パルマ・カルチョ1913
パルマ・カルチョ1913(イタリア語: Parma Calcio 1913)は、イタリアのエミリア=ロマーニャ州パルマをホームタウンとするサッカークラブである。 ニックネームはクロチャーティ(十字軍戦士)とジャッロブルー(黄色と青)。 歴史1913年7月27日、パルマ公国出身の音楽家ジュゼッペ・ヴェルディの名を取り、ヴェルディ・フットボール・クラブ (Verdi Football Club) として創設。 パルマAC1968年にパルマAC (Parma Associazione Calcio s.p.a.) に改称。1985年にアリゴ・サッキを監督に招聘し、セリエBへと昇格[1]。サッキは1987年に退団したが、チームは以降もセリエBに留まり続けた。1989年にネヴィオ・スカラが監督に就任、1990年にパルマの食品会社パルマラット代表のカリスト・タンツィがオーナーに就任。1990-91シーズンからチームは初めてセリエAへ昇格[2]、セリエAの舞台で戦うための戦力として、ジョルジュ・グルン、トマス・ブロリン、セリエA史上初の外国人GKとなったクラウディオ・タファレルと3人の外国人選手を獲得した[3]。 1991-92シーズン、アルベルト・ディ・キアーラを補強、ディ・キアーラは1992年にイタリア代表に選出され、チームが排出した初の代表選手となった[4]。このシーズンのコッパ・イタリア決勝でユヴェントスを破り、クラブ初のメジャータイトルを獲得した[2]。1992-93シーズン、新たな外国人選手、ファウスティーノ・アスプリージャ、セルヒオ・ベルティを補強、当時無敗記録を続けていたACミランの無敗記録を止めると、このシーズン、決勝でロイヤル・アントワープを破って初の欧州タイトルとなるUEFAカップウィナーズ・カップを制した[2]。1993-94シーズン、ACミランを破ってUEFAスーパーカップを制した。カップウィナーズカップでは決勝でアーセナルに0-1で敗れた。 1994-95シーズン、フェルナンド・コウト、ディノ・バッジョ、ロベルト・ムッシらを補強し、リーグ戦では終盤までユヴェントスと優勝を争ったが失速し3位。一方でヨーロッパの舞台では、D・バッジョの活躍でユヴェントスを破ってUEFAカップを制した[5]。 1995-96シーズン、フリスト・ストイチコフ、フィリッポ・インザーギ、ファビオ・カンナヴァーロらを獲得したが、成績は思わしくなく、このシーズンでスカラが退任した。 1996-97シーズン、エンリコ・キエーザ、エルナン・クレスポ、リリアン・テュラムらを獲得、途中ジャンフランコ・ゾラがシーズン途中に退団したが[6]、リーグ戦では最後までユヴェントスと優勝を争うが、勝ち点2差で2位に終わった。 1998-99シーズン、マレサーニが率いたチームは、フアン・セバスティアン・ベロン、リリアン・テュラム、ディエゴ・フゼールらの大型補強を行い、コッパ・イタリア、UEFAカップの2冠を獲得した。2001-02シーズン、中田英寿、セバスティアン・フレイらが加入。コッパ・イタリア決勝でユヴェントスと対戦、2戦合計2-2ながらアウェイゴール差で優勝を果たした[7]。 パルマFC2003年にパルマラットが破産、クラブは破産管財人の管理下に置かれ、財政難から主力選手たちが続々とチームを去った[7]。2004年にパルマFC (Parma Football Club SpA) に改称。2005年に前レアル・マドリード会長のロレンソ・サンスが買収を試みるも、資金不足が露呈し買収は不成立。また、スイスの起業家であるガエターノ・バレンツァや、ACカルペネドロの元オーナーで鉄鋼業を営むトンマゾ・ギラルディなどの名前が挙がり、競売の末に2007年1月24日にギラルディが買収した。 2007-08シーズンにセリエBに降格したが、2008-09シーズンは、フランチェスコ・グイドリン監督の下で、1年でセリエAへ復帰した。 2013-14シーズンに創立100周年を迎え、エンブレムに「100」を加えた。リーグ戦は6位となりUEFAヨーロッパリーグへの出場権を獲得したが、所得税の納付遅延を理由にイタリアサッカー連盟はUEFAライセンスを認可せず、リーグ戦7位のトリノFCが繰り上がりで出場した[8]。この決定を不服としたギラルディは、会長職の辞任とクラブの売却を表明した[9]。 2014年12月にロシア・キプロスの複合企業に買収された[10] が、財政難は解消されず、給料未払いを理由にアントニオ・カッサーノ、フェリペら合計8人の選手が2014-15シーズンの冬に移籍した[11]。 2015年2月、ジャンピエトロ・マネンティがクラブを買収して会長に就任[11] したが、2月22日のウディネーゼ・カルチョ戦の試合開催費用が払えず(試合は延期)、資金の逼迫が表面化[12]。3月19日に破産を申請した。負債総額は2億1,844万6,754.61ユーロ(約281億円)[13]。なお、破産後も公式戦は開催された[14]。 経営面でのサポートを請け負ったデメトリオ・アルベルティーニは、2015-16シーズンにセリエBからスタートできるように手を尽くすとした[15] が、6月22日午後2時の締め切り時刻までに負債の弁済に目処が付かなかったため破産が確定し、「パルマFC」は消滅した[16]。 「パルマFC」の消滅に伴い所属選手は、全員リーグの規定により自由契約(移籍金発生なし)となった。同様の事例としてACFフィオレンティーナ(2002年)、SSCナポリ(2004年)がある[17]。 SSDパルマ・カルチョ19132015年7月、ネヴィオ・スカラが代表者となってSSDパルマ・カルチョ1913 (Società Sportiva Dilettantistica Parma Calcio 1913) が創設され、セリエD(4部)へ所属することとなった[18]。 2015-2016シーズンは、28勝10分0敗の成績で優勝し、レガ・プロ(3部)へ自動昇格した[19]。2016-2017シーズンはレガ・プロのジローネBで2位となり、昇格プレーオフに進出。プレーオフ決勝ではUSアレッサンドリア・カルチョ1912に勝利して、セリエBへの昇格を決めた[20]。 2017年6月、中国のデスポルツ(Desports)グループがクラブの株式の6割を取得した[21]。これによりリーガ・エスパニョーラのグラナダCFも保有するデスポルツグループがオーナーとなり、クラブの会長には代表の蒋立章(Jiang Lizhang)が就任した。2017年7月にはクラブOBで歴代最多得点者である元アルゼンチン代表のエルナン・クレスポが副会長に就任することが発表された。 2017-18シーズンのリーグ最終節で、スペツィア・カルチョを2-0で下したことで2位となり、3シーズンぶりにセリエAへ復帰することが決定した[22] が、その試合前にFWエマヌエーレ・カライオがスペツィアの2選手に「激しいコンタクトプレーは避けてくれ」とテキストメッセージを送ったことが八百長行為であるとイタリアサッカー連盟がイタリア連邦裁判所に提訴、7月23日、同裁判所により八百長が認定され、カライオ本人には2年間の出場停止と罰金2万ユーロ、クラブには2018-19シーズン開幕時に勝点5を減点する厳罰が科された。クラブはこの判決を不服とし、即座に再審請求を行った[23]。その後、イタリアサッカー連盟は勝点5を減点する処分を撤回し、カライオに対する2年間の出場停止も4か月に期間が短縮された。勝ち点減点が取り消される代わりに、クラブに対しては2万ユーロの罰金、そしてカライオには3万ユーロの罰金処分が発表された[24]。 タイトル国内タイトル国際タイトル
過去の成績
欧州の成績
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。 ※6番はアレッサンドロ・ルカレッリ 永久欠番。 ローン移籍
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
歴代監督
主な歴代所属選手→詳細は「Category:パルマ・カルチョ1913の選手」を参照
脚注出典
外部リンク
|