グレッグ・バレンタイン
グレッグ・バレンタイン(Greg Valentine、本名:Jonathan Anthony Wisniski、1951年9月20日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州シアトル出身。 「金髪の妖鬼」の異名で呼ばれたジョニー・バレンタインの息子で、父親譲りの強烈なエルボー攻撃から、ザ・ハンマー(The Hammer)のニックネームを持つ[1]。 父親と比べると小柄ではあったが、ヒールのメインイベンターとしてNWAの主要テリトリーやWWF(現:WWE)などのメジャー団体で実績を築いた[2]。 来歴学生時代にアルバイトとしてリングに上がった経験を持つ[2]。1970年にカルガリーでスチュ・ハートの門下生となり本格的にプロレスを学び、同年7月にアンジェロ・モスカを相手にデビュー(5分ほどで敗退)。その後ザ・シークの元でもトレーニングを受けている。 若手時代はベビーフェイス・ネルソン(Baby Face Nelson)やジョニー・ファーゴ(Johnny Fargo)などのリングネームを名乗り、AWA傘下のローカル・エリアやNWF、テキサスのアマリロ地区などで試合をしていた。NWFではドン・ファーゴとのファビュラス・ファーゴズ(The Fabulous Fargos)として[1]、1972年5月11日にドミニク・デヌーチ&トニー・パリシのイタリアン・コネクションからNWF世界タッグ王座を奪取している[3]。 1974年からエディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区に移り、当初はジョニー・バレンタイン・ジュニア(Johnny Valentine, Jr.)、後にグレッグ・バレンタイン(Greg Valentine)の名前で活動する。当時、父親のジョニー・バレンタインはまだ現役選手として第一線で活躍しており、父の意向から息子ではなく「弟」と称していた(息子がデビューするほどの年齢であることが公になると、自分の商品価値が下がってしまうとジョニーが懸念したため[4])。 1975年2月14日、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでエドワード・カーペンティアからNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取して注目を浴び[2]、4月25日には当時ジャック・ブリスコの保持していたNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した[5]。 同年10月、父ジョニーやリック・フレアーが乗ったセスナ機が墜落するという事故が起きる。この時の怪我でジョニーは引退[6]。この事故後にグレッグはジョニー・バレンタインの息子であるということを公表し、1976年よりジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区を主戦場とする[1]。父のパートナーでもあったフレアーとの金髪コンビで同地区認定のタッグ王座を何度となく獲得し、次代を担うヒールとして期待された[4]。 1978年12月より、ビンス・マクマホン・シニア時代のWWFに登場。1979年2月19日と3月26日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に連続挑戦(初戦では60分時間切れ引き分け)[7]、メインイベンターの地位を確立した[4]。1983年まではWWFとNWAを行き来しながら試合をしており、NWAではフレアーやワフー・マクダニエル、ロディ・パイパー、ディック・スレーターらと抗争を展開し、USヘビー級王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を3回に渡って獲得するなどトップ戦線で活躍した[8]。 1984年より、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始していたWWFに定着[9]。ジミー・ハートをマネージャーに、ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦する一方、ティト・サンタナとインターコンチネンタル・ヘビー級王座を巡り名勝負を繰り広げる(1984年9月24日にサンタナを破り王座を獲得後、ジミー・スヌーカ、ジャンクヤード・ドッグ、イワン・プトスキー、トニー・アトラス、サージェント・スローター、リッキー・スティムボート、バリー・ウインダムらの挑戦を退け、翌年7月6日にサンタナに奪還されるまで戴冠していた)[10]。 1985年からはジョニー・バリアントをマネージャーに迎え、ブルータス・ビーフケーキとのドリーム・チーム(The Dream Team)で活動[1]。8月24日にウインダム&マイク・ロトンドのUSエクスプレスからWWF世界タッグ王座を奪取し、1986年4月7日のレッスルマニア2において、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスに敗れるまで戴冠した[11]。ビーフケーキとの仲間割れ後はディノ・ブラボーを新パートナーにドリーム・チームを再編している[1]。バリアントのWWF離脱後は再びハートがマネージャーとなり、1988年3月27日のレッスルマニアIVでは、空位となっていたWWF世界ヘビー級王座の新王者決定トーナメントに出場。1回戦ではNWA時代からの宿敵スティムボートを破ったが、2回戦でランディ・サベージに敗退した[12]。1989年にはホンキー・トンク・マンとリズム&ブルース(Rhythm and Blues)を結成し、ブレット・ハート&ジム・ナイドハートのハート・ファウンデーションなどと抗争した[1]。 1991年のWWF離脱後はWCWに参戦。1992年2月17日、テリー・テイラーと組んでロン・シモンズ&ビッグ・ジョッシュからUSタッグ王座を奪取している[13]。プエルトリコのWWCにも参戦して、1993年8月8日にトーナメント決勝でインベーダー1号を破り、前王者カルロス・コロンの引退で空位となっていたユニバーサル・ヘビー級王座を獲得した[14]。 セミリタイア後の2000年代もインディー団体への出場を続け、2004年にWWE殿堂に迎えられた(インダクターはジミー・ハート)[1]。2008年3月31日には、WWE・RAWにて行われたフレアーの引退セレモニーに出席した[15]。 日本での活動1975年5月、新日本プロレスの『ゴールデン・ファイト・シリーズ』に初来日[2]。アントニオ猪木、坂口征二、ストロング小林とシングルマッチで対戦し[16]、特別参加したアンドレ・ザ・ジャイアントやタイガー・ジェット・シンのパートナーにも起用された[17]。以降も新日本には度々参戦して、再来日時の同年12月4日にはイワン・コロフと組んで猪木&坂口の北米タッグ王座に挑戦[18]。同王座には1979年11月16日にも、マサ斎藤とのコンビで新王者チームの坂口&長州力に挑戦している[19]。同年12月4日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が保持していたWWFジュニアヘビー級王座に体重を減らして挑戦、好勝負を展開した[20]。 1984年9月にはWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王者として新日本プロレスの『ブラディ・ファイト・シリーズ』後半戦に特別参加[21]。シリーズ最終戦となる9月20日の大阪府立体育館大会では、ノンタイトル戦ながら当時WWFインターナショナル・ヘビー級王者であった藤波とのインター王者同士の対戦が実現している(結果は逆さ押さえ込みで藤波の勝利)[22]。 1990年代は日米レスリングサミットやSWS、バトラーツ、初期の大日本プロレスなどにも来日しており、1990年4月13日の日米レスリングサミットではザ・グレート・カブキとシングルマッチで対戦した[23]。 得意技獲得タイトル
マネージャー
脚注
外部リンク |