高松松平家
高松松平家(たかまつまつだいらけ)は、水戸徳川家の庶流の武家・華族だった家。水戸藩初代徳川頼房の子松平頼重を家祖とし、江戸時代には親藩(連枝)大名の讃岐国高松藩主家として続き、明治維新後には伯爵家に列した[1]。 歴史江戸時代松平頼重は水戸藩主徳川頼房の長男として生まれたが、頼房の兄である尾張藩主徳川義直と紀州藩主徳川頼宣に当時男子がなかったため、公にされず家臣によって養育された。そのため三男で同母弟の徳川光圀が嫡男となり、家督を継ぐことになった。 頼重は寛永16年(1639年)に常陸国下館藩5万石に封じられ、ついで寛永19年(1642年)に7万石が加増されて讃岐国高松藩12万石に転封された[2]。頼重は弟の光圀と嗣子を交換し、光圀の長男頼常を養子として高松藩を継がせた[2]。 以降、松平家高松藩は廃藩置県まで続いた[3]。歴代当主の官位は正四位下・権中将を極官とし[4]、江戸城での伺候席は彦根井伊家・会津松平家と共に代々の黒書院溜之間であった。溜之間は最も将軍の執務空間である「奥」に近く、将軍の政治顧問を務める家の伺候席であり[5]、御三家連枝の中でも特別な家格を有していた。 天保の飢饉では坂出村で百姓一揆が起きた。 明治以降![]() ![]() ![]() 最後の藩主松平頼聰は、明治元年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方について朝敵となったが、家老を処分し、頼聰も謹慎して恭順の意を示したことにより、4月15日に官位に復することが許された[6]。その後、明治2年(1869年)6月17日の版籍奉還により高松藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで知藩事を務めた[6]。 明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、高松松平家も大名として華族に列した[7][8]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で1万576石[9]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は30万1933円22銭(華族受給者中21位)だった[10]。本家の水戸徳川家(18万6276円96銭。華族受給者中33位)よりも多額の金禄公債を得ている[11]。 明治前期の頼聰の住居は東京府本郷区本郷元町にあり、当時の家扶は辻盛令、岸湛、板倉寛、白井清であった[12]。 明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、旧中藩知事[注 1]として、頼聰が伯爵に叙せられた[14]。 高松松平伯爵家は、日本有数の大富豪華族だった。明治31年(1898年)時の高額所得者ランキングにおいて、年間所得12万5856円で第10位にランクインしている(旧武家華族で同家より上位なのは前田侯爵家・島津公爵家・毛利公爵家・紀州徳川侯爵家の4家のみだった)[15]。 頼聰の八男である12代・頼寿は、30年以上貴族院の伯爵議員を務め、伯爵としては異例の貴族院議長に就いた[16]。また、頼寿は文化・教育事業にも力を注ぎ、日本文化協会会長[17]、大東文化学院総長[17]、旧制本郷中学校(現・本郷中学校・高等学校)初代学校長[18]、恩賜財団軍人援護会顧問[17]、日本競馬会理事長[17]、帝国競馬協会副総裁[17]などを歴任した。 頼寿には嫡出子がなかったため、同母弟胖の長男・頼明が頼寿の養子となった。戦後、頼明は本郷中学校・高等学校第4代校長として長く在職したほか、ボーイスカウトの活動に貢献しブロンズ・ウルフ章を受章している[19]。 頼明の妹・誠子は廣橋眞光伯爵の養妹となった後に、李王家の公である李鍵公と結婚した(後に佳子と改名)。戦後、李鍵は日本に帰化して桃山虔一と名乗り、結局経済的苦境から離婚に至った[20]。 高松松平伯爵家の邸宅は、昭和前期に東京市豊島区駒込町に所在した[21]。 高松松平家歴史資料が香川県立ミュージアム(旧香川県歴史博物館)に収蔵されている[22][23]。 歴代当主と後嗣たち水戸徳川家と同様に、歴代当主には漢風の諡号が贈られている。太字は正室所生。
系譜凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |