パウロ・ソウザ
パウロ・ソウザ(Paulo Manuel Carvalho Sousa, 1970年8月30日 - )は、ポルトガル・ヴィゼウ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元ポルトガル代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 来歴少年期父親はメカニック、母親は裁縫師の家庭に生まれた[1]。少年時代にはスポルティングのファンで、ストリートサッカーだけでなく、バスケットボールもプレーしていた[1]。12歳の時にレペセンセスというクラブに入団した[1]。学校では成績も良く、この頃の夢は、小学校の教師になることだった[1]。レペセンセスでのプレーで、注目を集める存在になりつつあったある日、ポルトガルU-20の監督を務めていた人物の目に留まり、1986年、ベンフィカへ入団することとなった[1]。 クラブポルトガル時代3年間のユース生活を経て、1989年、19歳の時、スヴェン=ゴラン・エリクソン監督によりトップに引き上げられ、ベンフィカでプロデビュー[1]。ベンフィカではパウロ・フットレやルイ・コスタ、ジョアン・ピントらと共に1度のスーペル・リーガ制覇と1度のタッサ・デ・ポルトガル制覇に貢献した。1993年、チームの経済的な理由により、幼少の頃からファンであったスポルティングCPへ移籍した[1]。クラシミール・バラコフ、ルイス・フィーゴらと共にプレーしたが、タイトルは獲得出来なかった[1]。 ユヴェントス1994年にユヴェントスからのオファーを受け、3年契約でユヴェントスに入団した[1]。新監督マルチェロ・リッピ下で、ディディエ・デシャンとボランチのコンビを組んだ[1]。1月9日、優勝を争っていたパルマとの対戦では、ジョヴァンニ・ガッリから、意表を突いたゴールを奪って勝利に貢献するなど、怪我を抱えながらも攻守に活躍、26試合に出場し、9シーズンぶりのスクデット獲得に貢献した[1]。この活躍により、シーズンのセリエA最優秀外国人にも選ばれた[1]。 1995-96シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝第2戦のナント戦でゴールを決め、試合には敗れたが、このゴールにより合計でナントを上回り、ユヴェントスは決勝に進出する[1]。決勝のアヤックス戦では57分までプレー、チームは優勝を果たした[1]。しかし、1月のピアチェンツァ戦でベンチスタートになったことを皮切りに、リッピとの関係が悪化したこともあり、本人は残留を望んでいたものの、放出されることとなった[1]。 ドルトムントドルトムントでも中心選手となり、1997年5月のUEFAチャンピオンズ・リーグ決勝進出に貢献し、決勝戦の相手は古巣ユヴェントスとなったが、3-1の勝利に貢献、異なるクラブで2年連続チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた2人目の選手となった(マルセル・デサイーが1992-93シーズンにマルセイユで、1993-94シーズンにミランでチャンピオンズリーグを連破[1])。1997年冬に行われた、トヨタカップのクルゼイロ戦では、絶妙なクロスでヘルリッヒの得点をアシストして勝利した[2]。ドルトムントでは、1シーズン半で40試合で2ゴール10アシストを記録した[1]。 1997-98シーズン途中の1998年1月、インテル・ミラノに移籍した[1]。慢性的な故障もあって実力を発揮出来ず、2年間で40試合に出場するに留まった[1]。パルマACへのレンタル移籍を挟んで、ギリシャ、パナシナイコスに移籍。2年連続チャンピオンズリーグ1次リーグ突破の原動力となるも、2001-02シーズン途中で退団、リーガ・エスパニョーラのエスパニョールへ移籍したが、僅か9試合に出場したのみだった[1]。 2002年7月2日、度重なる膝の怪我に悩まされ続け、僅か31歳で現役引退を表明した[1]。引退会見では、近年、メディアから自分への報道に傷付いたこと、ユーロ2002とワールドカップにおいて、代表チームの役に立てなかったことへの口惜しさを口にした[1]。 代表代表レベルでも1989年にはユース代表としてFIFAワールドユース制覇。1991年にはポルトガル代表に選出され1月16日のスペイン戦で代表デビューを飾った。1994 FIFAワールドカップ、1998 FIFAワールドカップへの出場は逃したが、UEFA EURO '96、UEFA EURO 2000に出場した。 2002年5月13日、2002 FIFAワールドカップのポルトガル代表として選出された。“ゴールデン・ジェネレーション”最後の挑戦は、1勝2敗、総得点6、総失点4のグループ・リーグ敗退に終わった。ソウザは大会前の怪我の影響もあって、1試合も出場することなく終わった。 指導歴ポルトガルで開催されたEURO2004でアドヴァイザリースタッフとして参加、ポルトガルU-16代表の監督を務めた[1]。さらにポルトガル代表監督であったルイス・フェリペ・スコラーリの下、アシスタントコーチを務めた。 2008年の11月にイングランド2部のクイーンズ・パーク・レンジャーズの監督に就任した。2009年夏にスウォンジー・シティの監督に就任し、2010年7月からはレスター・シティ監督に就任。だが開幕から調子は上がらず、10月1日にわずか3ヶ月で解任された。2011年から、ハンガリーのヴィデオトンの監督を2年間務め初年度に国内カップ戦を制覇。2013-14シーズンはイスラエルのマッカビ・テルアビブを率いてイスラエル・プレミアリーグを優勝し、コーチングキャリアで初のリーグタイトルを獲得した。 2014-15シーズンより、スイスのバーゼルを指揮しUEFAチャンピオンズリーグベスト16進出を達成した(ラウンド16で、ポルトガルのポルトに敗戦)。 2015-16シーズンより、イタリアのフィオレンティーナの監督に就任した[3]。 2018シーズンより、中国の天津権健足球倶楽部の監督に就任した 2019年3月11日、FCジロンダン・ボルドーの監督に就任した。 2021年1月21日、ポーランド代表の監督に就任した[4]。しかし、同年12月29日にCRフラメンゴの監督に転任した[5]。 2023年2月15日、ダヴィデ・ニコーラの後任としてイタリア・セリエAのサレルニターナの監督に就任した[6]。2023-24シーズンは第8節時点で0勝3分5敗の19位に低迷し、10月10日に解任された[7]。 人物読みに優れたプレーメーカーで、ボールを奪うと、守備から攻撃へと素早く味方にボールをつないで試合を組み立て[1]、プレースタイルはファルカンと比較された[1]。しかし、キャリアの中期以降、慢性的な膝の怪我により、常時試合に出場することが出来なかった[1]。 代表歴出場大会
試合数
監督成績
タイトルクラブ
代表
脚注
外部リンク
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