セビージャFC
セビージャFC(Sevilla Fútbol Club、スペイン語発音: [seˈβiʎa ˈfuðβol ˈkluβ])は、スペイン・セビリアに本拠地を置くプロサッカークラブである。スペインサッカーのトップリーグのラ・リーガに所属している。UEFAヨーロッパリーグを7回制しており、最多の優勝回数となっている。その他にラ・リーガを1回、コパ・デル・レイを5回、スーペルコパ・デ・エスパーニャを1回、UEFAスーパーカップを1回制覇している。同じセビリアを本拠地とし、労働者階級に強い支持基盤を持つレアル・ベティスとの対戦はセビージャ・ダービーと呼ばれ、スペインで最も熱いダービーと言われている[1]。 歴史20世紀前半1890年、セビージャ市の統治者はセビージャFCの設立を発表し、初代会長にはD・ホセ・ルイス・ガジェゴスが就任した。1908年にはレクレアティーボ・ウェルバとの間でスペイン初の公式戦が行われた。1914年にはコパ・デ・セビージャで優勝した。1935年のコパ・デル・レイ(当時はコパ・デル・プレジデンテと呼ばれていた)では決勝でCEサバデルを3-0で破って優勝した。スペイン内戦後の1938-39シーズンには、決勝でラシン・フェロルを6-2で破って2度目のコパ・デル・レイ(当時はコパ・デル・ヘネラリシモと呼ばれていた)制覇を果たした。スペイン内戦後初のリーグ戦となった1939-40シーズンにはかなりリーグ優勝に近づき、FCバルセロナに11-1で、バレンシアCFに10-3で、エルクレスCFに8-3で勝利するなど驚くべき勝利をいくつも挙げたが、エルクレスCFとのシーズン最終戦は3-3の引き分けに終わり、アトレティコ・アビアシオンに優勝をさらわれた。1942-43シーズンには再びリーグ2位となり、1943-44シーズンには3位となった。1945-46シーズンには初のプリメーラ・ディビシオン(1部)優勝を果たした。1947-48シーズンのコパ・デル・レイ決勝ではセルタ・デ・ビーゴを4-1で破って3度目の優勝を遂げた。 20世紀後半1958年にはエスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンが完成し、レアル・ハエン戦 (3-3) で幕を開けた。1960年代はプリメーラ・ディビシオン中位に低迷し、1968-69シーズン終了後にはセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したが、1年でプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした[2][3]。 1970年代初頭には再びセグンダ・ディビシオンに降格した。1990年代にはプリメーラ・ディビシオン中位に確固たるポジションを築いたが、1997-98シーズンにセグンダ・ディビシオン降格となった[4]。再び昇格したものの、1999-2000シーズンはわずか勝ち点28しか挙げられず、最下位でセグンダ・ディビシオン降格となった[5]。 2000年代の巻き返し2000年夏に就任したホアキン・カパロス監督の下、2000-01シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝した[6]。2002年に就任した弁護士出身のホセ・マリア・デル・ニド新会長はクラブの財政を整理し、強化担当のモンチスポーツ・ディレクターの辣腕もあって強豪クラブへの道を歩み出すことになった。移籍金が安いが実力のある良質な選手をスカウトし、自らの下部組織で育成した将来有望な若手選手と組み合わせることによって、ビッグクラブほど資金をかけずにビッグクラブに対抗できる強力なチームを作り上げることに成功。2004年1月にはクラブ生え抜きのスター選手であるMFホセ・アントニオ・レジェスをアーセナルFCに売却して移籍金1050万ポンドを得て[7]、2005年夏にはやはり生え抜きのセルヒオ・ラモスをレアル・マドリードに売却して移籍金2700万ユーロを得た。 2003-04シーズンは20年以上ぶりにコパ・デル・レイで準決勝に進出した(準決勝ではレアル・マドリードに1-2で敗れた)だけでなく、リーグ戦では6位となってUEFAカップ出場権を獲得した[8]。2004-05シーズンも6位となってUEFAカップ出場権を維持した。 2005-06シーズン2005年夏にはカパロス監督が退任してファンデ・ラモス監督が就任し、バレンシアCFからGKアンドレス・パロップを、AFCアヤックスからDFジュリアン・エスキュデを、FCバルセロナからFWハビエル・サビオラを、FCポルトからFWルイス・ファビアーノを、トッテナム・ホットスパーFCからFWフレデリック・カヌーテを獲得するなど大量補強を行った。UEFAカップでは1回戦、グループリーグと順調に勝ち上がり、ラウンド32ではロシアのFCロコモティフ・モスクワを倒してラウンド16に進出した[9]。リールと対戦したラウンド16では1stレグを0-1で落としたが[10]、クラブの欧州カップ戦50試合目となった2ndレグは2-0で勝利し、準々決勝に進出した[11]。準々決勝ではロシアのFCゼニト・サンクトペテルブルクと対戦し、2試合合計5-2で勝ちぬけた[12]。準決勝のシャルケ04戦は2試合180分を終えて0-0であったが、延長戦でDFアントニオ・プエルタが決勝点を決めた。この得点はファンの間で「生き返った得点」(el gol que nos cambió la vida) と呼ばれ、セビージャFCは欧州カップ戦で初めて決勝に進出した[13]。アイントホーフェンで行われた決勝ではイングランドのミドルズブラFCを4-0で下し、58年ぶりにタイトルを獲得するとともに、アンダルシアのクラブで初めて欧州カップ戦を制した。4点差は歴代のUEFAカップ決勝で最大の得点差だった。L・ファビアーノが1得点、MFエンツォ・マレスカが2得点、カヌーテが1得点を決めた[14]。特にホームでは無類の強さを誇り、2006年12月14日にAZアルクマールに敗れるまで欧州カップ戦では27戦無敗を続けた。2005-06シーズンはリーグ戦で5位となり、再びUEFAカップ1回戦の出場権を獲得した。 2006-07シーズンUEFAカップ優勝でUEFAスーパーカップの出場権を得て、2006年8月にはUEFAチャンピオンズリーグ王者のFCバルセロナと対戦した。スタッド・ルイ・ドゥで行われた試合はMFレナトが序盤に先制し、後半にはカヌーテとマレスカ (PK) が追加点を決めて3-0で快勝した[15]。2006-07シーズンのUEFAカップでは1回戦でギリシャのアトロミトスFCを倒し、グループリーグでは5クラブ中2位で決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメントではルーマニアのFCステアウア・ブカレスト、ウクライナのFCシャフタール・ドネツク、イングランドのトッテナム・ホットスパーFC、スペインのCAオサスナを下し、2シーズン連続で決勝に進出した。FCシャフタール・ドネツク戦は絶体絶命であったが、セカンドレグの試合終了間際にゴールキーパーのパロップがヘディングシュートを決め、2試合合計で5-4と上回って勝ち抜けを決めている[16]。グラスゴーで行われた決勝ではスペインのRCDエスパニョールと対戦し、PK戦の末に勝利して大会2連覇を果たした[17]。2連覇を果たしたのはレアル・マドリード(1984-85シーズンと1985-86シーズンに優勝)以来2クラブ目であった。同シーズンのコパ・デル・レイでも決勝に進出し、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われた決勝のヘタフェCF戦 (1-0) ではカヌーテが決勝点を決めて4度目のタイトルを獲得した。リーグ戦ではレアル・マドリードやFCバルセロナと最終節まで優勝争いを繰り広げ、最終的には3位に終わったものの、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。 2007-08シーズン2007年8月、スーペルコパ・デ・エスパーニャでリーグ王者のレアル・マドリードに勝利した。ホームでの1stレグはL・ファビアーノの得点を守りきって1-0で勝利し、アウェーでの2ndレグではレナトの2得点、カヌーテの3得点で5-3と乱打戦を制した。2試合合計6-3で勝利し、2005-06シーズン以来5個目のタイトルを獲得した。8月25日、リーグ開幕戦のヘタフェCF戦の試合中にプエルタが意識を失って倒れた。DFイヴィツァ・ドラグティノヴィッチやパロップ、メディカルスタッフが駆け寄り、プエルタが舌を詰まらせないようにすると、彼は息を吹き返して途中交代した。しかしその後、控室で再び倒れて病院に運ばれたが、3日後の28日に帰らぬ人となった。8月31日のUEFAスーパーカップではセビージャFC、ACミランの選手すべてがプエルタの顔をデザインしたシャツを着てプエルタの死を忍んだ。この試合はACミランが3-1で勝利したが[18]、悲しみに耐えるセビージャFCを尊重してACミランの選手たちはゴール後も歓声を上げず、ACミランの勝利はプエルタに捧げられた。セビージャFCはプエルタの背番号16番を永久欠番にする予定だったが、スペインサッカー連盟 (REEF) の規則で1から25までの背番号は登録選手に割り当てなければならなかったことから、プエルタの親友であったダビド・プリエトが背番号16番を受け継いだ。2007-08シーズンのすべてのリーグ戦で試合前に1分間の黙祷をささげ、すべてのホーム戦では背番号と同じ16分に拍手が捧げられた[19][20]。2009-10シーズンよりディエゴ・カペルが背番号16を受け継ぎ、2011-12シーズンはホセ・カンパーニャが着けている。 10月26日にはファンデ・ラモス監督が突然辞任し、3600万ユーロという高額の報酬でイングランドのトッテナム・ホットスパーFCに引き抜かれた。フィットネスコーチのマルコス・アルバレスも辞任し、リザーブチームのセビージャ・アトレティコを率いていたマヌエル・ヒメネスがトップチームの監督に就任した[21]。 2009-10シーズン2009-10シーズンのコパ・デル・レイではラウンド16でFCバルセロナ(2-2、アウェイゴールの差で勝利)、準々決勝でデポルティーボ・ラ・コルーニャ(3-1)、準決勝でヘタフェCF (2-1) を破って決勝に進出した。アトレティコ・マドリードとの対戦となった決勝はMFディエゴ・カペルとMFヘスス・ナバスの得点で2-0で勝利し、3シーズンぶり5度目の優勝を飾った。ジョゼップ・グアルディオラ監督率いるFCバルセロナは2008-09シーズンにコパ・デル・レイ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズリーグの3冠を達成し、2009-10シーズンにはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、FIFAクラブワールドカップの2冠を達成しており、グアルディオラ就任後初めてタイトルを獲得できなかったのがセビージャFCに敗れたコパ・デル・レイであった。 2010-11シーズン2010年8月にはスーペルコパ・デ・エスパーニャでFCバルセロナと対戦した。1stレグは3-1で勝利したが、2ndレグは0-4で敗れ、2度目のスーペルコパ制覇はならなかった。 2013-14シーズン2013年夏にはステファーヌ・エムビアやマルコ・マリンなどをレンタルで獲得した。UEFAヨーロッパリーグでは、予選3回戦から決勝まで勝ち上がった。その決勝では、SLベンフィカをPK戦で破り、7年ぶりの欧州タイトルを獲得した。 2014-15シーズンFCバルセロナへと移籍したイヴァン・ラキティッチの後釜としてグジェゴシュ・クリホビアクを獲得したのを皮切りに、他にもエベル・バネガ、アレイクス・ビダル、ジェラール・デウロフェウ、デニス・スアレスらを獲得した。UEFAヨーロッパリーグでは、2年連続の欧州タイトルを獲得した。 2015-16シーズンACミランにエースであるカルロス・バッカを、バルセロナにアレイクス・ビダルを引き抜かれた。しかし移籍市場では積極的に動きアディル・ラミやチーロ・インモービレ、フェルナンド・ジョレンテ、イェウヘン・コノプリャーンカといった実力者を獲得した。リーグ戦ではアウェイゲームで1つも勝てないという記録を作ったが、UEFAヨーロッパリーグでは、3年連続の欧州タイトルを獲得した。シーズン終了後、ウナイ・エメリ監督が退任。後任はホルヘ・サンパオリ。 2016-17シーズンルシアーノ・ビエット、サルヴァトーレ・シリグ、ガンソ、清武弘嗣、ホアキン・コレア、ウィサム・ベン・イェデル、フランコ・バスケスを補強。また、移籍期間最終日にサミル・ナスリの補強に成功した。リーグ戦はレアル・マドリードとFCバルセロナ、アトレティコ・マドリードと上位争いをくり広げた。UEFAチャンピオンズリーグでは決勝トーナメントに進出するも、1回戦でレスター・シティに2戦合計2-3で敗れた。 2017-18シーズン夏の移籍市場では、エベル・バネガ、セバスティアン・コルシア、ルイス・ムリエルを獲得した一方、ビトーロをアトレティコ・マドリードに、ビセンテ・イボーラをレスター・シティに、アディル・ラミをオリンピック・マルセイユに、マリアーノをガラタサライSKに売却した。 2018-19シーズン夏の移籍市場でトマーシュ・ヴァツリークやイブラヒム・アマドゥ、マキシム・ゴナロンらを獲得。シーズン前半戦は、パブロ・マチン監督が好む3-5-2による攻撃的なサッカーが機能し、11月の終わりには首位に輝くなど良好なシーズンを送っていたが、アンカーを務めていたエベル・バネガの疲労とともにチームも失速し始め、年明けの2月には4試合未勝利といった状態に陥った。3月初めのレアル・ソシエダ戦後にマチンを解任し、後任にホアキン・カパロスを据えた。カパロス就任以降は守備的な振る舞いに切り替えたが、得点源だったウィサム・ベン・イェデルの不調もあって復調の兆しは見られず、シーズン6位という結果に終わった。また、3月にはSDのモンチが復帰した。 クラブ情報組織クラブは株式を保持するサポーターに所有されている。スペインでも屈指の充実した下部組織を擁することで知られ、2000年代だけでもホセ・アントニオ・レジェス、セルヒオ・ラモス、ヘスス・ナバス、アントニオ・プエルタ、ディエゴ・カペルなどのスペイン代表選手を輩出した。スペインのサッカークラブで初めてセビージャFCラジオという自前のラジオ局を開設しており、さらにSFC TVという自前のテレビチャンネルも持っている。 スカウト敏腕SDであるモンチを中心に低コストで選手を獲得し、ビッグクラブに高額な移籍金で売却することで収益を得るという手法を用いてきた。代表的なケースにカルロス・バッカ(ミラン)、グジェゴシュ・クリホビアク(PSG)、ジョフレイ・コンドグビア(ASモナコ)、ケヴィン・ガメイロ(アトレティコ・マドリード)、フェデリコ・ファシオ(トッテナム)、アルバロ・ネグレド(マンチェスター・シティ)、ビセンテ・イボーラ(レスター・シティ)、ビトーロ(アトレティコ・マドリード)などがある。中でもFCバルセロナは最も多くの選手を売却してきた、いわゆる"お得意様"として有名であり、過去にダニエウ・アウヴェス、アドリアーノ・コレイア、セイドゥ・ケイタ、イヴァン・ラキティッチ、アレイクス・ビダル、ジュール・クンデらを売却している。下部組織も優秀でビッグクラブに移籍した例としてセルヒオ・ラモス(レアル・マドリード)、ホセ・アントニオ・レジェス(アーセナル)、ヘスス・ナバス(マンチェスター・シティ)、アルベルト・モレノ(リヴァプールFC)がある。 スタジアムセビージャFCのホームスタジアムはかつての会長であるラモン・サンチェス・ピスフアンから名付けられている。セビージャ市の東部にあるネルビオン地区に位置しており、45,500人を収容する。1958年9月7日にレアル・ハエンとの間で初試合が行われた[22]。スペインで開催された1982 FIFAワールドカップでは、グループリーグのブラジル対ソビエト連邦戦、準決勝の西ドイツ対フランス戦の2試合が行われた[22]。1986年にはUEFAチャンピオンズカップ決勝のFCステアウア・ブカレスト対FCバルセロナ戦が行われた[22]。1974年の70,000人を最高として、何回か収容人数の削減が行われているが、1990年代の全席固定席化完了によって、現在は45,500人収容のスタジアムとなっている[22]。 ユニフォーム伝統的にホームでは赤い縞模様を袖に入れた白いシャツと黒いソックスを着用し、アウェーでは白い縞模様を袖に入れた赤いシャツを着用する。現在のユニフォームはナイキによって製造されている。 サポーター集団スタジアムの北側に陣取るビリス (Biris) と呼ばれるサポーター集団がある。本名・アルハジ・モルモド・ニジェ (Alhaji Momodo Njie)選手の愛称ビリ=ビリ (Biri-Biri) に由来している[23]。アルハジは激しさと気まぐれさが特徴のガンビア出身の選手で、黒人にもかかわらずセビージャFCのサポーターにとても人気があった。彼らはスペイン最古のサポーター集団でもある。しかし2012年7月、デル・ニド会長はビリスのサンチェス・ピスファンからの追放を決定した[24]。近年相次いでいた乱闘や暴力行為に対する処分と見られ、現在はチケット購入やスタジアム入場の際に多くの規制を設けている。これに対しビリスは今回の決定とデル・ニド会長を批判、2012-13シーズンの開幕戦ではスタジアムの外から応援することでクラブへの抗議を示した。 下部組織・提携クラブリザーブチームとしてセビージャ・アトレティコがあり、2011-12シーズンはセグンダ・ディビシオンB(3部)に所属している。プエルトリコにはセビージャFCという同名のクラブが本体の傘下に置かれている。 ライバル→詳細は「セビージャ・ダービー」を参照
タイトル国内タイトル
国際タイトル
過去の成績
欧州の成績UEFAチャンピオンズカップ / UEFAチャンピオンズリーグ
UEFAカップ / UEFAヨーロッパリーグ
UEFAカップウィナーズカップ
インターシティーズ・フェアーズカップ
個人記録
最多試合出場
最多得点
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。 登録外選手注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
リザーブチーム→詳細は「セビージャ・アトレティコ」を参照
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
レンタル選手in 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
out 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
スタッフ
歴代監督→詳細は「Category:セビージャFCの監督」を参照
歴代所属選手→詳細は「セビージャFCの選手一覧」を参照
脚注
外部リンク
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