島津氏
鎌倉時代から明治時代初期まで薩摩を領し、廃藩置県後、華族の公爵家となった家を宗家とする薩摩島津氏が最も有名だが、他にも多数の支流[注釈 1]がある。本項は主に、薩摩島津氏を本流とした記述である。 通字に「忠」「久」[注釈 2]。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。 概要治承・寿永の乱終結後の元暦2年/文治元年(1185年)8月、島津家の家祖島津忠久は、五摂家筆頭の近衛家領島津荘の下司職に任じられる。これに始まり、鎌倉幕府成立後には源頼朝より、三州すなわち薩摩国・大隅国・日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられた。以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定を受けるも、3ヵ国の旧領は安堵された[2]。 関ヶ原の戦いで西軍に属して敗戦したが、領地を安堵されて江戸時代には77万石という外様大名屈指の雄藩となる。幕末には長州藩毛利家とともに討幕運動の中心勢力となり、明治維新の原動力となった。明治時代、大正時代には政財界に重きをなした[2]。島津家は本家、分家、旧支藩藩主家や旧一門家臣など14家が華族に列しており(公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家)、この数は松平家(29家)に次ぐ[3]。 この薩摩島津氏の他、越前、信濃、駿河、若狭、播磨、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、播磨島津氏、江州島津氏と呼ばれている。 島津氏は、多くの大名の中でも鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。 出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2年(1185年)8月17日[4]、近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元年(1185年)11月28日、文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、讃岐香川郡の秦氏が京に移住させられて惟宗氏と名乗ったとするのが有力だが、後世に『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子と自称している。 同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している[注釈 3]。 その他の出自に係る説について忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説は信憑性に乏しく、惟宗広言の実子であるという説があるが、惟宗忠康の実子との説が有力である。 歴史鎌倉時代鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝より、元暦2年(1185年)、忠久はわずか6歳[5]で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加される。文治5年(1189年)には源頼朝率いる鎌倉幕府軍による奥州征伐では東北遠征に10歳で従軍している。忠久は鎌倉幕府内で特別な御家人であったが、建仁3年(1203年)、頼朝亡き後起こった比企能員の変に連座し一時、守護職を失うことになるが、後に薩摩・大隅・日向の守護職を回復している。 忠久の長男である島津忠時は承久の乱にて鎌倉幕府方の有力武将として相当の武功を挙げたとみられ、薩摩国・大隅国・日向国の他、若狭国守護職や伊賀国・讃岐国・和泉国・越前国・近江国など各地の地頭職も得るなど鎌倉幕府でも巨大な御家人となる。また承久の乱の際に忠時が使用した太刀は『綱切』と号されて、源氏の白旗、家祖・忠久愛用の大鎧は共に島津宗家当主が私蔵すべき家伝三種の重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は越前国守護職に補せられ、計五ヶ国を有するなど鎌倉幕府内でも筆頭守護人となる。1227年(安貞元年)、忠久の死去に伴い嫡子・忠時が島津氏2代当主の座を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして後藤氏に交替している。 忠久以降の島津氏は幕府の有力な御家人の常として当主は鎌倉に在住し、現地における実際の差配は一族・家人を派遣し、これに当たらせていたが、3代・島津久経が元寇を機に下向して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。 南北朝時代やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年(元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後、建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏が摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い(福岡県福岡市)で菊池氏ら後醍醐天皇の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代の1342年(南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。 その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に幕府に対して申状を送っている[6]。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。前述のように島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお「島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した」という史実とは異なる認識[7]を定着させることになる[8]。 貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、三男の島津師久と四男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久(奥州家)が水島の陣にて武家方である九州探題・今川貞世の少弐冬資謀殺(水島の変)に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久(総州家)もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。 しかし、共通の外敵を持つ間は固い団結を誇った島津両家も、その外敵が消え去った後は、互いが最も脅威となる存在となった。 室町時代前期・中期南北朝の内乱を分割継承という形で乗り切った両島津氏であったが、打倒すべき共通の敵を失うと、互いを脅威とみなし対立を深めた。やがて7代・島津伊久(総州家)とその嫡子・島津守久が不和となり、総州家内部で内紛が勃発すると、7代・島津元久(奥州家)がこれを調停し、恩義を感じた伊久より薩摩守護職と島津氏重代の家宝を譲られ、表面上は両島津氏は再統一された。後に室町幕府にも相続が安堵された[注釈 4]。しかし、総州家が滅亡したわけではなく、両家の対立は残ったままであった。なお、この元久の頃より守護所が鹿児島の清水城へ移り、本格的に鹿児島の街が開府した。 守護職が奥州家の元に統合された島津氏だったが、元久が嗣子無く没すると、島津一族の筆頭であった伊集院頼久が自身の子息を本家当主に据えようと画策する。これを察知した元久の弟・島津久豊は元久の位牌を奪って8代当主となった。これにより伊集院氏との対立が深まり、また伊集院氏に総州家が助勢したため、またも領国内に内紛(伊集院頼久の乱)が起こったが、最終的に久豊は伊集院氏を降し、また総州家を滅ぼすことに成功。島津氏の守護領国制を完成させた。 9代・島津忠国の代になると、島津氏は守護大名として確立し、比較的安寧な時期が続いたが、大小の内紛は散発していた。特に忠国の弟である島津用久(好久・持久・薩州家)が声望を増したため、兄弟間の対立が起こった(なお、内紛の鎮圧に失敗した忠国が家督を一旦用久に譲ったものの、その後忠国が当主への復帰を図ったとする説もある[9])。この争いは中央で6代将軍・足利義教との権力闘争に敗れた大覚寺義昭を討った忠国に幕府が味方したため、好久が降伏し、忠国の勝利に終わった。この際に忠国は好久に薩州家を立てさせ、ある程度の譲歩をしている。忠国と好久の対立は解決されたものの、家中の掌握には失敗して家臣の反抗を招き、事実上の引退に追い込まれた[10]。 10代・島津立久の時代には応仁の乱が勃発し、島津氏は東軍に属した(但し派兵せず)。11代の島津忠昌は桂庵玄樹を招聘して薩南学派を起こすなど学問を好んだが、領国内の一族・国人が立て続けに挙兵したため、世を儚んだ忠昌はついに自害して果てた。その後も12代・島津忠治、13代・島津忠隆が継承したが、いずれも早世したため、国内の島津氏一族・国人、大隅の肝付氏、日向の伊東氏を押さえることは叶わず、守護家の島津氏は全く弱体化してしまっていた。 室町時代後期室町時代後期に入ると、領域内各地の国人や他の島津一族による闘争が加速化され、さらに薩摩大隅日向守護家は衰退する。 そして島津氏一族の中から相州家の島津貴久と薩州家の島津実久が台頭して他家を上回った。 貴久は一時期、薩摩大隅日向守護家の14代・忠兼(後の勝久、12代・忠治、13代・忠隆の弟)の養子として迎えられる。しかし勝久は実久に誑かされ、守護復帰を目論んで貴久との養子縁組を解消した。ただし、近年の研究では傍流から当主になった勝久と重臣達の確執の存在や勝久に反発する重臣たちの中には貴久や実久を擁立する動きがあったこと、実久が一時期守護家当主および薩摩大隅日向守護として迎えられて国内をほぼ掌握していた時期が存在したことが明らかになっている[11]。 その後、勝久は実久により薩摩を逐われて、母方の実家である大友氏を後ろ盾として頼み豊後国へと亡命する。 貴久は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。前述の研究では、この際に実久が重臣たちの擁立によって勝久に代わって守護に就任した事実は消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。 戦国時代から安土桃山時代15代・貴久(相州家出身)は内城を築き、修理大夫に任ぜられた。また、嫡男(後の義久)に13代将軍・足利義輝より偏諱を受けている。貴久の嫡男である16代・島津義久の代には、日向の大名であった伊東氏を駆逐し、戦国大名として薩摩国・大隅国・日向国の三州再々統一を成し遂げた。 1578年(天正6年)以降、幕府の鎮西管領であった豊後国の大名・大友宗麟は日向領に征討を繰り返したが、これに対して義久は自ら出陣し、九州雌雄を決した耳川の戦いでは圧倒的な勝利を収め、大友軍を撤退させた。大友氏はこれにより九州北西部での勢力を減じ、大友氏が菊池氏に代わり守護となっていた肥後国でも、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じた。義久は天草五人衆を従属させ宇土半島の阿蘇氏を駆逐して名和氏・城氏への支援路を確保し、九州北部制覇への足掛かりを築いた。さらに1581年(天正9年)には人吉藩の相良氏を降伏させた。 肥前国では大友氏が勢力を落としたのち、戦国大名・龍造寺隆信が強大な勢力を誇っていた。この龍造寺氏に圧迫されていた大名・有馬晴信もまた、島津義久に助力を求める書状を送る。1584年(天正12年)、義久は末弟の島津家久に全軍指揮を任せ肥前島原半島に派遣。家久は沖田畷の戦いでは龍造寺軍を戦巧な戦いで撃破し大将隆信の首を討ち取るという殊勲をあげる。沖田畷の戦い以後、大友氏から龍造寺氏へと鞍替えしていた九州北部の豪族達が島津氏方に転じ、残る肥後国北中部の阿蘇氏、またその被官である甲斐氏の拠点を陥落させた(豪族としての矢部氏・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興)。島津軍が瞬く間に九州全土に快進撃を行えたのは、戦略性を持つ統制の取れた機動力と戦術眼、また鉄砲の存在、それを実戦で培い磨き上げた高度な鉄砲戦術が大きかったと考えられる。 1586年(天正14年)には、義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)や優秀な家臣団を使いこなし、大友氏の本拠である豊後国にも侵攻した。臼杵城における丹生島城の戦いでは、大神氏庶流の武宮親實のフランキ砲戦術により家久が撤退したが、島津氏は筑前国・豊後国の一部を除く九州の全土を手中にし、最大版図と勢力を築くこととなった。また、この侵攻の際に豊後で捕らえた人々の一部は肥後で奴隷として売買された[12]。 しかし、義久らは豊臣秀吉の停戦命令に服さなかったことから、大友宗麟の嘆願による秀吉の九州平定を受ける。九州平定の前哨戦となった戸次川の戦い等では、島津軍は圧倒的な勝利を収める。豊臣連合軍が一方的な敗北を期したことから、秀吉は第二波の攻防では自ら出陣する決心をし、朝廷での関白の地位を利用し[注釈 5]、40か国に近い諸国から25万人もの大量兵力を動員した。義久は秀吉軍の日向からの侵攻を予想して日向口に主力部隊を配備したが、秀吉軍が意に反し薩摩北西部の肥後口から侵攻してきたため、領国内が戦乱の渦に巻き込まれる総力戦を避け、止む無く降伏を決断したとされる。 その後、根白坂の戦いでの敗北を経て、木食応其の仲介のもと降伏する。島津荘領主である近衛前久による仲介や交渉の結果、本領である薩摩・大隅2か国・日向諸県郡は全所領が安堵された。 朝鮮の役では、乱妨取りした男女の返還を要請する秀吉の朱印状を受け取りながらも、明・朝鮮連合軍との泗川の戦いなどの目覚しい勝利を賞賛され、豊臣政権から特別となる5万石の加増を受けることになる[注釈 6]。これにより、島津家は56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)から61万石余となり、徳川氏(255万石)・上杉氏(120万石)・毛利氏(112万石)・前田氏(84万石)[13]に次ぎ、島津氏は九州全制覇を目前にして豊臣秀吉と交戦しながらも宇喜多氏・伊達氏を抜き、豊臣政権下で第5位の地位に就く大大名となる[14]。 江戸時代関ヶ原の戦いでは、島津義弘は行き違いで西軍に属し徳川家と敵対関係に陥るも、島津家の最高実力者である島津義久は徳川家康と約3年に及ぶ戦後交渉にあたり武備恭順の態度を取り、近衛信尹や家康側近の井伊直政や山口直友など強い擁護もあって全所領安堵を認めさせる。以降、薩摩藩として幕藩体制に組み込まれることとなる。また分家により日向佐土原藩3万石が成立した。大坂の陣では2度とも合戦には参加せずにいたが、島津氏により関ヶ原の戦いで敗れた西軍副大将だった宇喜多秀家が薩摩で匿われていた経緯から、島津氏を頼って戦死したはずの豊臣秀頼や真田幸村が秘かに大坂を脱出して九州薩摩に向かったという噂が京の都や大坂で信憑性を持って流れた。江戸時代初期には徳川家康の了解のもと、初代薩摩藩主・島津家久(忠恒から改名。叔父の中書・家久とは別人)は琉球へ侵攻して奄美群島を領有し、琉球王国を支配下に置いた。島津家では藩独自の検地が数回実施され、前田家(102万石)[15]・長沢松平家(75万石)に次ぐ徳川政権下で第3位(松平忠輝の改易後は前田家に次ぎ第2位)、72万石余の大藩となる。その後、石高の高直しなどにより、表高は77万石となる。薩摩守の官名を独占し(斉興など大隅守も使用)、従四位上左近衛権中将が極官となった。 幕藩体制下にあっては、宝暦治水に代表される老中による弱体化政策など圧迫を受ける一方で、徳川綱吉養女・竹姫が島津継豊の継室として嫁いで以降は、寔子(11代将軍・家斉正室)、敬子(篤姫、13代将軍・家定正室)と将軍家と婚姻を通じ、縁戚関係を深めることたびたびであった[注釈 7]。島津家は武家でありながら、江戸時代265年通し将軍家御台所を二人も出したことは異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため、継嗣問題などへ介入されることがなく、幕府との関係は友好的かつ安定的に推移した。 幕末に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代・島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した(集成館事業)。参預会議の失敗で薩摩藩はそれまで推進してきた公武合体や公議政体などの幕府改革路線(島津幕府)を捨て、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら29代・島津茂久(忠義)は、外様で反徳川の毛利家と薩長同盟を結び、倒幕の中心となる。 明治以降維新後、島津氏から出た華族家は公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家の合計14家にも及び、この数は松平氏(29家)に次ぐ[3]。 島津公爵家(宗家)最後の薩摩藩主・島津忠義は、明治2年(1869年)6月17日に版籍奉還にともなって鹿児島藩知事に転じるとともに華族に列した[16]。前年の戊辰戦争における戦功により忠義とその父・久光に対して賞典禄10万石が下賜された。加えて忠義には函館の戦功により3年間の年限禄として1万石が下賜された[17]。10万石は賞典禄の最高額であり、島津家と長州藩主・毛利家(敬親と元徳父子)のみに与えられた最大恩賞である[18]。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[16]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で3万1400石[19][注釈 8][20]。 明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と賞典禄(実額1万2500石[注釈 9])の合計4万3900石との引き換えに支給された金禄公債の額は132万2845円98銭5厘の巨額に及び、全受給者の中で最も高額だった[22][21]。明治前期の頃の家令は内田政風、家扶は東郷重持、武宮俊雄[23]。 明治10年(1877年)に華族たちによって第十五国立銀行が創設された際も島津忠義は7673株を保有して最大の株主になっている[24]。土地開拓に加え、鉱山経営も熱心に行っていた[25]。 島津宗家の東京の邸宅は、明治初期以来東京市品川区五反田袖ヶ崎にあり[17]、明治12年(1879年)には同地に和館を建設した[26][17]。明治14年(1881年)には同邸に明治天皇の行幸があった。左大臣・有栖川宮熾仁親王、右大臣・岩倉具視の他、伊藤博文・黒田清隆・大隈重信など主要参議も招待を受けて天皇に随行して訪問し、忠義は自ら弓を取って弓術を天覧に供している[27]。 明治17年(1884年)7月7日制定の華族令により華族が五爵制になると、忠義は最上位の公爵に列せられた。叙爵内規上島津宗家の家格のみでの爵位は旧大藩知事(現米15万石以上)として侯爵だったが[28]、維新への多大な功績が加味されて公爵に列せられた[29]。また忠義は従一位勲一等に叙せられた[30]。 忠義は外国嫌いで知られ、明治22年(1889年)2月11日に明治宮殿で行われた憲法発布式でも、一人だけ丁髷(ただし着ているのは洋服だった)という時代錯誤な髪型で出席し、そのことを東京帝国大学医学部教授にして皇室の侍医でもあるエルヴィン・フォン・ベルツ博士に「珍妙な光景」として書き留められている[31]。しかし、明治24年(1891年)5月6日には忠義が自ら買って出て、訪日中のロシア皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)を鹿児島の邸宅(仙巌園)に招待し、旧臣の老武士170人とともにニコライを迎えた。旧臣たちは先祖伝来の甲冑を身に着けて侍踊りを披露し、忠義自身は犬追物を披露した。皇太子に随伴していたエスペル・ウフトムスキー公爵は「封建主義の残滓」として、これに不快感を覚えているが、ニコライ皇太子は楽しんでいた。ニコライと島津家の友好はその後も数年間維持された[32]。 忠義の四女・常子は山階宮菊麿王妃 、七女・俔子は久邇宮邦彦王妃となっている[33]。俔子妃は香淳皇后(昭和天皇皇后)の生母にあたるため、125代明仁天皇(現上皇)以降の天皇は彼女の子孫である[34][注釈 10]。 明治30年(1897年)に忠義が死去、維新の功により国葬に付せられた。先立って明治20年(1887年)に死去した父・久光も国葬に付されている。旧大名で国葬を許されたのは、忠義と毛利元徳の2人のみである。長男の忠重が公爵位と家督を相続。忠重は少将まで昇進した海軍軍人で、海軍大学校教官、海軍砲術学校教官、海軍軍令部参謀、在英大使館付武官、海軍軍艦政本部造船造兵監督長などを歴任した[30]。忠重の夫人伊楚子は、明治天皇の侍従長として知られる徳大寺実則公爵の六女である[33]。 明治31年(1898年)の日本国内の高額所得者ランキングによれば忠義の年間所得は21万7504円に及び、5位にランクインしている(旧大名華族でこれより上位なのは3位の前田侯爵家(26万6442円)のみ)[36]。 忠重は父・忠義と違って外国嫌いではなく、むしろ滞在経験のある英国の生活に親しみを覚えていた[27]。そのため、袖ヶ崎の和館が老朽化した後、明治39年(1906年)には日本政府の招きで来日し工部大学校建築学科教授を務めていた英国人ジョサイア・コンドルに洋館の設計を委嘱。その後、数度の設計変更を経て、大正4年(1915年)に竣工が開始されて大正6年(1917年)に島津公爵邸となる洋館が完成した[26]。 完成した洋館は煉瓦造2階建て、地下1階、建坪約280坪の邸宅であり、外壁は白タイル張りで古典的なルネサンス風である。ホールを中心として、一階に書斎、客室、大客室、大饗宴室などの接客用諸室が置かれ、二階に寝室、夫人室など私的な空間を儲けている[27]。同邸は完成直後の大正6年(1917年)5月にも大正天皇・貞明皇后の行幸啓を賜った[27]。 当初の敷地は2万8000坪あったが、昭和恐慌で維持が困難になり、昭和4年(1929年)に8000坪を残して他を売却している[26]。第二次世界大戦中には戦争の激化で大邸宅の維持も困難になり、日本銀行に売却している[27]。 なお、日本銀行の手に渡った洋館は、米軍占領中に駐留軍の宿所に利用されたが、昭和36年(1961年)7月に清泉女子大学が日本銀行からこの土地と建物を購入し、現在まで同大学の校舎として使用されており、邸宅は現在「旧島津家本邸」として重要文化財に指定されている[26][27]。 忠重は、鎌倉にも別邸を所有していた。明治33年(1900年)に鎌倉・長谷に最初の別荘を建築し、明治42年(1909年)に忠重の勤務先が横須賀になったことから、明治43年(1910年)4月からここを本邸とし、明治45年(1912年)5月には新築した鎌倉・一ノ鳥居の別荘へ移り、大正7年(1918年)までここを本邸とした。その後、忠重は東京へ戻ったので一ノ鳥居邸は純然たる別荘に戻ったが、大正12年(1923年)の関東大震災の際に2階部分が倒壊し、忠重を除いた一家全員が下敷きになったが、奇跡的に全員無事だった[37]。 また、忠重は富士五湖の河口湖にも別荘を欲しがり、大正2年(1913年)に弟の忠備男爵と書生の川上四郎を連れて3泊4日の下見旅行をしているのが確認できる。同別荘の完成日は明確でないが、忠重の日記によれば大正6年(1917年)夏に最初に避暑で同邸に行っている。二度の渡英の後、昭和8年(1933年)からはほとんど毎夏のように行っている。戦時中はドイツ大使館の参事官が借りていたが、米軍占領下で華族たちに多額の財産税が課せられた際、その納付のために売却した[37]。 忠重の長男・忠秀は、アユを専門とする水産学者だった[38]。 なお、島津宗家からは、明治4年(1871年)に忠義の父・久光を祖とする玉里島津家(公爵家)が分家し、また明治26年(1893年)に忠義の五男・忠備、明治29年(1896年)に同六男・忠弘を祖とする分家の男爵家が2家誕生している[39][40](→#島津男爵家(忠備)、#島津男爵家(忠弘))。
島津公爵家(玉里)→詳細は「玉里島津家」を参照
当家は島津宗家の分家である。家祖島津久光は、宗家の島津忠義公爵の父だが、明治4年(1871年)9月に島津宗家から分家して別戸を編製し、維新の功によって宗家と別に華族に列せられた。島津家に下された賞典禄の半額は久光に分賜されており、明治9年(1876年)にその賞典禄(実額1万2500石)と引き換えに支給された金禄公債の額は37万6664円37銭5厘(華族受給者中16位)[41]。明治17年(1884年)に華族令が施行されると、久光の維新の功により宗家と同じ公爵家に列せられた[42]。 なお、玉里島津公爵家からは、明治29年(1896年)に久光の四男・忠欽を祖とする分家の男爵家が創立されている[39][40](→#島津男爵家(忠欽))。 島津伯爵家最後の佐土原藩主・島津忠寛は、明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還にともなって佐土原藩知事に転じるとともに華族に列した[43]。前年の戊辰戦争で宗家を支えて偉功を挙げ、賞典禄3万石を下賜された[44]。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事に在職した[43]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で1813石[19][注釈 8][20]。 明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と賞典禄(実額7500石)の合計9313石との引き換えで支給された金禄公債の額は、20万3855円24銭(華族受給者中31位)[45]。 明治前期の忠寛の住居は東京市芝区にあり、当時の家令は田村兵一、家扶は惟吉総平[46]。 明治9年(1876年)9月16日に忠寛が隠居、長男の忠亮が家督を相続した[47]。 明治17年(1884年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると、翌8日に旧小藩知事[注釈 11]として忠寛が子爵に列せられた[49]。さらに明治24年(1891年)4月23日には、父・忠寛の維新の功により、伯爵に陞爵[19][44]。 忠亮は貴族院の伯爵議員に当選して務めた[47]。 明治42年(1909年)に忠亮が死去し、長男の忠麿が爵位と家督を相続。彼も貴族院の伯爵議員に当選して務めた[47]。 大正15年(1926年)に忠麿が死去した後、長女の随子の夫である久範(宗家の島津忠義公爵の七男)が婿養子として爵位と家督を相続。彼は式部官や内大臣秘書官を務めた[47]。 昭和天皇第5皇女である清宮貴子内親王は久範の末男・島津久永に嫁いでいる[44]。 なお、島津伯爵家からは、明治42年(1909年)に忠亮の次男・健之助を祖とする分家の男爵家が創立されている[39][40](→#島津男爵家(健之助))。 島津男爵家(忠備)当家は島津宗家の分家である。島津忠義公爵の五男・忠備が、明治26年(1893年)3月に分家して別戸を編製し、父の維新の功により華族の男爵に叙せられたのに始まる[50]。 忠備は、米国留学後に農商務省の東京工業試験所技師として勤務し、またキシライト会社監査役を務めていたが、昭和3年(1928年)に死去、長男・備愛が男爵位と家督を相続した。備愛は理学博士号を取得して海軍技術大尉であった[50][51]。備愛の代の昭和前期に男爵家の住居は神奈川県鎌倉町二階堂にあった[51]。 島津男爵家(忠弘)当家は島津宗家の分家である。島津忠義公爵の六男・忠弘が、明治28年(1895年)9月に分家して別戸を編製し、父の維新の功により華族の男爵に叙されたのに始まる[42]。 忠弘は、岩倉友定公爵の五女・季子と結婚し、宮内省で式部官や主猟官を務めたが、大正11年(1922年)に死去し、長男の斉視が男爵位と家督を相続[42]。斉視は久邇宮朝融王第2王女の朝子と結婚[42]。 島津男爵家(忠欽)当家は玉里島津公爵家の分家である。島津久光公爵の四男・忠欽は、はじめ今和泉島津家を相続していたが、明治29年(1896年)に至って玉里島津公爵家の戸籍に戻り、同年12月に父の維新の功により華族の男爵位を与えられ、一家創立を行った[52]。 忠欽が大正4年(1915年)に死去した際、忠欽の嫡男・雄五郎は先立っていたため、嫡孫(雄五郎の長男)の忠夫が男爵位と家督を相続。忠夫は昭和5年(1930年)に隠居して分家したため、忠夫の長男の忠正が男爵位と家督を相続した[53]。 島津男爵家(健之助)当家は島津伯爵家の分家である。島津忠亮伯爵の次男である健之助は、明治42年(1909年)12月に分家して別戸を編製し、祖父である忠寛の維新の功により、華族の男爵位を与えられた[54]。 健之助は昭和12年(1937年)に死去し、長男の久健が男爵位と家督を相続[54]。 島津男爵家(重富)→詳細は「重富島津家」を参照
島津男爵家(今和泉)→詳細は「今和泉島津家」を参照
島津男爵家(加治木)→詳細は「加治木島津家」を参照
島津男爵家(日置)→詳細は「日置島津家」を参照
島津男爵家(垂水)→詳細は「垂水島津家」を参照
島津男爵家(宮之城)→詳細は「宮之城島津家」を参照
島津男爵家(都城)→詳細は「都城島津家」を参照
歴代当主
17代当主について島津義弘を第17代当主とする史料の初出は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』と考えられている[注釈 12]。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ「義弘=17代当主」という認識が定着していった。また秀吉の九州征圧後、義久に大隅を、義弘に薩摩をそれぞれ蔵入地として宛がったことも義弘が当主であるという認識を補強する材料となった(島津=薩摩という印象から、「薩摩を与えられたのだから当主なのだろう」という見方ができる)。 しかし、1980年代に入ってから、島津家当主の証しである「御重物」の研究が西本誠司によって進み[57]、当主の地位が義久から忠恒に直接譲られていることが判明すると、義弘は17代当主ではなかったという学説が山口研一や福島金治ら多くの研究者に支持されるようになった[11][58]。以降、義弘は「当主であった説」と「当主ではなかった説」が並列するようになった。 なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では系図重視の観点から義弘を第17代当主と認定していたが、2004年に尚古集成館文化財課長で鹿児島大学法文学部非常勤講師の松尾千歳も義弘は当主ではないとする論文を発表した[59]。なお、現在も続く当の島津宗家および当の尚古集成館自体は2016年の現在も義弘を17代当主としている[56]。 また、島津氏の家督相続に関しては、室町時代中期に島津忠国が一時期に弟の用久(持久)に家督を譲っていたものの最終的に家督を取り返したとする新名一仁の説[9]や戦国時代に島津勝久を追放した薩州家の島津実久が宗家重臣の支持を受けて家督を一時相続したとする山口研一の説[11]が出されており、島津宗家および尚古集成館の見解とは異なる変遷像が描かれつつある。 系譜
島津氏の人物島津氏族島津氏の系統には以下がある。 被官の格分け島津家の被官は、その家格により三つに呼び方が分けられていた。 一番格上は御一家(ごいっか)と称される島津の有力庶家で、相州家・薩州家・豊州家などに加え、伊作氏・新納氏・北郷氏などもこれに類された[60]。また、6代氏久が子の元久に対し、「宗家と御一家の間に身分の上下は無く、特に和泉・佐多・新納・樺山・北郷の各氏は御教書を与えられた家であり、上下はないと心得るよう」言い含めており、少なからず元久の代まではそのような関係が続いていたようである[60]。 続いて御内(みうち)と呼ばれる譜代被官・直属被官であり、初代忠久に従い九州へ下向した者、南北朝時代までに被官化された中小在地領主、若しくは御一家・国衆の庶家で、独立した所領を持たず被官となった者などがこれに類された[60]。 続いて国衆(くにしゅう)または国方(くにかた)と呼ばれる者で、郡司や地頭などの国人領主を指す。土持氏や伊東氏もこれに類されていた[60]。 公式署名に見える「姓」公式文書署名は、島津家当主が足利尊氏の猶子となる室町時代初頭では「惟宗朝臣○○」、戦国時代から新田流源氏を名乗るまでは、近衛家の庶流として「藤原朝臣○○」と署名していた。江戸時代に入り徳川家の「松平」の名字を与えられ以後、幕府の公式文書などでは「松平薩摩守(変動有)○○」と書かれる(江戸時代中期以降、内部の公式文書などにおいては「源朝臣○○」と署名した)[注釈 17]。 家紋島津氏の定紋に使用された図案は、島津十文字(筆文字の十文字)、「丸に十の字」、「轡十字」などがある。いずれも十文字紋であり、轡紋や久留子紋とは区別される。替紋に「島津牡丹」(近衛家より拝領)や「五三桐」を使用する。また、『蒙古襲来絵詞』には十文字の上に鶴丸紋を描いた、島津久経の幟が描かれている[62]。信濃島津氏の長沼家の「轡十字」については「轡」として『米府鹿子』に載る。 十文字の起こりについては諸説あり、2匹の龍を表したとするもの(『島津国史』)[63]、奥州征伐の際、初代・忠久へ源頼朝が2本の箸を取って十字を作り、これを島津の紋にさせたとするもの(『西藩野史』)[63]、鎌倉時代に中国伝統の呪符の影響で、災いから身を守り福を招くため十字を切る風習があり、それを家紋とした(『日本紋章学』)[63]など、様々な方面から島津家の環十字について考察がされている。 室町中期に編纂された『見聞諸家紋』には島津十文字が掲載されているが、江戸時代初期の『寛政重修諸家譜』に掲載されている丸に十字(轡十字)の図案や「丸に十の字」の図案が定紋として使用されている。「関ヶ原合戦図屏風」(津軽家本)には島津十文字を描いた義弘の旗が描かれているが、豊久の旗には轡十字が描かれていることから歴史研究家の大野信長は、関ヶ原の合戦が行われたこの時期が筆文字の十文字から轡十字への変遷時期だと推測している[64]。中世、フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のため日本初来訪となる鹿児島に訪れた際、領主である島津氏の家紋が「白い十字架」だったことに驚愕した、という記録が残る[65]。
島津氏縁故社寺・菩提寺
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |