ケリー・フォン・エリック
ケリー・フォン・エリック(Kerry Von Erich、本名:Kerry Gene Adkisson、1960年2月3日 - 1993年2月18日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身。鉄の爪フリッツ・フォン・エリックの息子(四男。レスラーのフォン・エリック兄弟としては三男)。 WWF(現:WWE)ではテキサス・トルネード(The Texas Tornado)のニックネームでも活躍した。日本では「虎の爪」の異名を持つ。 娘のレイシー・フォン・エリックも女子プロレスラーとして、2007年から2010年にかけてFCWやTNAなどで活動していた[1]。 来歴血筋を背負い1979年にプロレスラーとしてデビュー。父が主宰する地元ダラスのWCCW(World Class Championship Wrestling)を主戦場に、ベテランのアーニー・ラッド、マーク・ルーイン、ザ・グレート・カブキらに揉まれてキャリアを積み、同世代のジノ・ヘルナンデス、キングコング・バンディ、ファビュラス・フリーバーズらとの抗争を通し次代のスター候補として期待を寄せられる。 1983年1月23日、ミズーリ州セントルイスでハーリー・レイスを破り、NWA世界王者への登竜門とされたミズーリ・ヘビー級王座を獲得[2]。同年3月には全日本プロレスに初来日[3]。4月4日に鶴岡にて石川敬士、4月7日に宮城県スポーツセンターにて天龍源一郎を相手に、ミズーリ王座の防衛戦を行っている[3][4]。シリーズ中は同時参戦していたテッド・デビアスとも度々タッグを組み、テリー・ファンクを交えたトリオも実現した[4]。 1984年5月6日、テキサス・スタジアムでの兄デビッド・フォン・エリックの追悼興行においてリック・フレアーを破り、第67代NWA世界ヘビー級王者となる[5]。同月、王者として全日本プロレスに再来日[6]。5月22日に田園コロシアムでジャンボ鶴田の挑戦を退けるが、5月24日に横須賀市総合体育会館で前王者フレアーに敗れ、王座から陥落した(NWA世界王者時代の挑戦者は、テリー・ゴディ、フレアー、マイク・ロトンド、スーパースター・ビリー・グラハム、ロン・バス、ブラック・バート、鶴田の7名)[7]。 1985年10月からはブルーザー・ブロディの仲介で新日本プロレスに来日するようになり(ブロディも同年4月より全日本から新日本へ移籍)、兄のケビン・フォン・エリックと組んで藤波辰巳&木村健吾のWWFインターナショナル・タッグ王座に挑戦している[8]。翌年には前田日明とのシングルマッチも行われた[9][10]。 1986年6月、オートバイ事故を起こし右足を切断する重傷を負う[11]。一時は再起不能とされたが、義足を付けて1987年に奇跡的にカムバックを果たした(しかし、この事故により傷の痛みや幻肢痛に悩まされ、それを紛らわすために薬物を使用し、ペインキラー依存症となる)。切断の件はレスラー仲間にも口外せず、義足を隠すためにブーツを履いたままシャワーを浴びていたという[11]。 カムバック後の1988年には本拠地のWCCWにおいて、NWAアメリカン・ヘビー級王座の後継タイトルであるWCWA世界ヘビー級王座を獲得[12]。以降、当時のAWA世界ヘビー級王者ジェリー・ローラーと、王座統一を賭けた「テキサス対テネシー」の抗争を繰り広げた[13]。タイトルは勝者ローラーによって統一され、1989年よりUSWA統一世界ヘビー級王座と改称[14]。WCCWもローラーとジェリー・ジャレットが主宰していたテネシーCWAとの合併でUSWAとして再出発するが、1990年9月に興行収益を巡るトラブルでテネシー派と袂を分かつ。 ケリーもUSWAを離れ、1990年夏よりWWFに参戦。8月27日のサマースラムではミスター・パーフェクトからインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取した[15][16]。WCCWでの盟友でもあったアルティメット・ウォリアーともタッグを組み、同年11月22日開催のサバイバー・シリーズではウォリアー&リージョン・オブ・ドゥームと "The Warriors" を結成して出場、ミスター・パーフェクト&デモリッション(アックス、スマッシュ、クラッシュ)と対戦した[17]。1991年3月24日にはレッスルマニアVIIにおいてディノ・ブラボーから勝利を収めている[18]。同年3月と12月には当時WWFと提携していたSWSの東京ドーム大会に出場[19]、翌年7月にはWARの旗揚げ興行に参戦した[20]。WWFには1992年8月まで所属し、退団後はテキサスのインディー団体を転戦した。 1993年、コカインの使用により起訴される。他のドラッグ使用による執行猶予中だったこともあり、2月18日に実刑を伴う有罪が確定。同日、自宅において(当所では有罪が確定した人物には1日の執行猶予が与えられる)ピストルにより自らの命を絶った[21][22]。 2007年、遺児である娘レイシー・フォン・エリックがWWEと育成契約を結び、傘下のFCWで女子プロレスラーとしてデビュー。2009年から2010年まではTNAに参戦した[1]。 2009年4月、フォン・エリック・ファミリーの一員として、父のフリッツ、兄のケビン&デビッド、弟のマイク&クリスと共にWWE殿堂に迎えられた[23]。 得意技獲得タイトル
フォン・エリック・ファミリー→詳細は「フォン・エリック・ファミリー」を参照
脚注
外部リンク
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