SLベンフィカ
SLベンフィカ(Sport Lisboa e Benfica, ポルトガル語発音: [sɨˈpɔɾ liʒˈβo.ɐ i βɐ̃jˈfikɐ] ( 音声ファイル))は、ポルトガル・リスボンに本拠地を置くプロサッカークラブ。ポルトガルサッカーのトップリーグであるプリメイラ・リーガに所属している。 概要1904年2月28日創設[1]。FCポルト、スポルティングCPとともに、ポルトガルサッカーにおけるビッグ3(トレス・グランデス)のひとつに数えられる[2]。65,647人収容のエスタディオ・ダ・ルスをホームスタジアムとしている。ヨーロッパの多くのクラブとは異なり、クラブ創設以来ずっとソシオ(ファンクラブ会員)がクラブを所有して運営している。2013年のデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、世界で21番目に多くの収入があるサッカークラブである[3]。2009年に国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) が発表した「20世紀最高のクラブ」ランキングでは第9位にランクインした[4]。毎年夏のプレシーズンにエウゼビオ・カップという親善大会を主催している。 ベンフィカには脈々と引き継がれる''Vénia(お辞儀)"と呼ばれる慣習があり、日本が発祥。1970年に来日したベンフィカは日本代表との親善試合に4-1で勝利。試合後に日本の皇族がベンフィカの選手達へ直々の挨拶したことが、ベンフィカ関係者に感銘を与え、70/71シーズンから現在に至るまで続いている。 プリメイラ・リーガ創設時(1934年)のメンバーに名を連ね、それ以来2部リーグに降格したことがない。プリメイラ・リーガでは32回、タッサ・デ・ポルトガルでは24回、タッサ・ダ・リーガでは4回優勝しており、これらはいずれもポルトガル最多である。スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラでは4回、カンペオナート・デ・ポルトガルでは3回優勝している。リーグ戦とカップ戦の2冠(ダブル)は9回達成している。1972-73シーズンにはポルトガルで初めてシーズン(30試合)無敗を達成し、1977-78シーズンには2度目のシーズン無敗を達成した。国際舞台に目を向けると、UEFAチャンピオンズカップで1960-61シーズンと1961-62シーズンに優勝しており、同大会で2連覇したことのあるポルトガル唯一のクラブである。同大会では1964-65シーズン、1967-68シーズン、1987-88シーズン、1989-90シーズンに準優勝しており、UEFAカップでは1982-83シーズンに準優勝している。欧州カップ戦の決勝出場回数(8回)はポルトガル最多である。1950年にはラテン・カップでも優勝している。1961年と1962年のインターコンチネンタルカップでは準優勝している。最後の欧州制覇が1961-62シーズンと近年欧州では低迷しているが、国内では2013-14、14-15と2連覇を達成した。 歴史黎明期 (1904年 - 1934年)1904年2月28日、リスボン(ポルトガル語でリジュボア)の南西部にあるベレン地区のフランコ薬局で大学卒業生らによる集会が行われ、スポルト・リジュボアという名称のサッカークラブの設立が話し合われた。この集会には24人が参加し、共同設立者のひとりとなる18歳のコスメ・ダミオンも参加していた。集会中にはジョゼ・ロサ・ロドリゲスの初代会長就任が決定し、その補佐にダニエル・ブリト、会計にManuel Gourlade(後に初代監督となる)の就任が決定した。この集会ではさらに、赤色と白色をクラブカラーとすること、鷲をエンブレムに用いること、「E Pluribus Unum」(ラテン語、Out of many, oneという意味)というモットーを掲げることも決定した。創設初期はスポーツ面で成功を収めたが、マネジメント面では稚拙さを露呈し、1907年にはトップチームの何人かの選手が、金銭面の待遇の良いスポルティングCPに移籍した。19世紀末のサッカーはまだ裕福な人々によって行われていたスポーツだったため、設立当初のメンバーには良家の子息が多く、医者、画家、建築家、教員などが名を連ねていた[5]。 1906年7月26日にはベンフィカ地区にグルポ・スポルト・ベンフィカが設立されており、1908年9月13日、スポルト・リジュボアはグルポ・スポルト・ベンフィカを吸収合併してスポルト・リジュボア・イ・ベンフィカ(SLベンフィカ)となった。スポルト・リジュボアからはクラブカラー(赤色と白色)・モットーがSLベンフィカに引き継がれ、グルポ・スポルト・ベンフィカからはグラウンド(カンポ・ダ・フェイテイラ)・主要な経営陣・クラブハウスがSLベンフィカに引き継がれた。グルポ・スポルト・ベンフィカでもっとも重要な競技チームは自転車競技チームであり、スポルト・リジュボアの鷲のエンブレムに自転車のホイールが付け加えられてSLベンフィカのエンブレムとなった[5]。 ベンフィカは市南西部のベレン地区から市北部のベンフィカ地区に移転したが、グラウンドの賃貸契約が問題として残った。1913年にはカンポ・デ・セテ・リオスに移転したが、セテ・リオスの賃貸料が高額だったため、わずか4年後にはカンポ・デ・ベンフィカへの移転を余儀なくされ、1925年にはエスタディオ・ダス・アモレイラスを建設した。全国リーグ開始前のポルトガルではカンペオナート・デ・ポルトガル(現在のタッサ・デ・ポルトガル)が国内最高峰のサッカー大会とされており、ベンフィカは1929-30シーズンに同大会初優勝を飾った。サッカーチームと並行して、ローラーホッケーチーム、ラグビーチーム、バスケットボールチーム、ハンドボールチーム、ビリヤードチーム、バレーボールチームも設立された。 発達期 (1934年 - 1940年代)1934年にポルトガルの全国リーグ(プリメイラ・リーガ)が開始されると、第1回大会の1934-35シーズンは優勝を逃したが、続く3シーズン(1935-36、36-37、37-38)に優勝した[6]。1940年にはタッサ・デ・ポルトガルで初優勝し、1941年にはエスタディオ・ド・カンポ・グランデに移転した。1940年代には、プリメイラ・ジヴィゾン[注釈 1]で3回(1941-42、42-43、44-45)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで4回(1939-40、42-43、43-44、47-48)優勝。この時期までに、クラブでもっとも重要な競技チームは疑うことなくサッカーチームとなった。1945-46シーズンにはCFベレネンセスがリーグ戦初優勝を遂げ、ビッグ3以外で初のポルトガル王者に輝いた[7]。ベレネンセスはベンフィカ、スポルティングに次ぐリスボン第3のクラブであり、1919年に設立されている。1940年代後半から1950年代前半にかけてはスポルティングの黄金期であり、1946-47シーズンから3連覇、1950-51シーズンから4連覇しているが、間の1949-50シーズンにはベンフィカがスポルティングのタイトル獲得を阻止した[7]。1949年5月3日にはセリエA5連覇中で「グランデ・トリノ」と称されていたACトリノ(イタリア)を招いて親善試合を行ったが、イタリアに帰国途中の飛行機が墜落して乗客全員が死亡する事故が起こった(スペルガの悲劇)[7]。この事故はポルトガルでも大きく報じられ、数千人のリスボン市民がイタリア大使館まで記帳に赴いたという[7]。 飛躍期と黄金期 (1950年代 - 1960年代)1950年、エスタディオ・ナシオナルでFCジロンダン・ボルドー(フランス)を下してラテン・カップを制した。ラテン・カップはスペイン、フランス、イタリア、ポルトガルの各国優勝クラブが争った大会であり、当時のヨーロッパでもっとも権威ある国際カップ戦だった。1954年にはブラジル人のオットー・グロリア監督が就任し、それまでのWMフォーメーションに代わる4-2-4フォーメーションを採用したほか、サッカーがプロスポーツであるという意識をポルトガルにもたらした[8]。1950年代には強豪クラブがこぞって大規模なスタジアムを建設しており、ベンフィカも1952年にエスタディオ・ダ・ルス(2003年に完成した同名のスタジアムとは異なる)をオープンさせた[8][1]。当初40,000人収容だったスタジアムはクラブの発展とともに増築され、1980年代にはヨーロッパ最大・世界第3位の135,000人収容まで拡張されている。1950年代後半には、ストライカーのジョゼ・アグアスなどポルトガル人選手の他に、キーパーのアルベルト・ダ・コスタ・ペレイラやマリオ・コルナなどモザンビーク出身選手も在籍していた。1950年代にはプリメイラ・ジヴィゾンで3回優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで6回優勝した。 UEFAチャンピオンズカップでは第1回大会の1955-56シーズンから1959-60シーズンまでレアル・マドリード(スペイン)が5連覇していたが、レアル・マドリードの6連覇を阻んだのはベンフィカだった。1959年にはハンガリー人のベーラ・グットマン監督が就任し、1960-61シーズンの同大会では1回戦でウーイペシュト・ドージャFC(ハンガリー)、準々決勝でオーフスGF(デンマーク)、準決勝でSKラピード・ウィーン(オーストリア)を破って決勝に進出。スイスのベルンで行われた決勝はスペイン王者のFCバルセロナ(スペイン)との対戦となり、2-2の同点から相手キーパーのアントニ・ラマレッツがオウンゴールを記録してベンフィカの初優勝が決まった[1]。1961年夏にはモザンビーク出身のエウゼビオが本格的にチームに加わり[注釈 2]、黒豹と呼ばれたエウゼビオ、コルナ、ジョゼ・アウグスト・トーレスなどで構成される攻撃陣は抜群の破壊力を誇った。1961年9月にはインターコンチネンタルカップでナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)と対戦したが、プレーオフの末に敗れた。1961-62シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFKアウストリア・ウィーン(オーストリア)、準々決勝で1.FCニュルンベルク(ドイツ)、準決勝でトッテナム・ホットスパーFC(イングランド)を破り、2シーズン連続で決勝に進出。オランダのアムステルダムで行われた決勝では、アルフレッド・ディ・ステファノやフェレンツ・プスカシュ、ルイス・デル・ソルなどを擁したレアル・マドリードと対戦。プシュカーシュが前半だけでハットトリックを達成し、2点差を付けられたベンフィカは劣勢だったが、4点に絡んだエウゼビオの活躍で5-3と逆転し、大会2連覇を果たした[9]。1962年のインターコンチネンタルカップではペレを擁するサントスFC(ブラジル)と対戦したが、ホーム&アウェーともに敗れて優勝を逃した。この時代のポルトガルリーグでは植民地出身選手が何人もプレーしていたが、植民地以外の外国人選手の登録は認められていなかった[10]。 1962-63シーズン、1964-65シーズン、1967-68シーズンにもUEFAチャンピオンズカップの決勝に進出したが、それぞれACミラン(イタリア)[11]、インテル(イタリア)[12]、マンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)[13]に敗れて準優勝に終わっている。1960年代にはプリメイラ・ジヴィゾンで8回(1959-60、60-61、62-63、63-64、64-65、66-67、67-68、68-69)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで3回(1960-61、63-64、68-69)優勝し、UEFAチャンピオンズカップで2回(1960-61、61-62)優勝した。1965年にはエウゼビオがバロンドールを獲得し、1968年にはフランス・フットボール誌によってヨーロッパ最高のクラブに選出された。 安定期 (1970年代 - 1994年)1970年代には欧州カップ戦での存在感がやや薄れたが、ポルトガル国内では主役の座を維持し、プリメイラ・ジヴィゾンで6回(1970-71、71-72、72-73、74-75、75-76、76-77)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで2回(1969-70、71-72)優勝した。1970年から1974年まではイングランド人のジミー・ヘイガン監督に率いられ、ヘイガン監督指揮下で4個のタイトルを獲得した。1971-72シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは準決勝に進出してヨーロッパ中から注目を浴びたが、AFCアヤックス(オランダ)に2試合合計0-1のスコアで敗れた。1972-73シーズンのリーグ戦は30戦無敗(28勝2分)で、シーズンを無敗で終えたポルトガル初のクラブとなった[1]。このシーズンには23試合連続勝利の記録も樹立した。すでに選手経歴の晩年を迎えていたエウゼビオが40得点を挙げ、リーグ得点王に輝くとともにヨーロッパ・ゴールデンシュー(ヨーロッパ全体の得点王)にも輝いた。チーム全体では101得点を挙げたが、1シーズンで100得点を超えたのはクラブ史上2度目のことだった。1975年、33歳のエウゼビオはモザンビーク独立と時を同じくしてポルトガルを離れ、アメリカのクラブに移籍した[14]。 1970年代後半から1980年代初頭にかけてのベンフィカは問題を抱えたが、1982年から1984年に指揮を執ったスウェーデン人のスヴェン・ゴラン・エリクソン監督の下で持ち直した。エリクソンが初めて海外のクラブの指揮を執ったのがベンフィカであり、就任時にはまだ34歳だった[15]。就任初年度となる1982-83シーズンには国内2冠を達成し、1982-83シーズンのUEFAカップでは決勝でRSCアンデルレヒト(ベルギー)に敗れたものの準優勝した[1]。この時期にはルスの増築工事が完成して3階席がオープンし、最大で120,000人(固定座席に限らなければ135,000人)を収容するルスはヨーロッパ最大のスタジアムとなった。1986-87シーズンには9度目のダブル(2冠)を達成したが、これが今日に至るまでの最後のダブルである。1988年から1994年には、再びUEFAチャンピオンズカップで優勝するために巨額の投資が行われた。1987-88シーズンと1989-90シーズンには決勝に進出したが、それぞれPSVアイントホーフェン(オランダ)[16]とミランに敗れ[1][17]、欧州カップ戦の決勝では6連敗となった。この時期にはプリメイラ・ジヴィゾンで3回(1988-89、90-91、93-94)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで1回(1992-93)優勝した。 暗黒期 (1994年 - 2003年)1980年代にはスタジアムの増設工事に加え、UEFAチャンピオンズカップでの好成績のために巨額の投資を行ったため、クラブの財政状況が悪化し始めた。明確な獲得方針がないまま移籍金を浪費して選手を乱獲したため、契約選手数は30人を超し、さらに財政状況を圧迫した。1994年から2003年までの期間はクラブの暗黒期と言ってよい。この期間中にはプリメイラ・リーガ[注釈 3]で優勝することはできず、獲得したトロフィーは1995-96シーズンのタッサ・デ・ポルトガルの1個だけだった。さらに、2000-01シーズンのリーグ戦では6位、2001-02シーズンのリーグ戦では4位と、不満の残る成績が続いた。ジョアン・ヴァレ・エ・アゼヴェド会長時代には債務不履行に陥ってクラブの信用を失墜させ、ほとんど毎シーズンのように監督の解任を繰り返した。1994年から2002年の間には11人の監督が次々と入れ替わり、マリオ・ウィルソン監督は3度もベンフィカのベンチに座った。1995-96シーズンのタッサ・デ・ポルトガル決勝では、ベンフィカサポーターが放ったロケット花火がスポルティングサポーターを直撃、死亡するという事故が起こった[15]。2001年にはポルトガル史上最高額の1300万ユーロを支払ってシモン・サブローザを獲得。2000年秋には、マヌエル・ヴィラリーニョ会長が就任し、2001年4月にはクラブの株式会社化を行った[15]。2001年9月28日には新しいスタジアム(スタジアム名は旧名称と同じルス)の建設を決定し、建設には最終的に1億6200万ユーロを投じた[18][19][20]。 再建期 (2003年 - )2003年10月には新エスタディオ・ダ・ルスに移転。同時期にルイス・フィリペ・ヴィエイラが新会長に就任し、ホセ・アントニオ・カマーチョ監督に率いられた2003-04シーズンには、タッサ・デ・ポルトガル決勝でジョゼ・モウリーニョ監督率いるポルトを破り、実に8年ぶりとなるトロフィーを獲得した。2004年にはジョバンニ・トラパットーニ監督が就任し、スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラで4回目の優勝を飾って幸先よいスタートを切ると、2004-05シーズンのリーグ戦では11年ぶりに優勝した。しかし、同シーズンにエスタディオ・D. アフォンソ・エンリケスで行われたヴィトーリア・ギマランイス戦では、ハンガリー代表フォワードのフェヘール・ミクローシュが試合中に倒れ、病院で死亡が確認された[1]。ルスには多くの人々が弔問に訪れ、ハンガリーで行われた埋葬にはヴィエイラ会長やキャプテンのヌーノ・ゴメスが参列した。フェヘールが背負っていた背番号29はクラブの永久欠番となったが、ポルトガルのクラブで永久欠番を持つのはベンフィカのみである[21]。タッサ・デ・ポルトガルでは2シーズン連続で決勝に進出したが、ヴィトーリア・セトゥーバルに敗れて2連覇を逃した。なお、同大会決勝にはポルトガル大統領が列席することが慣例となっているが、ジョルジェ・サンパイオ大統領(1996年-2006年に在職)は熱心なスポルティングファンであり、準決勝でベンフィカがスポルティングを下したことで決勝の列席を拒んだ[22]。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグではマンチェスター・U、ビジャレアルCF(スペイン)、リール(フランス)と同組となった。グループ突破のかかったマンチェスター・U戦に2-1で勝利し、ビジャレアルに次ぐグループ2位で決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦では前回大会王者のリヴァプールFC(イングランド)と顔を合わせたが、2試合合計3-0で準々決勝進出を決めた。準々決勝ではバルセロナと対戦し、結果的に優勝するクラブに2試合合計0-2で敗れた。 2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは再びマンチェスター・Uと同組となり、またもやグループ突破をかけてマンチェスター・Uと対戦したが、今度は1-3で敗れてグループリーグ敗退となった。2007-08シーズン開幕戦後にはフェルナンド・サントス監督が解任され、カマーチョ監督がクラブと2年契約を結んでベンフィカに復帰した[23]。2007-08シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦では、前年度のグループリーグでも対戦していたFCコペンハーゲン(デンマーク)と顔を合わせ、ホーム&アウェーの2試合ともに勝利して本選グループリーグ出場を決めた。グループリーグではミラン、FCシャフタール・ドネツク(ウクライナ)、セルティックFC(スコットランド)と対戦したが、3位でグループリーグ敗退となり、UEFAカップに回った。UEFAカップではラウンド16でヘタフェCF(スペイン)に敗れ、カマーチョ監督はその数日後に辞任した。リーグ戦ではSCブラガの後塵を拝し、トップ3でのフィニッシュを逃した。 2007-08シーズン終了後にはレジェンドのマヌエル・ルイ・コスタが現役引退し、そのままスポーツディレクターに就任[1]。手始めに元バレンシアCF監督のキケ・サンチェス・フローレスを監督に招聘すると、ホセ・アントニオ・レジェスやパブロ・アイマールなどの実力者獲得に尽力した[1]。2008-09シーズンのタッサ・ダ・リーガでは決勝でスポルティングを破り、同大会初優勝を飾った。同シーズンのリーグ戦では3位となり、UEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。2009年6月8日、監督・クラブ双方合意の上で契約を解除し、キケ・フローレス監督が退任。6月17日、元SCブラガ監督のジョルジェ・ジェズスが監督に就任した。2009年夏には過去最大級の投資を行い、ハビエル・サビオラ、ハビ・ガルシア、ラミレスなどを獲得[24]。パブロ・アイマールやアンヘル・ディ・マリアなど既存戦力も合わさって豪華メンバーとなった。2009-10シーズンは過去最高となる1試合平均50,033人の観客を集め[25]、勝利したポルト戦ではシーズン最高の58,659人を集めた。2010年3月21日、タッサ・デ・ポルトガル決勝ではポルトに3-0で快勝し、同大会2連覇を達成した。同シーズンのUEFAヨーロッパリーグ準々決勝ではリヴァプールと対戦。ルスで行われたファーストレグには2-1で勝利したが、アンフィールドで行われたセカンドレグに1-4で敗れ、2試合合計3-5で敗退が決まった[26]。リーグ戦のホームゲームでは圧倒的な成績(14勝1分)を残し、リーグ最多得点・最少失点で32回目のリーグ優勝を決めた。UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグの出場権を獲得し[27]、26得点を挙げたパラグアイ代表のオスカル・カルドソが得点王に輝いた[28]。 2010-11シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグではシャルケ04(ドイツ)、オリンピック・リヨン(フランス)、ハポエル・テルアビブFC(イスラエル)と同組となり、2勝4敗の勝ち点6でグループリーグ敗退となった[29]。グループ3位枠でUEFAヨーロッパリーグに回ったが、UEFAヨーロッパリーグでは決勝トーナメント1回戦でVfBシュトゥットガルト(ドイツ)[30]、決勝トーナメント2回戦でパリ・サンジェルマンFC(フランス)[31]、準々決勝でPSV[32]を下し、欧州カップ戦では18年ぶりに準決勝に進出した。ベスト4にはポルトガルから3クラブ(ベンフィカ、ポルト、ブラガ)が残り、ブラガと対戦した準決勝では1990年以来の欧州カップ戦出場を目指したが、2試合合計2-2(アウェーゴール差)で敗退が決まった[33][34]。同シーズンのタッサ・ダ・リーガ決勝ではFCパソス・デ・フェレイラを下して3連覇を達成したが[35][36]、リーグ戦は2位に終わった。2011-12シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグではマンチェスター・U、FCバーゼル(スイス)、FCオツェルル・ガラツィ(ルーマニア)と同組となり、3勝3分の負けなしで首位通過を決めた[37]。決勝トーナメント1回戦ではFCゼニト・サンクトペテルブルク(ロシア)に2試合合計4-3で勝利したが[38]、準々決勝では結果的に優勝するチェルシーFC(イングランド)に敗れた[39][40]。同シーズンのタッサ・ダ・リーガでは4連覇を果たしたが[41]、リーグ戦では再び2位に終わった。20得点を挙げたカルドソが2度目の得点王に輝いた[42]。2012-13シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグではバルセロナ、セルティックFC(スコットランド)、FCスパルタク・モスクワ(ロシア)と同組となったが、勝ち点8のグループ3位でUEFAカップに回った[43]。 2012-13シーズンはUEFAチャンピオンズリーグのグループリーグにおいて3位となったことからUEFAヨーロッパリーグの決勝トーナメントへ出場し、決勝戦においてチェルシーFCに敗れ準優勝となった。このシーズンではリーグ戦においても優勝を勝ち点1の差で逃しており、またタッサ・デ・ポルトガルにおいても決勝でヴィトーリア・ギマランイスに敗れ準優勝に終わったことから、「準三冠」を達成したもののタイトルを獲得することはできなかった。 2013-14シーズン、国内ではプリメイラ・リーガを制覇、タッサ・ダ・リーガでリオ・アヴェFCを決勝で破り優勝。タッサ・デ・ポルトガルでもリオ・アヴェFCを決勝で破り優勝という文句のつけようのない結果を残した。UEFAチャンピオンズリーグでは、グループリーグにおいてオリンピアコスと勝ち点10で並ぶも得失点差で敗退し、グループ3位となった。UEFAヨーロッパリーグでは、ホームスタジアムで決勝戦開催ということで優勝を期待されたユヴェントスFCを準決勝で撃破するも、決勝戦でセビージャFCにPK戦で敗れて2年連続での準優勝に終わった。 スタジアム→詳細は「エスタディオ・ダ・ルス」を参照
ベンフィカはカテドラル(大聖堂)の愛称を持つエスタディオ・ダ・ルス(『光のスタジアム』という意味)をホームスタジアムとしており、試合開始前にはクラブのシンボルである鷲が止まり木に飛来するパフォーマンスが行われる[21]。ルスは公式にはエスタディオ・ド・スポルト・リジュボア・イ・ベンフィカという名称である。1954年に建設された初代ルスは135,000人を収容し、ヨーロッパ最大のスタジアムだった。2003年に完成した2代目ルスは65,647人を収容し[1]、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオを招いて落成記念親善試合が行われた[44]。ルスは様々な機能を持つ複合施設であり、ふたつの体育館、スイミングプールなども備えている[1]。フットサルチーム(SLベンフィカ)、バスケットボールチーム、自転車競技チーム、ラグビーチーム、ハンドボールチームなどがこれらの施設を使用している[1]。 1966-67シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝はルスで開催され、セルティックFC(スコットランド)がインテル(イタリア)を破って優勝した[45]。ポルトガルで開催されたUEFA EURO 2004の際にはルスも開催地のひとつとなり、ポルトガル代表対ギリシャ代表の決勝戦などが行われた。ポルトガル代表はルスでの対戦成績が良いため、2004年以降は主要大会予選の強豪国との対戦がルスで行われることが多い[46]。2012年3月20日、2013-14シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝がルスで開催されることが決定した[47][48]。 ライバルとサポーターライバルリスボン・ダービーベンフィカの最大のライバルは、同じリスボンに本拠地を置くスポルティングCPである[49]。この2チームの対戦はオ・デルビー・デ・リジュボア(リスボン・ダービー)と言われている。1950年から約15年間はベンフィカが欧州カップ戦のタイトルを持つポルトガル唯一のクラブだったが、1963-64シーズンにはスポルティングがUEFAカップウィナーズカップを制した。 オ・クラシコFCポルトともライバル関係にあり、両クラブの対戦はオ・クラシコと呼ばれる[50]。初のダービーは1912年4月28日に行われた親善試合であり、ベンフィカが8-2で勝利した[1]。ベンフィカは1960-61シーズンと1961-62シーズンにUEFAチャンピオンズカップで優勝しており、長らく同大会で優勝したことのあるポルトガル唯一のクラブだったが、1986-87シーズンにポルトが優勝。ポルトは2003-04シーズンにも同大会で優勝し、ベンフィカは優勝回数で並ばれた。ポルトは欧州カップ戦で7個のトロフィーを獲得しており、ベンフィカの3個を大きく上回っている。 ポルトは1960年代から1970年代にかけて約20年間リーグ優勝から見放されたが、1977-78シーズンに5回目のリーグ優勝を飾ると、1980年代後半以降はベンフィカを上回るペースで優勝回数を増やし、1990年代にはリーグ記録の5連覇を果たした。ポルトの急成長は、1974年に起こったカーネーション革命によってリスボンの一極支配体制が崩れたこととも無関係ではない[51]。1977年時点でのリーグ優勝回数は23回(ベンフィカ)と4回(ポルト)だったが、2012年時点でのリーグ優勝回数は32回(ベンフィカ)と25回(ポルト)であり、四半世紀で10回以上も差を詰めた。ポルトの躍進とともにライバル意識がどんどん高まり、ダービーは白熱度を増した。 サポーターベンフィカのファンは全世界で1400万人いるとされており、ポルトガル最大・ヨーロッパ最大級である[52]。全世界に20万人のソシオ(ファンクラブ会員)がおり、世界最多のソシオ数を持つクラブとしてギネス・ワールド・レコーズに認定されている[53][21]。ポルトガルの総人口1070万人のうち約600万人がベンフィカのファンだとされている[53]。2011-12シーズンの1試合平均観客数は42,464人であり、ポルトの35,176人、スポルティングの34,494人を上回ってポルトガル最多だった[54]。リーグ優勝を遂げた2009-10シーズンには、ポルトガル最多・ヨーロッパ第10位の1試合平均50,033人を集めた[54]。 また、ファンクラブはポルトガル国外にも広がっており、アンドラ、アンゴラ、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、カーボベルデ、クロアチア、フランス、ドイツ、ギニアビサウ、イギリス、日本、ルクセンブルク、マカオ、マレーシア、スイス、オランダ、アメリカに存在する。 エンブレムとユニフォームエンブレムクラブのエンブレム下部には自転車のホイールがあり、クラブカラー(赤色と白色)の盾が重ねられている。盾の中にはサッカーボール、クラブの頭文字 (SLB) があり、エンブレム上部には羽を広げた鷲が描かれている。現在のエンブレムの基本形となったのは、スポルト・リジュボアがグルポ・スポルト・ベンフィカと合併した1908年に制定されたデザインである。1930年と1999年にマイナーチェンジが加えられ、1999年の変更時には鷲のデザインが多少変えられた[55]。2008年以降は、現行のデザインに獲得タイトル数を表す星を加えた記念エンブレムを使用している[56]。公式アンセムは「サー、ベンフィキスタ」(Ser Benfiquista) であり、クラブのモットーは「E Pluribus Unum」(「Out of many, one」という意味)である。 デザインの変遷
ユニフォーム現行のデザイン
スポンサーとサプライヤー
記録
エウゼビオはクラブ史上最多の公式戦614試合に出場した。クラブ史上最多得点者もエウゼビオであり、440試合で474得点を挙げた。得点数第2位はジョゼ・アグアスであり、384試合で374得点を挙げた。第3位はネネであり、575試合で360得点を挙げた。 通算得点数公式戦の通算得点数
プリメイラ・リーガの得点数
通算得点数(外国人選手)
節目となる得点の記録者プリメイラ・リーガに限る
獲得時の移籍金
放出時の移籍金
1972-73シーズンには28勝2分(30試合制)で無敗優勝を果たした。このシーズン中にはポルトガル記録の23試合連続勝利を達成している。30試合で勝ち点58(勝利勝ち点2)を記録し、ポルトガル史上最高の獲得勝ち点率96.7%を記録した。2位との勝ち点差18は勝利勝ち点2だった時代の最高記録である。1971-72シーズンから1972-73シーズンにかけて29試合連続勝利のヨーロッパ記録を達成した。 プリメイラ・リーガ優勝32回、タッサ・デ・ポルトガル優勝24回、タッサ・ダ・リーガ優勝4回、ダブル(リーグとカップの2冠)達成9回はいずれもポルトガル記録である。UEFAチャンピオンズカップ2連覇はポルトガルでベンフィカしか達成しておらず、欧州カップ戦の決勝出場回数8回はポルトガル記録である。 タイトル国内タイトル
国際タイトル
親善タイトル
成績略称の詳細
近年の成績プリメイラ・リーガに名称変更された1999年以降の成績
過去の成績
欧州カップシーズンごとの戦績
試合一覧UEFAチャンピオンズリーグUEFAチャンピオンズカップ時代も含む
UEFAカップウィナーズカップヨーロッパ・カップウィナーズカップ時代も含む
UEFAヨーロッパリーグインターシティーズ・フェアーズカップ、UEFAカップ時代も含む
決勝一覧
準決勝勝利一覧
準決勝敗北一覧
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
ローン移籍
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
永久欠番注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
歴代会長
歴代監督→詳細は「SLベンフィカの選手一覧 § 歴代監督」を参照
歴代所属選手→詳細は「SLベンフィカの選手一覧」を参照
下部組織→詳細は「SLベンフィカB」を参照
ベンフィカ・ジュニオルス
下部組織としてSLベンフィカ・ジュニオルスが存在する。ベンフィカB、U-23チーム、U-19チーム(ジュニオレス=A)、U-17チーム(ジュヴェニス=B)、U-15チーム(イニシアドス=C)、U-13チーム(インファンチス=D)、U-12チーム、U-11チーム、U-9チームがある。 タイトル
その他のスポーツ→「SLベンフィカ (フットサル)」も参照
クラブは最初にサッカークラブとして活動を始めたが、フットサル、ローラーホッケー、バスケットボール、ハンドボール、バレーボール、体操、アーチェリー、ビーチサッカー、ビリヤード、カヌー、自転車競技、ゴルフ、カート、柔道、ペイントボール、ラグビー、スポーツフィッシング、水泳、卓球、トライアスロンの競技チームも持っている。 2001年に設立されたフットサルチーム(SLベンフィカ)もポルトガル屈指の強豪であり、リーガ・プラカルド(国内リーグ)で6回、タッサ・デ・ポルトガル(国内カップ)で5回、スーペルタッサ・デ・ポルトガル(国内スーパーカップ)で6回優勝している。リーガ・プラカルドでは参戦初年度の2001-02シーズンから2011-12シーズンまで必ず1位か2位となっている。UEFAフットサルカップでは2003-04シーズンに準優勝し、2009-10シーズンに優勝した。ヨーロッパ・フットサル・カップウィナーズカップでは2006-07シーズンに準優勝した。インターコンチネンタル・フットサルカップでは2007年に4位となり、2011年に3位となった。日本人選手では逸見勝利ラファエルが2013年シーズンより所属している。 ポルトガルで高い人気を集めるローラーホッケーチームは、ポルトガル・リーグで21回優勝(ポルトガル最多)している。1990-91シーズンと2010-11シーズンにはCERSカップで優勝してヨーロッパ王者となり、2011年にはヨーロピアン・コンチネンタルカップ(スーパーカップ)を獲得した。 1927年に設立されたバスケットボールチームは、ポルトガル・リーグで23回優勝(ポルトガル最多)している。ハンドボールチームは1980年代から1990年代初頭に黄金期を迎え、ポルトガル・リーグで7回優勝(ポルトガル第4位)している。バレーボールチームはポルトガル・リーグA1での優勝回数こそ少ないが、ポルトガル・カップでは14回優勝(ポルトガル最多)している。 脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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