尾張藩尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)、近江、幕末には伊勢の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。 歴史藩の前史→「清洲藩」も参照
尾張は慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。 藩史関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。慶長11年(1606年)、家康の直轄領であった知多郡(知多半島)も忠吉に加増される。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。 代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、ここに尾張藩が成立した。 藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を示すため、給人領(渡辺半蔵はじめ16家1党に将軍の朱印状をもって与えられた知行地)5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。 領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃(木曽郡のヒノキ御用林)・近江・摂津と広範囲に跨って飛地が存在した。 中でも木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。また、表高こそ62万石弱であったが、新田開発を推し進めた結果、実高は100万石近くに達したといわれる。 財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。 三河(加茂郡)や近江(蒲生郡)、摂津(川辺郡)にあったのは、すべて給人領である。 尾張藩は百姓一揆が、水戸(35件)[1]や紀伊(30件)[2]に比べ少なかった藩とされている。江戸時代を通じて尾張国内で21件の一揆が記録されている[3][4][5]。 勝海舟は、『氷川清話』(明治31年、1898年)の中で「日本国中で、古来民政のよく行き届いたところは、まず甲州と尾州と小田原との三ヶ所」であるとし、尾張(尾州)については、「租税を軽うし、民力を養った」「織田信長の遺徳がいまだ人民に慕われている」「当時の善政良法が、今なお歴々として残っている」としている。 初代初代藩主・徳川義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。 二代目第2代藩主・徳川光友は寺社政策に尽力したが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札発行するも失敗して藩財政が苦しくなった。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行なって藩財政を黒字にさせたりもしたが、天災なども相次いで藩財政は結局は悪化した。 三代目第3代藩主徳川綱誠は、実母の千代姫が3代将軍徳川家光の長女であった。それゆえ、御家門の中でも最も将軍家に近い存在であった。異母兄松平義昌は陸奥梁川藩3万石を得て大窪松平家として独立、同母弟松平義行は美濃高須藩3万石を得て四谷松平家として独立、異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田窪松平家を称し、三つの分家御連枝ができあがる。 四代目・五代目第4代藩主・徳川吉通は、第6代将軍徳川家宣から高く評価され、家宣の子鍋松(後の徳川家継)が幼く政務に耐えられないと判断し、第7代将軍に就任するように要請されるほどの人格者[6]であったが、家宣薨去1年後に25歳と言う若さで急死してしまう。 第5代藩主は、幼い徳川五郎太が継ぐも、数え年3歳で急死してしまい、家督は叔父である徳川継友が継承。 六代目第6代藩主・徳川継友は第7代将軍・徳川家継が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者であった。第6代将軍御台所の天英院の姪の近衛安己を婚約者に持ち、祖母が第3代将軍家光の長女であり、将軍家に最も近い存在であったからである。 しかし、同じ御三家の紀州藩主・徳川吉宗が将軍に就任した。その後、尾張徳川家は御三家で唯一、血統上で将軍を輩出することなく明治維新を迎えることとなる。[注 1]第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と述べており、尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたためである[6]。 七代目歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。仏教思想の法治政策として藩主時代は死刑禁止政策や罪人への寛容主義や性犯罪予防の夜間照明の女性保護政策がある。宗春は倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判した。名古屋東照宮祭りを盛大して尾張藩内での高麗人参の栽培や名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可するなど、規制緩和政策を推進した。 これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであった[7]。 享保20年(1735年)に入ると幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出す。また、翌年の元文元年に行われた幕府の元文の改鋳によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開した。しかし、幕府より一手先を行く宗春の政策は幕閣に警戒感を与えてしまっていた。 丁度その頃は、幕府は朝廷が禁じた『大日本史』の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていた。 元文3年(1738年)朝廷が、反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになる。宗春と御付家老成瀬正泰が参勤交代で江戸に下向すると、もう一人の御付家老竹腰正武が、名古屋で宗春の政策をことごとく否定していた。そのために尾張藩内は少なからず騒乱状態となる。 翌年の元文4年(1739年)に、大嘗会に使いに出ていた使者が江戸に戻り将軍吉宗に報告すると、吉宗は病と称し引きこもってしまう。 そして数日後、吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処した。その日に、吉宗は朝廷の中心であった一条兼香に多額の献金をし、宗春の甥である二条宗基に諱の「宗」の字を与え、朝廷対策を打った[8]。 尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、「王命に依って催さるる事」[9]とされていた。 朝廷は宗春を高く評価しており[10]、宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなってしまった。 八代目宗春の後を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。 九代目第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、その治世は38年間におよんだ。 一時期は財政が好転したこともあったが、宝暦治水にもかかわらず庄内川の氾濫など、天災による被害を受けて財政が結局は悪化した。市中の富商56人から金5000両を調達し、幕府に2万両の公金拝借を願い出た。以後、財政難によりこの金策は繰り返されていくこととなる。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には藩校・明倫堂が創設されている。 軍制改革も実施され、寛政5年には幕府の「海軍防備令」に即応した知多半島の防備を再編成し、上方の変事に対応する計画を策定した。更にこの作戦に応じた歩兵銃砲主体の編成を大番組・寄合組・馬廻り組を拡充させた。寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去した。宗睦の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の男系の血統は藩主家から断絶した。 十代目代わって寛政12年(1800年)1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。 斉朝は、尾張藩第4代藩主徳川吉通の外孫である二条宗基の曾孫にあたり尾張徳川家の血を受け継いでいた。しかし、ここで尾張の男系血統は藩祖義直から断絶する[11]。 十一代目~十三代目第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは、第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった(いずれも紀州藩主から将軍となった徳川吉宗の血統の一橋家の血筋)。 彼らは寿命や在任期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。慶臧の継承により、尾張藩は幕府への財政依存が更に高まり、嘉永元年に米切手(藩札)の回収を条件に10万両が幕府から貸与されている。 このため、藩内では幕府迎合的で御三卿・徳川将軍家などからの養子を藩主に迎えて財政支援を期待する付家老などの江戸派に反対して、幕府からの藩政介入に反発し独立志向の金鉄党(尾張派、寛政軍革により拡充された大番組を中心として結成)を中心に藩主擁立運動が起こった。結局、将軍家御三卿系の養子は阻止された。 十四代目~十六代目支藩美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕(後の慶勝、血統としては水戸系)は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。 しかし安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ登城を行ったことなどにより、直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。 だが、直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は第二次長州征伐の総督にも任命されたが、辞退している。 明治時代
大政奉還後に慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議で決定された辞官納地を慶喜に求める使者となっている。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いによって新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝も新政府側につき、藩内の佐幕派は青松葉事件によって弾圧された。 鳥羽・伏見の戦いの後に明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主徳川慶勝は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩、代官、旗本、それと勤王側の在野の国学グループへ勤王誘引使を送り中立化へ動かして新政府軍の東海道通過を容易にした。 明治3年(1870年)には財政難に陥った支藩の高須藩を吸収。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩し、名古屋県となった。その後、犬山県との統合、愛知県への改称、額田県との統合を経て、現在の愛知県となった。 廃藩置県後の、尾張徳川家の家政機関については、尾張徳川家#尾張徳川侯爵家を参照のこと。 歴代藩主一覧徳川家(尾張徳川家)
藩校
支藩・御連枝梁川松平家(大窪松平家)
江戸上屋敷を四谷大窪に置いた。 高須松平家(四谷松平家)
川田窪松平家
家臣団江戸下屋敷 尾張藩の家臣団は、幕府より附属された者、甚太郎衆や忍新参衆などの松平忠吉の遺臣、甲斐時代に義直に仕えた者、尾張藩成立後に取り立てられた者、平岩親吉の遺臣らで構成された。幕下御附属衆の6氏(成瀬、竹腰、渡辺、石河、山村、千村)は将軍徳川家康または将軍徳川秀忠の命によって尾張藩に附属され、代々将軍に拝謁する資格を所持した家柄だった。御附属列衆も幕臣から尾張藩に附属された者であるが、こちらは将軍への拝謁資格はなかった。 幕下御附属衆このうち成瀬・竹腰の2家が狭義の御附家老で、「両家年寄」と称する。
分家
重臣
江戸屋敷尾張藩は江戸に総坪数は31万1000坪余にもなる屋敷を所持し、諸大名のなかで最大規模を誇っていた。
京藩邸当初は天神山町(四条烏丸北西)にあった。しかし禁門の変で罹災したことでメインの藩邸として吉田邸が整備されることとなり、尾張藩は、文久3年(1863年)10 月頃に、屋敷を設けるための土地を吉田村に購入した。それ以降、主殿をはじめとする諸施設が徐々に営れ、京都における同藩の拠点として重要な役割を担うに至った。愛知県公文書館に架蔵される「吉田御屋敷之図」には、「三万三千三百三十三坪」と書きこまれており、尾張藩の吉田邸の面積が確かめられる。吉田邸は、明治4年(1871年)に処分され、京都大学吉田キャンパスの敷地となった。これまでにおこなわれた京都大学本部構内における発掘調査で、尾張藩吉田邸に関係するものと考えられる遺構が検出されている。邸内には熱田神宮も勧請された。 東浜御殿尾張藩は東海道を往来する大名らを招待し供応するため、寛永元年(1624年)初代藩主の徳川義直の命で神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、そこに東浜御殿を造営した。「厚覧草」によれば寛永11年(1634年)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚(ねざめ)楼と言い城郭のような構えであった。東浜御殿の位置は、現在の名古屋市熱田区内田町付近であったと推定される。 西浜御殿尾張藩は承応3年(1654年)に七里の渡しの北西に西浜御殿を築いた。現在、その跡は残っておらず、西浜御殿があった白鳥コミュニティセンター(名古屋市熱田区神戸町)北側に看板が立っているだけである。2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見された。西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたという。歌川広重の浮世絵「宮 熱田濱之鳥居」にも画面左端にその姿が描かれている。 尾張藩主の別荘
陣屋・奉行所・代官所
年貢と正保四ツ概当初、尾張藩では領内の村々の年貢を徴収するにあたり、天正年間の太閤検地で調べた石高(元高)を基準としていたが、4割以上を徴収していた村もあり、4割未満を徴収していた村もあって一定ではなかった。 正保2年(1645年)に、領内の寺社領を除き、それまで六公四民であった年貢を四公六民(尾張藩が4割を徴収し、百姓は6割を自分の収入とする)ことを定めた。これにより実収入の増加を図るために、元高の65万3千石余を、24万千石余を増やして89万4千石とした概高(ならしだか)に改め、高の40%を基準として年貢を課することにしたので、これによって尾張藩の収入は、約10万石増加した。 その際に従来4割以上徴収していた村の石高を増やし、4割未満を徴収していた村の石高は減らした。このことを正保四ツ概(しょうほうよつならし)と呼んだ。[17] これにより、尾張藩は10万石程度、実収入が増えることとなった。 藩士に対する減禄制寛文元年(1661年)9月、尾張藩は藩士に対する世禄制を改正した。つまり藩士が子孫に相続する度に、禄高を減らしていくという仕組みであった。これによって藩士は大いに困惑し、ついに衰微断絶となった家も少なくなかったという[18]。 ただし、附家老(家康より附庸の命令を受けた家老)で1万石以上の大名格である、犬山城主 成瀬隼人正=3万5千石、今尾城主 竹腰氏=2万石、駒塚城主 石河氏=2万石、三河寺部の渡辺氏=1万石、知多郡の志水氏=1万石)と、特別待遇の木曽の山村甚兵衛家、久々利村の千村平右衛門家の両氏は減禄の対象から除かれていた。 尾張藩は138年後の寛政11年(1794年)に世禄制を復活した。以後藩士は相続の際の減禄から免れることとなった。 木曽谷に対する林政改革寛文4年(1664年)6月、尾張藩は目付役の佐藤半太夫以下の役人を木曽谷に派遣し、木曽の山々の巡見を行った。 その結果、川筋の材木の伐採に適した所は全て伐り尽くされて乱伐が進んでいたことから、林政改革を行うこととなった。 この改革の眼目の一つは、木曾代官の山村甚兵衛家に一任していた木曽山林の伐木・運材の支配を尾張藩の直轄事業に移し、統制と改革を行うことであった。 それは第一に、山村甚兵衛家および木曽谷の住民に与えられていた山林利用の既得権の大幅な削減であった。具体的には、山村甚兵衛家が家康以来受けていた御免白木5千駄の原木を雑木に切り替え、木曽谷の村々へ与えていた御免白木[19]6千駄を3千駄に減らした。 統制の第二の点は、尾張藩が木曽谷の村々への民政の直接的支配強化に重点を置いたことである[20]。 改革の第二の点は、留山[21]を指定して、山林資源の保持を図ったことである。 また尾張領は御用商人による伐採を停止したり、運材の統制・管理を強化した。この施策は、山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったが、森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となった。 寛文5年(1665年)、尾張藩は、それまで山村甚兵衛家に支配を任せていた木曽川中流の錦織役所を廃止し、新たに尾張藩直轄の錦織川並材木奉行所と、牧野川並材木奉行所の両方を新設した。 寛文5年(1665年)、尾張藩は、山林管理のために上松材木役所を設置して材木奉行を派遣した。初代奉行には佐藤半太夫が任命された。奉行定員は2名で1名は、木曽川中流の美濃国可児郡錦織村に存在した尾張藩の錦織川並材木奉行を兼任した 羽書(藩札)の発行と回収寛政6年(1789年)、尾張藩は羽書(藩札)を発行し、その後、羽書の回収にあたっての課役銀(夫銀・堤銀)の倍額増徴などの財政政策を実施して、藩財政の緊縮と増収を図った。 幕末の領地
明治維新後に、美濃国中島郡2村(八神城主・毛利源内預所の旧幕府領)、北見国網走郡、斜里郡が加わった。 脚注
注釈
関連項目
外部リンク
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