済南郡済南郡(濟南郡、さいなん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省済南市および淄博市一帯に設置された。 概要紀元前164年(前漢の文帝16年)、劉辟光が済南王となり、済南国が置かれた。紀元前155年(景帝2年)、済南王劉辟光が呉楚七国の乱に参加して殺害されると、済南国は廃止されて、済南郡に改められた[1]。済南郡は青州に属し、東平陵・鄒平・台・梁鄒・土鼓・於陵・陽丘・般陽・菅・朝陽・歴城・猇・著・宜成の14県を管轄した。『漢書』によれば前漢末に14万761戸、64万2884人があった[2]。 王莽のとき、楽安郡と改称され[3]、代わりに元の斉郡が済南郡と改称された[4]。 後漢が建てられると、済南郡の称にもどされた。光武帝の皇子の劉康が、39年(建武15年)に済南公となり、41年(建武17年)に済南王となると、済南国が置かれた[5]。済南国は東平陵・著・於陵・台・菅・土鼓・梁鄒・鄒平・東朝陽・歴城の10県を管轄した[6]。 晋のとき、済南郡は平寿・下密・膠東・即墨・祝阿の5県を管轄した[7]。 南朝宋のとき、済南郡は歴城・朝陽・著・土鼓・逢陵・平陵の6県を管轄した[8]。468年(泰始4年)、北魏の慕容白曜が歴城を占領し、済南郡は北魏の統治下に入った[9]。 北魏のとき、済南郡は斉州に属し、歴城・著・平陵・土鼓・逢陵・朝陽の6県を管轄した[10]。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、済南郡は廃止されて、斉州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、斉州は斉郡と改称された[11]。 618年(武徳元年)、唐により斉郡は斉州と改められた。742年(天宝元年)、斉州は臨淄郡と改称された。746年(天宝5載)、済南郡と改められた。758年(乾元元年)、済南郡は斉州と改称され、済南郡の呼称は姿を消した[12]。 脚注 |