徳川頼房
徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。徳川家康の十一男で水戸徳川家の祖。 生涯1603年(慶長8年)8月10日、江戸幕府創始者であった初代征夷大将軍徳川家康の十一男として山城国京都の伏見城において生まれる[1]。家康60歳。母は於万。幼名は鶴千代。 1606年(慶長11年)9月23日、3歳にして常陸下妻10万石を、次いで1609年(慶長14年)12月12日、同母兄頼将(頼宣)の駿府転封によって新たに常陸水戸25万石を領したが、幼少のため父である大御所家康の許で育てられた。『南紀徳川史』では、頼房が徳川姓を許されたのは1636年(寛永13年)とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある[2]。 1610年(慶長15年)7月、家康の命により、実子市姫を亡くした於勝(英勝院)の養子となる。1611年(慶長16年)に元服、頼宣と同様に清和源氏の通字の一つ「頼」の字を用いて頼房と名乗った。1614年(慶長19年)、大坂の陣では駿府城を守備した。 家康の死後、駿府から江戸に移ったのちもしばらく水戸藩領には赴かず、1619年(元和5年)10月、17歳のとき初めて就藩した。しかし2か月後の12月に江戸へ帰り、次の就藩は1625年(寛永2年)である。江戸と領地を往復している異母兄義直や頼宣と異なり、青年時代のほとんどを江戸で過ごした。これは異母兄である将軍秀忠が、頼房の1歳下の将軍世嗣家光の年齢の近い身内として、学友的な立場に置いておこうとしたためという説がある。一方で『水戸紀年』には、若年の頃の頼房が異様な衣服や刀を纏い、行儀や節度のない振る舞いがあり、幕府が附家老中山信吉を呼んで譴責を加えようとしたので、信吉が命を懸けて諌言し改めたという話が残っている。 1626年(寛永3年)8月19日、従三位権中納言(のちに正三位)に叙任する。これ以後、同家は権中納言を極官とした。 1625年(寛永2年)から1630年(寛永7年)まで、寛永3年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町造営、さまざまな法令を定め、城下の整備を行った。しかし1631年(寛永8年)、秀忠が病となり(翌年1月死去)、家光の親政となると、頼房の就藩は途切れがちになり、家光死去の1651年(慶安4年)までの17年間、就藩はわずか3回となっている。このことが先例となり、水戸藩主は基本的に江戸常住である定府となった。 1630年(寛永10年)6月、家光が英勝院を通じて、「其方之御事は別而心安思候まま心中をのこさす万談合申事に候、兄弟有之候而もやくにたたす候間、此上は其方を兄弟同前に思候まま、弥万事其心得可有候(そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい)」との書状を送っている(徳川ミュージアム所蔵)。当時、家光の弟は2人いたが、同母弟忠長は改易となり高崎に幽閉中であり、異母弟保科正之は養子先の高遠藩3万石を継いでまだ2年目であった。一方、義直や頼宣には、かつて謀反の疑いがかけられるなど溝があった。こうしたことから、家光は頼房を頼りになる身内として江戸に常住させたようである。水戸家を俗に“副将軍”と称する論拠となった。 1661年(寛文元年)、水戸に就藩中に病となり、水戸城にて死去した。享年59(満57歳没)。 官職及び位階等の履歴※日付=旧暦
就藩下妻藩…就藩なし 水戸藩…計11回。
逸話
系譜
登場作品脚注参考文献
関連項目 |