ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー
『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(SOLID STATE SURVIVOR) は、YMOの2作目のアルバム。または同アルバムに収録されている楽曲。1979年9月25日にアルファレコードからリリースされた。 先行シングルはなく、後に「テクノポリス」(1979年)、「ライディーン」(1980年)がシングルカットされた。 前作『イエロー・マジック・オーケストラ』(1978年)が日本国外でのリリースが決定した事で、国外でのリリースを意識して制作されている。 オリコンチャートでは最高位1位を獲得、日本国内での売り上げは累計で102.1万枚を記録、また第22回日本レコード大賞において、優秀アルバム賞を受賞している[2]。 YMOの名を世界的に轟かすことになったアルバムとして知られている。 背景前作『イエロー・マジック・オーケストラ』がアメリカ合衆国でリリースされる事が決定し、リミックスに際して細野は1979年2月12日から2月16日までロサンゼルスに滞在する事となった[3]。 その後、2月25日には細野の曲「ジャマイカ・ジンジャー」と坂本の曲「ドラグーン」が収録されたアルバム『ハイフォニックス ハイフォニックス』、坂本と高橋が参加した越美晴のファーストアルバム『おもちゃ箱 第一幕』がリリースされ、3月21日には細野と高橋が参加した古谷野とも子のアルバム『フロム・インサイド』がリリースされた[3]。 4月5日には大阪厚生年金会館にて開催された矢野顕子のライブに細野、坂本、高橋が参加、同月24日から27日までは六本木ピットインで開催された矢野のライブに3人とも参加し、1978年に3人が参加した際の矢野のライブアルバム『東京は夜の7時』がリリースされた[3]。 5月3日から開始された渡辺香津美のライブツアー「KYLYN」に坂本が参加[3]。同月17日には坂本、高橋が参加した渡辺のシングル「TOKYO JOE」がリリースされ、21日には3人がイエロー・マジック・オーケストラ(以下、YMO)名義で初参加した近田春夫のアルバム『天然の美』、その他にも3人が参加した作品として、Makoto Highland Bandのアルバム『INJECTION』、クレスト・フォー・シンガーズのシングル「サンタナへの道」、佐藤博のアルバム『ORIENT』がリリースされた[3]。25日には再びYMO名義で参加した朝比奈マリアのアルバム『MARIA』がリリースされた他、坂本が参加したサーカスのアルバム『ニューホライズン』、松原正樹のアルバム『Take A Song』がリリースされた[3]。さらに30日にはYMOのファーストアルバムならびにシングル「コンピューター・ゲーム」がアメリカ合衆国にて同時リリースされた[3]。 6月にはイギリスにてファーストアルバムおよびシングル「イエロー・マジック(東風)」がリリースされた[3]。1日には細野と高橋が参加したオムニバスアルバム『エーゲ海』、坂本と高橋が参加した桑江知子のファーストアルバム『Born Free(野性に生まれて)』がリリースされた[3]。18日には六本木Beeにて業界関係者と後にヨーロッパ・ツアーに同行する事となるスタッフを集めてライブを開催し、A&M所属アーティストを手掛けたニール・ワンノフが同ライブを視察した[3]。21日にはYMOメンバーが参加した坂本龍一&カクトウギ・セッションのアルバム『サマー・ナーヴス』と南佳孝のアルバム『SPEAK LOW』がリリースされた[3]。23日には六本木ピットインにて「カクトウギ・セッション」の第一回が開催され、YMOメンバー全員が参加予定であったが細野が急病のため坂本と高橋だけの参加となった[3]。25日には坂本と高橋が参加した渡辺香津美のアルバム『KYLYN』、高橋が参加したサディスティックスのラストアルバム『The Last Show』、細野と高橋が参加したブレッド&バターのアルバム『Late Late Summer』、酒井俊のアルバム『MY IMAGINATION』がそれぞれリリースされた[3]。 7月21日には細野と高橋が参加した松任谷由実のアルバム『OLIVE』、坂本が参加した井上敬三のアルバム『インティメント』、富樫雅彦+高橋悠治のアルバム『トウワイライト』、高橋拓也のアルバム『Feel So Cool』がそれぞれリリースされた[3]。25日には前作『イエロー・マジック・オーケストラ』のアメリカ盤が逆輸入の形で日本にてリリース[3]。26日、27日には六本木ピットインにて開催された「カクトウギ・セッション第2戦・第3戦」に予告なしでYMOとして出演し3曲を披露した[3]。 8月2日から4日までの3日間は、ロサンゼルスのグリークシアターにて開催されたザ・チューブスのライブに前座として参加、サポートメンバーとして渡辺香津美、矢野顕子、松武秀樹が参加した[3]。このライブでは観客から予想以上のリアクションがあったという[3]。同月6日にはロサンゼルスのクラブ「マダム・フォン」に出演[3]。31日、翌9月1日には六本木ピットインにて開催された「矢野顕子2Days」のサポートとして坂本、高橋が参加した[3]。10日、11日には中野サンプラザにて開催されたザ・チューブスの来日公演に前座として参加、さらに13日、14日には郵便貯金ホールにて開催された同バンド公演の前座として参加した[3]。 録音本作のレコーディングは1979年3月2日より開始され、およそ3ヶ月の期間を要して制作された[3]。 このアルバムでは初めてコンピュータによるオート・ミックスを試みている。しかし、当時は精度が悪く、録音に時間がかかりすぎたこともあり、後のアルバムでは手動のミックスに戻している。当時のトラックシートの24トラック目に「Timing Code」と書かれている曲が多いが、これはコンピュータ・ミックス用の信号のことを指している[4]。
音楽性前作のA&Mミックスを制作した翌月から録音を開始。前アルバムを制作した勢いを維持した状態であった。坂本龍一と高橋幸宏は意識がイギリスにあったこと、高橋が自分の意見を言うようになったこともあり、フュージョンやオリエンタル・ディスコミュージックの要素が一掃され、ニュー・ウェイヴ色が強くなり[5]、その点で当時のイギリスにおける音楽状況の変化が作風に現われている[6]。 当初、アルバムタイトルは「メタマー」(突然変異を意味する「Metamorphose」の造語)と付けられていた[3]。「メタマー」に関して細野は「YMOのテーマはメタ・ポップス」と語っており、この言葉は「ミューテート(変異)とポップス」を組み合わせた造語であった[3]。 本アルバムは日本においてテクノポップという一ジャンルの先駆けとなり[6]、その後「YMOチルドレン」と呼ばれるミュージシャンたちに多大な影響を与えたが、制作当時のYMOにそのような気負いはなく、単にスタジオでの音作りを楽しんだだけのつもりだった[6]。この頃からクラフトワークやYMOを指して「テクノ」「テクノポップ」というキーワードが使われ始め、細野はようやく「ああ、(自分たちは)そうなんだ」と気がついたという[6]。また本作は商業的な成功を狙っていたわけでもないため、リリース後ワールド・ツアーに出ていたYMOは、ツアー先で日本国内での本作のヒットの報を聞き驚いた。細野は「そういうことを意識しないほうが面白くできるから」とむしろ困惑したと回想している[6]。 リリース1979年9月25日にアルファレコードよりLPレコード、カセットテープの2形態でリリース。 初回プレスはクリアーレコード仕様(イエロー)。1982年にはイギリス、1992年にはアメリカ合衆国にてリリース。 1984年4月25日に初CD化。その後1987年3月25日、1992年3月21日、1994年6月29日とCDのみ再リリース。 1998年1月15日には紙ジャケット仕様、1999年9月22日には細野監修・小池光夫がライナーノーツを担当したリマスタリング盤、2003年1月22日には坂本監修による初回プレスのみ紙ジャケット仕様(音源は1999年発売分使用)、2010年9月29日にはブルースペックCD、2018年11月28日にはSACDハイブリッドとしてそれぞれ再リリース。 ツアー本作リリース後、1979年10月16日のベニュー(ロンドン)での公演を皮切りに、全世界6都市9公演のワールド・ツアー「YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR」を行っている。このツアーでの模様が後にライブ・アルバム『パブリック・プレッシャー』(1980年)としてリリースされている。 批評
称賛/栄誉1980年の第22回日本レコード大賞において、優秀アルバム賞を受賞。 本作は107.0万枚を売上[6]。1982年CD発売前のミリオンセールスアルバム(オリコン集計)は、本作を含め4作[注 1]。 チャート成績オリコンチャートではLP、CT共に最高位1位を獲得。LPは登場回数82回、CTは登場回数65回。売上枚数はLPで76.6万枚、CTで25.5万本、累計で102.1万枚。 収録曲
曲解説A面
B面
スタッフ・クレジットイエロー・マジック・オーケストラ参加ミュージシャン
スタッフ
リリース履歴
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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