが、心のどこかで「もう僕はドラマの世界では生きられない」という意識があったと語る[13]。 その他の活動2011年時点ではラジオの仕事も長く続いているが、初めてラジオ番組のパーソナリティをすることが決まった時、ディレクターが「岩田さんは声優として人気があるみたいですが、僕は岩田さんのことを知らない。いちパーソナリティとして接しますが、それでもいいですか」と言ってくれた。それがすごくうれしく、自分がパーソナリティをする以上、そういう本職の人物たちと対等にしていきたく、岩田を知らない一般人が、偶々チューニングをしてラジオを聴いて、「面白いな、また聴いてみたいな」と思ってくれたら最高だという[13]。 2011年時点では様々なイベントでステージに立っているが、初めて『ネオロマンスシリーズ』のイベントに出演していた時は驚き、5000人もの観客の前に出るという経験は「人生でも一度か二度だろう」と思ったという[13]。 「こんな簡単にステージに立っちゃっていいんだろうか」という思いはあったが、最初から精いっぱいの力で出演。結果としてそのイベントが何度も続くことになるが、「回数を重ねるごとに、もっと楽しませることができるんじゃないか、もっと力を出せるんじゃないか」という想いが強くなるという[13]。 バンドやユニットで歌を歌っており、歌を歌う以上、本職の歌手たちと同じ土俵でしていきたいという。しかし岩田は歌手の人ほどの歌唱力はなく、「だったらパフォーマンスで補うしかない」という感じで、2011年時点では自分のもてるものすべてを使い、岩田を知らない一般人にも楽しんでくれるようなものを発信していきたと語る[13]。2010年、イラストレーターのいしいのりえとユニット「カナタ」を結成し[18]、朗読劇『あぶな絵、あぶり声』はシリーズ化している[19]。 挑戦企画1997年夏に、スーパーカブを駆り東京 - 大阪間をおよそ1週間かけて走破することに成功[20]。さらに同年冬には自動車「岩田煮号」で、大阪を出発して北陸を経由し「爆ジル鍋」の食材探しの旅を行ったこともある[21]。2004年12月17日 - 19日には、ラジオ番組で共演している鈴村健一とともに「野球盤54時間耐久試合」を行った。こちらの詳細は『岩田光央・鈴村健一 スウィートイグニッション』の項を参照。 2006年12月15日 - 17日には、鈴村健一とともに「岩田光央39歳の挑戦 東京〜大阪39ヶ所LIVE」を敢行。東京タワーを皮切りに、関東 - 東海 - 近畿へとところどころでライブを開催しつつ進み、大阪 京橋のIMPホール駐車場で最後の39ヶ所目ライブを開催しゴールした。その時に新曲「サンキュー」を熱唱。大盛況のうちに終了したが、16日の午前中は岩田光央本人が東京でアフレコの仕事が入っており、関東から東海にかけての数ヶ所においては鈴村が一人でライブを開催したことから「岩田光央と鈴村健一の挑戦」になったとの指摘もある。しかし本人は、鈴村と別ルートで単独ライブを3ヵ所で行っている[22]。 現在まで2013年、第7回声優アワードパーソナリティ賞を受賞[23]。 2014年3月31日までは大沢事務所、2019年5月31日まではアクロス エンタテインメントに所属していた[24]。2019年6月1日からは青二プロダクションに所属[25]。 人物・エピソード「どうしていつも全力でいられるのか、そのパワーはどこから出るのか」と聞かれることもあるが、「好きだから」と語る。グラフィックデザイナー時代もそうだが、何かを作り上げていくというクリエイティブな作業が好きで、子役時代から色々な現場でもまれてきて、下積みのような時代もあった。デザイナーをしている時は時間に追われながら作業をして、朝になってから「もうこんな時間か」のように疲れ果てて帰ることもあった。している最中は大変な思いをしていたが、このことは「楽しかったなぁ」という印象しか残ってないという[13]。 声優の仕事は朝早くても収録は10時からで、夜も深夜になることはなかったが、テレビドラマは朝5時集合で、終わりが朝の4時ということもよくあり、「それだけ拘束時間が短いんだから、だったらもっとやりたい、もっとやれる」と語る。とにかく貪欲で2011年時点では「やるからにはどんなことにも本気で向き合う」という気持ちは、「これからもおろそかにしたくない」と語る[13]。 通称は「兄貴(アニキ)」である[26]。これは『ぼくのマリー』でマリの「兄」ひろし、『超兄貴ショー』で「イダテンのアニキ」を演じたことが由来である。 草尾毅とは同郷で中学校が一緒であり、岩田の兄とは同級生でもある[17]。 妻は同じく声優の愛河里花子。結婚後、長い間夫婦であることが秘密にされていた[27]。軽井沢高原教会で1992年6月13日結婚し、2006年1月17日に第1子(男児)が誕生している。2007年6月で結婚から15年が経過したが、夫婦仲は良く、『超生命体トランスフォーマー ビーストウォーズリターンズ』の収録中、番組では新参者である妻の演技を心配そうに見つめていたと音響監督の岩浪美和に言われた。この光景を見た岩浪は「この夫婦、愛があるな」と思ったという[28]。 4人きょうだいの3番目であり[4]、姉は岩田の持ち歌の『光の中で』の作者[5]、妹は声優のAKIKO[9]。姪(岩田の兄の娘)は、女優兼声優の岩田陽葵[29]。また従姉妹も歌手の高柳千野(CHINO、葉菜)、義弟(愛河の弟)は『岩田光央・鈴村健一 スウィートイグニッション』の構成作家・川添法臣である。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
劇場アニメ
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ゲーム
ドラマCD
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ドラマ
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ナレーション
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ディスコグラフィ→CONNECTでの活動については「CONNECT」を参照
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書籍
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出典
参考文献
外部リンク
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