西陽郡西陽郡(せいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋初にかけて、現在の湖北省黄岡市一帯に設置された。 概要291年(元康元年)、西晋により司馬羕が西陽王に封じられる[1]と、弋陽郡が分割されて西陽国が立てられた。西陽国は豫州に属し、郡治は西陽県に置かれた。326年(東晋の咸和元年)、西陽王司馬羕が弋陽県王に降格される[2]と、西陽国は西陽郡と改められた。 454年(南朝宋の孝建元年)、西陽郡は郢州に転属した。469年(泰始5年)、西陽郡は再び豫州に属した。後に再び郢州に属した。宋の西陽郡は西陽・西陵・孝寧・蘄陽・義安・蘄水左・東安左・建寧左・希水左・陽城左の10県を管轄した[3]。 南朝斉のとき、西陽郡は西陵・蘄陽・西陽・孝寧・期思・義安左・希水左・東安左・蘄水左の9県を管轄した[4]。 575年(南朝陳の太建7年)、西陽郡の郡治が保城に移された[5]。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、西陽郡は廃止された[6]。 脚注 |